Planet-BLUE

068 白兎の昔話

「私がここに来たのは、もう五年ほど前になるか」
 ラビットは他の面々の視線を感じながら、淡々と、語りだした。
「丁度その日はクリスマスだったようでね。その年は近年では希に見るホワイト・クリスマスだった。そんな雪の日に、私は発見されたらしい」
「らしい?」
 聖がその言葉尻を捕まえて問い返す。ラビットの口端が、ほんの少しだけ歪む。
「その時の記憶は無いからな。いや」
 いつもどおり表情こそ無いが、その代わり向けられる視線を避けるかのように赤い目を伏せる。
「生きていること自体奇蹟だったからな」
「どういうことだ?」
「私は、ここから少し離れた場所で倒れていたのだが、その時すでに致命的な火傷を負っていて、身体を動かせないどころか意識も無かった。放っておけばそれだけで死んだだろうし、あの時ノエルが発見してくれなければ、間違いなく凍死していただろう……正直、貴方には感謝している、ノエル」
 ラビットは一度顔をあげ、そこにいるはずのノエルの影を見る。ノエルは一瞬きょとんとした表情でラビットを凝視したが、すぐに大げさに笑ってみせる。
「よせよ、今更じゃねえか。それにありゃ偶然だよ」
「偶然……そう、実際偶然だったのだろうな。ノエルは私をすぐにここへ運び込み、マイカの治療によって一命をとりとめた。……結局意識が戻ったのは、この病院に運ばれてから一週間も後だったのだが。
 それからの記憶も曖昧なところが多い。しばらくはこの病院に入院していた……身体の治療が続いたのもそうだが、それ以上に情緒不安定な状態が続いていてね。随分、マイカやノエルには迷惑かけた」
 その時の記憶を呼び起こしたのか、声のトーンが下がる。
 紡がれる言葉自体も普段のものとは違い、どこか要領を得ない。
 トワは首を傾げてラビットに問いかける。
「でも、どうしてラビットは倒れてたの?」
 至極当然な質問だが、ラビットは一瞬答えるのに躊躇した。トワもそれに気づき困ったような表情を浮かべたが、やがてラビットが口を開く。
「すまない、私も何から話していいかわからなくてな。私らしくもない」
 頭を押さえ、多少自嘲気味な響きを言葉に込める。
「……あれは、事故と言っていいものかどうか今でも悩んでいる。事故だと信じたがっているだけなのも、わかっているのだが」
「どういうこと?」
 じっとラビットを見つめるトワ。ラビットは軽い頭痛を感じながらも、言った。
「貴方は、『消滅事件』を知っているか」
「消滅、事件……?」
 トワの脳裏に、かつて龍飛から聞いた言葉が蘇る。
『全てが、消えてなくなった』
『その町は白い光に包まれて消滅した』
『全ては光の中に埋没した』
 確か、それはピアニストをめぐる物語。
 幸せだったピアニストの死。消滅した町。消滅した人々。
 そして、トワは知っていた。
 ピアニストが、無限色彩の『赤』であったということを。
 同時に、この消滅事件が『赤』によって引き起こされた惨事だということも。
「ここから南東にある第三ブロック街が、跡形もなく消滅した事件……龍飛から聞いているかもしれないな」
「うん」
「私はその日、そこに居た」
 淡々と、ラビットは言った。トワは驚きを隠せない様子で目を丸くする。
「何で? 何でラビットがそこに居たの?」
「簡単なことだ」
 ラビットが軽く、目を細める。左手をきつく握り締めながら、トワに聞こえるか聞こえないかといったくらい小さく、低い声で言う。
「……彼女のファンだったからな、私は」
 彼女、が例のピアニストであることはトワにもわかった。そういえば、その日はコンサートがあったという話を聞いた気がする。
 その言葉は事実なのだろうが、言い方にはやけに引っかかるものがあった。何故なのかはわからなかったが。
 ラビットは軽く頭を振り、話題の方向を変える。
「ともあれ、私は半年ほどで退院した後に、町はずれの天文台に住み込みで働くことになった。行くところも無かったからな」
 ラビットの目が、窓の外に向けられる。トワがつられて外を見ると、少し離れた場所に、ラビットがかつて住んでいたのとよく似た……ただしあの古びた塔よりもずっと新しい……天文台が見えた。
「あそこに住んでいる先生とはやはりこの病院で知り合ってね。元々私自身星が好きだったというのもあって、すぐに意気投合した。天文学については素人だった私に、先生はいろいろなことを教えてくれた」
 話しながらふと何かを考えたらしいラビットは、言葉を一度切ってマイカに問う。
「……マイカ、先生は元気か?」
「ええ、近頃は特に元気よ」
「そうか、それならよかった」
 微かに、普通の人間から見れば笑顔とも言い難いような微笑みを浮かべて、ラビットは再び話し始める。
「しばらくは天文台での観測の日が続いた。楽しかった。先生もずっとここにいて欲しいと言ってくれた。それでも、私はずっと世話になっているわけにもいかないと思い、町を離れる決心をした」
「辛くなかった?」
 トワがぽつりと言った。
 ラビットは、軽く頷く。
「私は、この町が好きになっていた。皆、私に優しくしてくれた。だが、頼っているばかりではいけないと思った。別れは確かに辛かったけれど……私は先生が紹介してくれた、かつて先生の友人が住んでいたという天文台へと移った」
「それが、あの天文台?」
「そう。それからは貴女の知っているとおり、龍飛と共に天体……主に『ゼロ』を観測していた。私が言えることといえばこのくらいだ」
 そこまで言って、まだ何か話していないことはあるだろうか、とばかりにその場にいる全員の顔を見るラビット。
 しばし、沈黙が流れる。
 ラビットの言葉は酷く断片的なものでしかなかった。あえて何かとても重大なことを避けているような、そんな雰囲気さえもあった。
 それでも、誰もラビットにそれを聞こうとはしなかった。
 ラビットが質問を拒絶するような雰囲気を醸し出しているのも勿論なのだが、それ以前にあまりにも語られた内容が曖昧すぎて、何を聞けばよいのかすらも、わからなかった。
 その時、聖が何かを思い出したように顔をあげた。
「なあ、おっさん」
「何だ」
「この前おっさんのコート処分しただろ」
「ああ」
 唐突に何の話をし始めたのかと、その場の全員が思った。
 聖としても、何とかこの気まずい沈黙を破りたいと思って放った言葉なのだろう。
 事実、ラビットの黒いコートは前回のルークとの戦闘で使い物にならなくなったために処分した。
 コートを処分するにあたって、「気に入っていたのに」とラビットには珍しく散々子供っぽい文句を言っていた。確かに一張羅だったのだろうが、大げさなことである。
「これ、コートのポケットの中に入ってたんだけど何だかわかるか?」
 聖の手の中には、小さなビー玉があった。ラビットはそれを見て、ほんの少しだけ表情を歪めた。
「……これは」
 口元に手を当て、何やら思案するかのように目を伏せるラビット。
「おっさん?」
 聖がラビットの顔を覗きこむ。ラビットはしばらくじっとビー玉を見つめていたが、最終的に首を横に振った。
「確かに私のものだ。だが、これが一体『何』かと聞かれると困るな」
「どういうことだよ」
「私も覚えていないんだ。元々どのように手に入れたのかもわからない。ただ、気づけばいつも私の手の中にある」
 聖からビー玉を受け取り、左の手の上で転がす。冷たい硝子は、トワの目の色によく似た海の青をしていた。
「……ああ、そうだった」
 あの時も。
「あの事件から意識が戻ったときもこのビー玉を渡されたな、マイカ」
「そうだったわね。でも」
 マイカはラビットの手に載せられたビー玉を見て微笑む。
「あれは、倒れていた貴方がずっと握りしめてたのよ。大切なものだと思ってたんだけど、『何なのかよくわからない』って言われた時には困ったわ」
「本当にわからないのだから仕方ないだろう。けれども、何故か手放す気にはなれなくてな」
 ラビットはビー玉を摘み上げると、明かりに照らしてみた。誰がどう見ても何の変哲もないビー玉でしかない。手に入れた経緯を思い出そうとしても、まるで霧がかかったように曖昧になる。
 その時、トワが声をあげた。
「どうした?」
「それ」
 トワは、ビー玉を指差して言った。
「どうして、ラビットが持ってるの?」
「……?」
「青いのは、もう無いはずなのに」
「トワ?」
 ラビットには見えなかったが、トワの目は大きく見開かれ、驚きとも慄きともつかない表情を浮かべていた。
「それ、昔なくしたわたしのビー玉なの」