トワと聖がノエルと共に去って静まり返った病室で、ラビットは青いビー玉を電灯にかざしていた。その形は見えなくとも、硝子を通り青く色づけられた光はかろうじてラビットの目に届く。
トワの目と、同じ色の硝子球。
かつてトワのものだったという、小さな小さな硝子球。
そういえばいつ、自分はこのビー玉を手に入れたのか。
思い出せない。
気づけばいつもこの手の中にあり、指先に触れる冷たい硝子の触感は常に彼の心を落ち着かせてきた。
今もそうだ。
ともすれば思い出したくもない記憶に飲み込まれそうになりながらも、この硝子球の感触が、こちらの世界に意識を引き戻す。
まるで、この小さなビー玉一つが彼の存在をこの場所に繋ぎとめているかのように。
「トワ」
呟き、左手でビー玉を握り締める。
トワの存在も、まるでこのビー玉のよう。
彼女がいなければ、自分はとっくに自分を手放してしまっていたかもしれない。トワを守りたいと思うことで、ラビットは自分のアイデンティティを守り続けている。
だが、それも儚いものなのかもしれない。
ひとたび落とせば割れる、硝子球と同じ。
トワの旅が終われば、きっと自分も。
考えただけで、寒気がする。
この旅が終わらなければいいのに、という考えがラビットの頭の中をよぎり、即座に否定しようとする。
もう、時間がない。
この星も、そして自分も。
「……どうすればいい」
理論からすれば答えは出ているはずだというのに、感情がそれを許そうとはしない。無駄な足掻きを繰り返そうとしている。
その足掻きが、トワを悲しませるとわかっているのに。
悪循環だ。
「どうすればいい、私は、どうすればいい……」
ラビットは、ただ恐怖していた。
目の前にある「答え」を肯定することに、理由もなく恐怖していた。否、そこには事実はっきりとした理由が存在していたのだろうが、これはラビット本人にしか理解し得ないものだった。
手が震える。頭が痛い。寒い。
それでも、認めるわけにはいかない。
認めれば、あの時と同じように自分の中にあるものが、全て溢れ出てしまうかもしれないと思うと……
その時。
小さなノックの音が、またも思考の闇に沈みそうになったラビットを引き戻す。
「スノウ、今大丈夫かい?」
ドアの向こうから聞こえたのは、懐かしい声。
ラビットは弾かれたように顔をあげると、驚きと喜びをない交ぜにした、彼にしては珍しい声を出した。
「……先生?」
「ここが、前にスノウが暮らしていた天文台でね」
ノエルは病院からの帰り際、病室の窓から見えた天文台にトワと聖を案内した。
「天文学者のコルトさんと、その奥さんが住んでるんだ」
「おっさんの師匠、ってわけか」
「そういうこと。ちょっと挨拶するかい」
言いながらも二人の返事を聞く前に、ノエルは天文台の呼び鈴を鳴らしていた。
数秒後に、「はい、どなた?」という声と共に扉が開いた。
ドアの向こうから顔を覗かせたのは、丸い顔をした、人のよさそうな初老の女性だった。
「ああ、ノエルじゃないか。……そちらは?」
「スノウと一緒に来た子達だよ。この兄ちゃんが聖で、こっちの子がトワ」
にこにこと微笑みながら女性にトワと聖を紹介したノエルは、今度は二人に向き直る。
「この人がコルト夫人。……そういや奥さん、コルトさんは?」
ノエルの言葉に、夫人は困ったように軽く首を傾げる。
「おや、あの人なら丁度スノウのところに行ったところだよ」
「あちゃあ、入れ違いかあ」
大げさに額を押さえてみせるノエルを見て楽しそうに笑いながら、夫人はその後ろに立つ二人に向かって言った。
「まあ、折角来たんだから入って入って。何も無いところだけど、お茶くらいは出すよ」
「あ、はあ、すみません」
聖は夫人に向かって一礼し、敷居を越えようとしたが、その時トワがまるで夢見ているかのようにぼうっとした表情で天文台の外観を眺めていることに気づき、その袖を取る。
「ほら、行くぞ」
「う、うん」
トワは聖に声をかけられて初めて我に返ったらしく、こくこくと頷いてすでにドアの向こうに消えてしまったノエルと夫人の後に続いた。
客間に通されるとすぐに温かい紅茶と手作りのクッキーが振舞われた。しばらく他愛ない会話を続けるノエルと夫人をよそに、トワの目は棚の上にある一つの写真立てに向けられていた。
それに気づいた聖は、ふとトワに問う。
「何見てるんだ?」
トワは写真立てから目を離さないまま、ぽつりと言った。
「あれ……」
「ああ、あの写真かい?」
夫人は立ち上がり、置いてあった写真立てをトワに渡した。写真に写っていたのは、この天文台を背景にして立っている今とさして変わった様子のない夫人と、多分コルト氏と思われる初老の男性、そして。
「これ、もしかしておっさんか?」
横から写真を覗いた聖が指摘するとおり、顔の左半分を包帯で覆い、穏やかな笑顔を浮かべるコルト夫妻とは対照的に強張った表情を写真に焼き付けた白い男の姿があった。
夫人はトワと一緒に写真を覗きこみながら言う。
「これは、スノウが退院してここに来たばかりの時の写真でね。スノウは嫌がったけれど、無理言って一枚撮ったのさ」
その声には、その頃を懐かしむような響きが多分に込められていた。
「ちょっと変わった子だったけれど、勉強熱心だったね。あの人と一緒に、寝る間も惜しんで『ゼロ』を眺めていたっけ。私は横で心配したもんだよ」
トワは写真から目を離して、夫人を見つめた。夫人はトワの青い目に見つめられて、少しだけ寂しげな表情を浮かべる。
「スノウは子供のいない私たちにとって息子みたいなもんだったからね。一緒にいた期間はそう長くなかったのにねえ」
言いながら、「もういいかい」と言って写真立てを元の位置に戻す。そうしながら、夫人はトワに向かって言った。
「そうだ、アンタを見てたら思い出したよ。面白い写真を見せてあげようか」
「面白い、写真?」
トワは夫人の言葉を反芻しながら首を傾げる。夫人はトワの手を取って立たせ、上の階への階段を上り始めた。トワは足元に気をつけながら一段一段階段を上っていく。
そういえば、あの天文台の階段も段差が大きくて、足元に気をつけながら上っていたっけ。
トワの脳裏に、ラビットが独りで住んでいた古い天文台の姿が浮かぶ。あの場所を離れてから、もう何ヶ月過ぎただろうと思っているうちに、二階に着いた。
「ほら、すごいだろう」
夫人の声に、トワは顔をあげて……絶句した。
トワの視界を支配するのは、壁一面に張り巡らされた青い星の写真。
「……これは?」
トワが問うと、夫人はにっこりと笑って答えた。
「あの人とスノウが撮った、『ゼロ』の写真だよ」
一つは燃え盛る青い業火。一つは水をたたえたような深い青。一つは、トワの目とよく似た、透き通った青いビー玉のようで……
同じものを写した写真のはずだというのに、一つとして同じ写真は無かった。
トワはそれを見上げて、思わず溜息をつく。
美しかった。
あまりに美しかった。
これからこの星を壊してしまうはずのものなのに、あまりにも綺麗過ぎて、だから悲しかった。
「そういえば」
一心不乱に写真を見つめるトワの横で、夫人は言った。
「スノウは『ゼロ』を見るたびに変わったことを言っていたねえ」
「え?」
トワはその言葉に気を取られ、写真から一瞬意識が離れる。夫人は少し思案するように首を傾げてから、写真を仰いで言った。
「不思議な話だけど、スノウには私たちには聞こえない『歌』が聞こえていたそうだよ。いつも『 「ゼロ」が歌っている』と口癖のように言っていたよ」
「……ラビット、が?」
「本当に久しぶりだな」
「はい」
横の椅子に腰掛けた「先生」、コルトはダークブラウンの瞳を細め、穏やかな表情でラビットを見つめる。
「帰ってきたかと思ったら入院と聞いて驚いたよ。もう大丈夫なのか?」
「ええ。すみません、心配かけてしまって」
ラビットは申し訳無いとばかりに深々と頭を下げる。コルトはそんなラビットの白い頭に大きな手をのせる。まるで、父親が子供の頭を撫でるように。
「謝ることはない。よく帰ってきてくれたな、スノウ」
「先生……」
「わかっている。またすぐに行ってしまうのだろう」
ラビットが見上げると、コルトは少しだけその表情を陰らせた。ラビットからは細かい表情の動きなど見て取れるわけが無かったが、コルトの言いたい事はすぐに察することができ、余計に項垂れる。
「すみません。しかし、私は」
謝るようなことではない。
責められているわけでもない。
それでも、ラビットは言葉を続けることが出来なかった。コルトが悲しむのを見るのは嫌だった。それはひどく子供じみた、普段の彼からは想像も出来ない姿だった。
しばし、そのまま沈黙が流れた。
「スノウ」
「……はい」
ラビットはかろうじてコルトの呼びかけに返答する。
「きちんと観測は続けていたかい?」
「旅に出る前は、毎日」
「観察対象は?」
「主にここにいたときと同じように『ゼロ』の動きを」
「結果はどんなものだったかな?」
「やはり現在報道されている情報と同じく、外見上は天体の形を取りながらも質量を持たないものという結果だった」
「 『ゼロ』の歌は、今も聞こえているかい?」
「いや、最近はほとんど聞こえなくて」
コルトがけしかける矢継ぎ早の質問に、ラビットは俯いたままながらも正確に、しかもテンポ良く答えていった。
ふむ、とコルトは一瞬間を空けてから、最後の問いを発した。
「 『ゼロ』について、どう思うかね?」
「……正直、人知を超えていると」
「そうだな。私もそう思うよ」
コルトはふと、窓の外を見やる。昼の白い空に輝く青い星……『ゼロ』。
「まるで幻のようだなあ。形は見えるのに、実体はない」
星の姿をした幻。
幻でありながら全てを消滅させる力を秘めた、完全なる「無」の象徴。
ラビットもコルトにつられて顔を上げ、窓の外を見る。光しか感じ取れないこの目が恨めしい。
「スノウ」
コルトの声は、どこまでも暖かかった。
「……もし時間が残っていれば、遠慮なくここに帰ってくるといい。そして」
ぽん、とラビットの肩を叩いて、笑う。
「一緒に『ゼロ』を眺めようじゃないか、息子よ」
ラビットは無言で、いつものように表情は無く、しかししっかりと頷いた。
握った手の中のビー玉が、やけに重く感じられた。
Planet-BLUE