Planet-BLUE

072 透明な殻

 ふとラビットは目を上げる。
 霧に視界を遮られるまでもなく、元より見えぬこの目をどうしてくれようかとしばし考える。その間にもルークは霧の奥でラビットが動くのを待っていた。
 一歩。
 ラビットは無造作にも思える仕草で足を踏み出す。
 それを察知したルークは即座に魔法を発動させた。
「 『絢爛の妖精王(オベロン)』 」
 前回の戦いでも放った、空中機雷を設置する魔法である。見目こそ美しいが凶悪な破壊の力を伴った金色の蝶がルークを中心に展開し、霧に光を照射する。
「どうするんだね、ウサギさん」
 挑発するような響きで言いながら、ルークは笑う。
 この無数の機雷の接近を防ぐことも出来ず、なす術もなく倒れた前回の繰り返しになるのか。
 ひらりひらりと、本物の蝶のごとき浮遊感を伴って金色の爆弾がゆっくり近づいてくる。
 ラビットは意を決めたように左腕を構えると、瞼を閉じた。唯一感じられた光の感覚すらも瞼に遮られ、視界は完全な闇に包まれる。
 だが、わかるのだ。
 ルークの姿が、その指先が何を掴んでいるのか、そして展開される機雷の数も、何処にそれが配置されているのかも、全てがラビットの脳の中に映し出される。
 行ける。
 ラビットは、勢いよく地を蹴った。
 霧の向こうにルークが見える位置まで一気に駆け抜ける。ルークは目を閉じたままこちらに突っ込んでくるラビットを見て高らかに笑う。
「馬鹿か? また同じ結果だね!」
 この前のように、ラビットにまとわり付こうとする機雷を即座に爆破させようと指を構えるが、その時。
「 『死を喰らう疾風(フレースヴェルグ)』 」
 凛と響くラビットの声が、それに合わせて巻き起こった強風が、蝶を一気にラビットの側から吹き飛ばし、爆発させる。いくら蝶が精神で作り上げた幻であろうとも、それが質量を伴っていれば吹き飛ばせる。
「やるじゃないか」
 ルークはにやりと笑み、刀を構える。ラビットは何度目かの踏み込みと共に、静かに魔法発動のコードを唱える。
「 『闇駆ける神馬(スレイプニル)』 」
 くおん、と。
 奇妙な音を立てて周囲のスピードが遅くなったかの錯覚と共に、ラビットは人間の速度を超える。
 ルークの動きが緩慢に見える。ラビットは左手の刃を突き立てようと独特の構えを作る。
 しかし。
 このスピードについて来れるはずのないルークは歪んだ笑いを浮かべて、こう言った。
「面白いね、シロウサギ。ワタシも本気をだそうかね」
 瞬間、ラビットは反射的に『闇駆ける神馬(スレイプニル)』のもう一つの能力である「空中歩行」を用いて空中へ駆け上がり、ルークの間合いから離れていた。
 背中を走る言いようのない悪寒に、考えるより前に身体が反応した。
「ラビット!」
 その時、霧の向こうから声が聞こえた。
 おそらく、ラビットの後を追ってきたトワのものだろう。ラビットはそれに気を取られすぎないように、ルークの指一本の動きにも意識を集中させながら返す。
「来るな、トワ」
「でも!」
 トワの声は、ラビットの身を心配する響きと同時に、何か言いようもない不可解な感情までも感じさせた。恐怖に似た、非難に似た、それでいてどこか悲しみにも似た、不思議な声。
「わかったの、その人は」
「……大丈夫、誰にも邪魔はさせないね」
 霧の中に響く、ルークの声。
 そして、目を閉じたままのラビットには「見えた」。
 ルークを中心に広がる、目には見えない巨大な「殻」が。
「招待しよう、ワタシの世界に」
「ダメ、ラビット、逃げて!」
 トワの叫び声が遠い。
 そういえば、これとよく似た状況があった。
 『黒』の無限色彩、スズナリ・セツナとの対峙だ。ラビットはセツナの作り上げた闇の空間に閉じ込められ、精神を病んだ。
 その時と、よく似ている。
 ラビットを止めようとするトワの声も、こちらを見る敵の目も、そして確かに感じる冷たい感触も。
「なるほど、貴方も無限色彩保持者か」
 ルークの金色の目が、弧を描く。
「まあ、そこのお姫様とは格が違うがねえ。アンタを殺すには十分だね、シロウサギ」
 この笑みは、悦楽からくるものなのか。
 ルークは明らかに、ラビットを殺すことだけを望んでいるように見えた。本来の、トワを捕らえるという目的すらも一時的に忘れ。
 ラビットは、意識的に口端を歪めた。
 元よりまともに動かない身体を持つラビットが、戦いを望むわけがない。相手は無限色彩保持者、ラビットでは太刀打ちできるような相手ではないはずである。
 強大な敵を相手に、臆病者が恐怖を感じないわけが無い。
 それでも、はっきりと、負けられないと思った。静かな怒りが今の彼を突き動かしていた。
 トワをここで失うことはできない。守ると誓ったものを、今失うわけにはいかない。このような男にトワを奪われるようなことはあってはならない、と絶えず繰り返す。
 それに、相手が無限色彩保持者だというのなら、尚更負けるわけにはいかない。
 自分は、どのような方法を使ってでも、せめて今だけでもこの男に……いや、自分を今まで縛り続けている、『無限色彩』という名の呪縛に勝たなくてはいけないのだ。
 だから、ラビットは不器用に笑う。目を閉じ、左手の剣を構え、自嘲と相手に対する微かな蔑みと同情を口端の歪みに託し。
 
「ならば相手になろう、ルーク」
 
「ラビット……?」
 トワは、予想もしなかったラビットの言葉に目を見開く。霧はトワの視界も遮っていたが、彼女の持つ無限色彩は二人の様子を克明に伝えていた。
 空中に浮かんだままのラビットが、ルークの体から広がっていく透明な「殻」に少しずつ覆い隠されていく。
 すぐに駆け寄ろうと足を踏み出したトワだったが、ラビットの表情を見てその動きは止まる。
 時が止まっているような、作り物を思わせるラビットの顔は、どこかで見た他の何者かによく似ていた。
 貴方は、誰……?
 思いは、声にならず。
 ラビットの姿は、高笑いをあげるルークと共にその場から忽然と消滅した。
 
 
 意識が堕ちる。
 今までいた世界と切り離され、別のどこかに沈み込むような感触。
 べたべたと身体にまとわり付く不快な何か。
 ラビットは目を閉じたまま、この世界の様子を脳裏にトレースする。
 ルークという男のココロと「無限」と称される最強の能力が生み出した、肉体をも取り込む「ココロの世界」。
 現実世界からの干渉を完全に拒絶する透明な「殻」。
 「殻」の内部の風景は、現実世界と変わらない。この「殻」は現実世界との境界線を引くためのものなのだろう。
 だが、身体にまとわり付く何かの感触は消えない。これはおそらく、ラビットへの敵意と、それを殺したときに得られるだろう快楽に震えるルークの「意識」そのもの。
「ここがワタシの世界ね。全てはワタシの思い通り」
 「殻」の中心に立つルークは腕を広げる。握られた刀はぬらりと光を放つ。
「すぐには殺さないさ、生意気なウサギさん」
 ああそうか、この笑い方はチェシャー・キャットに似ているな。
 ルークを眺めるラビットは冷静な頭でとんでもなく場違いな事を考える。
「アンタの苦痛に歪んだ顔と、甘い叫び声を心行くまで楽しまなきゃねえ!」
 ルークは空間的な距離を無視し、一歩でラビットとの距離を詰める。「ワタシの思い通り」の世界では、そのくらい容易いことなのだろう。
 ラビットは顔色一つ変えず、ルークの一撃を左手の剣で受ける。
 ただのアンティークの刀だと思われていたそれは、全てを切り裂くといわれる光子の刃を受けても刃こぼれ一つ起こさない。これも「殻」のなせる業なのだろうか。
 ルークは即座に強烈な二撃目を放つ。ラビットはもう一度剣でそれを受け流そうとするが、非力なラビットの身体は大きく揺らいで後ろへと下がり、背中が「殻」に接触する。
 「殻」はやけに固く冷たかったが、ラビットが触れた瞬間だけ、まるで心音に共鳴するかのようにどくんと波打った。
「絡め取れ」
 ルークの放った指示に従い、「殻」は姿を変える。ラビットが反応する暇も与えず、「殻」から伸びた目に見えない触手がラビットの身体を拘束する。
 ラビットは目を閉じたまま、ルークのいる方向に顔だけを向ける。
 ルークの手に提げられた刀が、揺らめく。
「随分と都合のいい世界だな」
 静かに、ラビットは言った。迫るルークはラビットにチェシャー・キャットと称された笑みを崩さずに答える。
「そうさ。これがワタシの力だからね」
「心象世界の構築……全く、無限色彩というのはかくも恐ろしい力だ」
 ぎり、とラビットを縛る触手に力が入る。
 ラビットはひたり、と感覚の無い右の手の平を「殻」に接触させる。
「しかし、貴方はこの能力の弱点を理解していない」
「なっ」
「 『死呼ぶ神の槍(グングニル)』!」
 ラビットは、強烈な「精神攻撃」の効果を持つ青い光の槍を、「殻」に向けて放った。
「が……っ!」
 「殻」を攻撃しただけだというのに、ルークは頭を押さえてよろりと身体を傾ける。
「心象世界を構築するということは貴方の精神に形を与えて剥き出しにするということだ」
 ラビットを拘束していた触手も、力を失い消滅する。ラビットは頭を抱えて苦悶の表情を浮かべるルークにゆっくりと歩み寄る。
「この世界が精神に働きかける攻撃を受ければ、直接脳に攻撃を叩き込まれるのと同じ。そのくらいわからないのか」
「くそっ!」
 ルークは刀を振るってラビットに切りかかったが、再びラビットは「殻」に向けて青い槍を放つ。一発。二発。その度にルークはよろめき、しまいには膝をつく。
 この世界を解かなくては。
 やっとその事実に思い当たったルークは世界を構築していた意識を解放し、「殻」を壊そうとする。
 が、その隙を見逃すラビットではなかった。
「そこまでだ」
 ラビットは無慈悲なまでにはっきりと宣言し、目を閉じたまま左手の刃を閃かせた。
 ルークの目が、見開かれる。