Planet-BLUE

071 デジャ・ヴュ

 翌日、朝早くにトワと聖がやってきた。ノエルは視力補助装置の修理のために家に残っているが、後でやってくるらしい。
「で、体調の方は平気なのかよ」
「ああ、もう行ける。後は補助装置が直るのを待つだけだ」
 ラビットはベッドの上に腰掛け、髪を後ろで結いながら聖の問いに答えた。不自由になっている右手では髪を上手くまとめることが出来ず、ばらばらと白い髪が肩にかかる。
 見るに見かねたトワが、ラビットに向かって手を伸ばす。
「わたし、やるよ」
「……すまない」
 軽く俯き、ラビットは素直に髪留めの布をトワに預けた。トワは少々ぎこちない手つきでラビットの長い白髪をまとめ、少し考えた末に何故か三つ編みにし始めた。
 そんなラビットとトワを見ながら、聖は眉を寄せて言う。
「なあ、何処が平気なんだよ。……おっさん、本当のこと言えよ」
 純白の糸を編むトワの手が、止まった。ラビットは虚ろな瞳をあげて聖を睨む。だが聖も真っ向からラビットを睨みつけ、乱暴にラビットの右腕をとった。
「この手、どうしたんだよ」
 ラビットは、言われて自分の右手を見る。ここに来てマイカに薬を投与されているために病の進行自体は遅くなっているが、すでに動かなくなった右手は重いままである。
「……本当の、ことか」
 確かに、すでに気づかれているのならば隠す理由もない。それでも、当然真実を告げるのは躊躇われる。
 自分はもうすぐ死ぬのだと。
 この二人に告げるのはいくらラビットでも辛かった。
「私は」
 だが、その言葉の先は、場違いな悲鳴にかき消された。
 マイカの、声。
 そして、ここまで届くノエルの言葉。
 「逃げろ」と。
 ラビットは弾かれたようにベッドから降りると、机の上に置いてあった籠手を手に、トワや聖が止める間もなく病室を出、声が聞こえた方向……病院の玄関口に走った。
 踏み込む足に力が入らない。急に襲い掛かる酷い頭痛がラビットの視界すらも揺らす。
 それでも走った。急がなければ、何もかもが手遅れになるという確信と共に。
 そう長くないはずの白い廊下が無限に感じる。窓の外にも、外が見えないくらいに濃い霧が立ち込めていて、真っ白な空間を作り上げていた。
 そういえば、どこかでこんな場面を見たことがある。
 全てが白い空間。
 自分は何かに駆り立てられるように長い長い白い廊下を走り続けた。
 その時も頭痛が酷かったことは、覚えている。
 ラビットは、やっと廊下の端まで辿り付き、玄関口に通じる角を曲がる。
 瞬間。
 見えないはずのラビットの瞳は、明らかにその場の状況を「捉えて」いた。
 その場に膝をついているマイカ。
 白衣の裾は血に染まっている。
 その血は、誰のものか。
 マイカの前に倒れている、茶色の髪の男。ノエル。肩口を切られ、出血が酷い。このまま放置しておけば手遅れになる。
 では、誰が、これを。
 ラビットは、ゆっくりと頭を上げた。その目の先にいたのは、刀を片手に下げ、ぎらぎら輝く金の瞳を笑みの形にした漆黒の男。
 ルーク。
 右頬の蝶の刺青を歪めて、それは耳障りな笑い声を立てるが、ラビットは聞いてもいなかった。
「おや、ウサギさん。遅かったね」
 白い床。
 真っ赤な液体。
 金色の瞳。
 どこかで、こんな場面を、見たことが……
「このお姉さんが青のお姫様はいないなんて嘘をつくから、ちょっと痛い目にあわせてやろうと思ったんだけどねえ」
 粘着質な言葉も、ラビットの耳には届かない。
 脳裏に浮かぶものは、奇妙な既視感。
 思い出してはいけないと訴える内面と、思い出せと訴える内面との衝突が、頭痛をさらに悪化させる。忘れていた、忘れてはいけなかったはずの記憶が、呼び起こされようとしていた。
 どくん、と。
 胸の鼓動がやけに大きく聞こえる。
 ラビットの異変に気づかないルークは、哄笑しながら呻くノエルの身体を蹴り飛ばす。
「邪魔なんだよ、ね? アンタみたいな力も持たない虫けらを斬るためにワタシがいるんじゃないんだよねえ? わかる?」
 半ば意識が飛んでいるノエルは、抵抗することも出来ず、まさにされるがままである。放心状態になっていたマイカは、やっと我に返ってルークに食って掛かろうとする。
「やめなさい!」
 手を伸ばし、ルークの腕にしがみつこうとするも、ルークはにやりと笑いながら軽く手を振るだけで、マイカの身体を壁に叩き付けた。マイカは咳き込み、身体を曲げて苦痛に顔を歪める。
 これは何だ。
 ラビットは自問する。
 目の前で繰り広げられている凄惨な光景と、過去にあったであろう記憶の中の光景がオーバーラップする。
 傷つけられる、「大切なもの」。
 目の前に倒れ付す、「大切なもの」。
 その先にあったものは……
「やめろ」
 無意識のうちに、声が出た。
 止めなければ、と思った。今ここで止めなければ、自分はまた同じ事を繰り返す。
 ルークは嫌な笑みを浮かべながら、ノエルの血で濡れた刀身を舐める。
「何? やる気かね、ウサギさん」
 ラビットが返したのは、沈黙。
 頭が痛みを越えて熱を訴える。
 何を自分が考えているのか、わからない。
 見えない、聞こえない。
 目の前の男が何を言っているのかも、わからない。
「この前あれだけやったっていうのに、まだ懲りないのかねえ」
 ただ、胸の鼓動だけが耳に響く。絶えず鳴り響くそれに合わせて、心は記憶の奥底に封じ込めた画像を次々にラビットの網膜の裏に焼き付け始める。
 
 そのときわたしのめにうつったものはひとだったものとしろいかべをべったりとぬらしたあかいえきたいとまがまがしいしろいひまくとすべてをかみくだいたあぎととにげてにげてにげてそのさきにあった
『そのときには、わたしと』
 ちいさくて、でもたしかなことば。
 
 かちり、と。
 暴走していた思考が止まる。
 何かがぴたりと嵌ったような、スイッチが完全に切り替わったような、空回りしていた歯車がかみ合ったような、そのような音と共に溢れていた記憶が全て心の奥へと還っていく。
 頭痛は止まない。
 それでも確実に熱は引き、冷静を通り越して凍るような感覚がラビットを支配する。混乱していた思考は、やがて一点へと収束されていく。
 目の前の男は、自分の大切なものたちを傷つけ、さらに守らなくてはいけないものを傷つけようとしている。
 それは、怒りだった。
 純然たる憤怒の感情が、心の底から湧きあがる。
 ルークは刃を揺らめかせ、ラビットを挑発するかのように喋り続ける。ラビットが思考している間もずっと勝手に喋り続けていたのかもしれないし、ラビットの思考自体がそう長い時間に渡っていたものではなかったのかもしれない。
「……だから早く、『青』を渡して」
「黙れ」
 場違いなほど静かに、ラビットは言った。
 一瞬、ルークも、マイカすらも息も止めてラビットを凝視した。唯一ノエルだけが苦しそうに喘いでいる。
 ラビットは一歩前に出て、不自由な右手の代わりに口で軽く籠手を咥え、左手に嵌める。その動作も自然で、ルークは我を忘れてラビットの姿に見入った。
 だが、次の瞬間になってルークは今の状況を思い出した。
「は? 何を言ったのさね、ウサギさん」
「私は『黙れ』と言ったのだ。聞こえなかったのか?」
 淡々とした、普段と少しも変わらない声。
 それは少なからずルークの神経を逆撫でした。
「何ふざけたこと言って……」
「マイカ、ノエルを頼んだ。このままだと危険だろう」
 その上で、ラビットはルークを無視して背後のマイカに声をかける。マイカは痛む体を乗り出して、首を横に振る。
「でも、スノウは」
「早くしろ。ノエルを殺す気か」
「っ」
 軽く唇を噛むマイカに向かって、ラビットは軽く目を細めてみせる。
「私が呼んだいざこざだ。……私の手で責任は取る」
 マイカは物言いたげな目でラビットを見たが、すぐにノエルの身体を抱き上げ、何とかその場から離れようとした。
 ルークは逃がすまいと一歩踏み出すが、ラビットの腕の一振りに遮られる。
 ラビットの左手の延長線上には、既に青白い刃が出現していた。もしもう一歩踏み出していれば、ルークの身体は両断されていただろう。
「……本気、みたいだねえ」
 ルークの顔に刻まれた笑みが深くなる。抵抗できない人間をいたぶるよりも、目の前にいる本気の男を殺す方が楽しいと判断したのだろう。
 ラビットは、感情の無い声で言う。
「ここで戦いたくは無い。外に出てくれないか」
「ま、いいけどね。ワタシもここじゃあ戦いづらくてたまらないんでねえ」
 ルークはラビットに背を向けないように、大きく背後に跳び退って病院のドアを出る。ラビットもそれを追うようにして外に出た。
 外気は冷たい。数メートル先も見えない深い霧に、ルークの姿がかき消える。
 編みかけになっていたラビットの白髪が、霧に溶け込むように揺れる。
「さあ始めようか、シロウサギ!」
 霧の奥から、ルークの声が響いた。