Planet-BLUE

073 狂気の形

 トワは震える手を握りしめ、ラビットとルークが消えた霧の中を見つめていた。
 ルークの使っていた能力。
 あれは確かに無限色彩だった。
 だが、本来無限色彩の中でも最強の『青』を持つ彼女ならば無限色彩所持者を一目で見分けることが出来るというのに、今までルークが保持者であるということに気づけなかった。
 何故、と問うまでもない。
 自分は知っているはずだ。彼が、本当は「何」であるのかを。
 トワの脳裏に閃く、白い壁に囲まれた窓の無い小さな部屋のイメージ。白衣を着た人々。苦い薬の入った瓶。鋭い針を持った注射器。
「いや……っ」
 それは、過去の出来事。
 「時計塔」にいたときには夢にも見なかったことだというのに、今になってはっきりと当時の記憶が蘇る。
 当時の自分にはわからなかった、白衣を着た人々の言葉。
 断片的にしか記憶されていないそれが、今になって意味を持つとは思いもしなかった。
『実験体』
『人工的に能力を付与して』
『無限色彩を、作る』
 そう、ルークは正確な意味での無限色彩保持者ではないのだ。
 トワには感じることが出来た。彼の中にあるものは……
 
 
 ぞわり、と。
 霧の中で何かが蠢く感触に、トワは目を見開いた。彼女の目はルークが展開した透明な「殻」をも捉えることが出来ていたが、それが、大きく歪む。
 そして、音も立てずに破裂する。
「っ!」
 その瞬間トワが感じ取ったものは、「狂気」。
 透明な結界としての「殻」がなくなったことで、その中にいるラビットとルークの姿が顕になる。
 その場に座り込んでラビットに虚ろな瞳を向けるルーク。トワに対しては背を向けているラビット。
 逃げろ、と。
 振り向いたラビットの唇が動いたのを見た。
 瞬間、ラビットと対峙しているルークの金色の目がこれ以上ないほどに見開かれる。完全に理性を焼ききってしまったような剥き出しの感情が瞳の中に映し出される。
「ああああああっ!」
 その喉から漏れたのは、人が発した思えないほどの奇妙な咆哮。ラビットは一歩下がり、左手の光の剣を構える。
 だがそれが一体何になるというのか。
 ルークはゆらりと身体を揺らして立ち上がる。もはや彼を守るものは何も無く、これ以上無防備な姿勢は無いというのに、ラビットは一歩もそちらに近寄ることが出来なかった。
 いや、もしかするとラビットにもそれが見えているのかもしれない。
 トワの目には、ルークが黒く渦巻く、禍々しい「何か」を纏っているように見えるのだ。それはやがて、普通ならば目に映るはずも無い形を投影し始める。
 昔、誰かが言っていた言葉が蘇る。
『無限色彩は、ココロの力』
 多分それは、
『その強さは、勿論生まれ持った能力の大きさもあるが……全ては、ココロの中で描くイメージによって決まる』
 「作り物の色彩」であっても同じ。
『そう、強い思いが無限色彩の力に投影される。それは幸福なヴィジョンでも、押さえ切れない怒りの感情でも』
 トワにはわかる。今まさにルークの力……無限色彩が、ルークのココロを喰らって実体化しているということが。
『……耐え難い、苦痛の記憶であろうとも』
 禍々しい黒い「何か」は、いつしかルークの周囲で獣をイメージさせる姿をとっていた。
 言うなればそれは、漆黒の狼。
 ラビットは、また一歩下がる。トワからは背を向けているためその表情は見えない。ただルークを見据えて、構えた剣を振るうことが出来ずにいる。
 そして、ルークは。
「泣いてる?」
 距離は離れていようとも、見える。ルークの両の目からは、ぼろぼろと涙が零れていた。その顔に表情は無く、ただ涙だけが零れ落ちていた。
 これは、何のイメージなのだろう。先ほど一瞬感じた「狂気」とない交ぜになっていてトワにははっきりとはわからないが、おそらく。
「怖い、こと」
 ルークは、恐怖しているのだ。いつも粘着質の笑みを浮かべ自信を崩さなかったこの男が今まさに圧倒的な恐怖の感情を投影しているのだ。
 ルークの唇が、微かに動く。
「……ない」
 ゆらり、と。手に握られた刀が、ゆっくり揺れた。
 瞬間、刀の間合いには程遠い場所にいたはずのラビットの身体が大きく弾き飛ばされた。
「ラビット!」
「来るな!」
 思わず駆け寄ろうとしたトワを、ラビットは反射的に制する。その肩は裂け、血が溢れている。それでもラビットはトワを守るために立ち上がり、表情は崩さないまでもぎっとルークを睨みつける。
 ルークはあくまで虚ろな声で言った。
「死にたく、ない」
「え?」
「死にたくない、死にたくない、死にたくない……でも」
 まるで、子供のような声で。
「 『また』ワタシは、殺される……」
 ラビットは、その言葉を聞いてびくりと震えた。
 『また』?
 トワはその言葉の意味が判らず、目を見開いてルークを見ることしか出来ない。
 しかし、対するラビットは、まるで自分が狙われているということを忘れたかのような呆けた表情で呟いた。
「貴方は、まさか」
「しに、たく、ない……」
 喉を絞めたような声がルークの口から漏れ、無造作にルークは地を蹴った。黒い獣を纏ったそれは、人間離れした動きでラビットに迫る。
 対するラビットは動けなかった。本来視力を失っているはずの赤の双眸で、ルークを凝視するだけで。
 それとも、「動かなかった」のか。
 ずぶり。
 嫌な音を立てて、ルークの刀がラビットの脇腹に埋まる。走る激痛に、ラビットはほんの少し顔を歪めて呻く。
「ラビット、ここはわたしが」
 これ以上ラビットに戦えと言う方が無理だ。
 しかも相手は無限色彩。もはやラビットには止められない相手だが、トワの『青』としての力を持ってすれば、きっとこの場を打開できる。
 トワは一歩足を踏み出した、が。
「何故今まで気づかなかったのだろう」
 ぽつり、と。
 禍々しい気配に包まれたラビットが言う。息は切れ、夥しい量の血液が落ちるが、それでもラビットはルークを見つめて言い放つ。
「貴方も私と同じだったのか」
「おな、じ」
 すでに理性を失っているルークは、ただラビットの言葉を反芻するだけだった。ラビットは目を伏せて、血の気の失せた唇を微かに動かす。
「だから、もう止めてくれ。私にそれを見せないでくれ」
 ルークは動かない。ラビットの腹を貫く刀を握り締めたまま。ぼろぼろと、何故流れているのかもわからない涙を流し続けていた。
 そして、何故か。
 ラビットの目からも、ルークと同じように涙が溢れていた。ラビットの顔に表情は無く、ただ涙だけが零れ落ちる。
「私が、狂う前に」
 ゆっくりとラビットの左手が、振りかざされる。それに気づいたルークは、反射的にラビットに向けて力を振るう。ルークの周囲を取り巻く黒い霧のような気配は、一斉にラビットに襲い掛かる。
「……いや、ラビット!」
 悲痛なトワの叫びは、ラビットに届いたのか。
 黒い狂気に覆われゆきながら、ラビットは目を閉じたまま、青白く輝く剣を振り下ろした。