Planet-BLUE

067 カーテン

 ざあざあと、耳の中で何かが鳴っている。
 外の音は何も聞こえず、片目だけしか利かない目は目の前に転がっているものしか見ていない。
 
『やめろ』
『思い出したくない』
 
 絹の布を纏ったそれは、ゆっくりと血に染まりながら倒れこむ。
 震える白く細い指が、熱を持って左の頬に触れる。
 
『見たくない』
『見たくない』
『見せるな』
 
 それはいつものようににこりとこちらに笑いかけ、紅を塗った唇が何かを囁く。
 その声すらも遠く、頭は言葉を認識しない。
 
『この光景は、「私」の』
 
 最後に見えたのは白い翼。
 瞬間、赤の帳が、下りる。
 
 
 
「……っ!」
 突然身体に走った激痛に、ラビットは悲鳴をあげることも出来ずに片手でシーツを握り締めた。
 痛みが、瞬間的に眠気を吹き飛ばす。それどころか意識までが焼ききれそうな感覚に、呼吸は乱れ、冷たい汗が身体をつたう。
 否定しなければ。
 今見た「夢」を否定しなければ、この半身の激痛は治まらない。
 あの笑顔を夢見るたびに、ただ、痛みだけが蘇る。
「違う……」
 声にならない声で、呟く。
「全て、消えたはずだ……これは」
 ただの夢に過ぎない。
『本当に?』
「っ」
 何処から聞こえたのだろうか。まるで虚空から湧き出てきたかのような微かな声。しかしラビットの耳ははっきりとそれを捉えていた。
「ああ、これは夢だ。夢なんだ。私はこんなもの」
『見ていない、とでも?』
 投げかけられる冷ややかな言葉。激痛は痛みを通り越して、高熱に焼かれているような錯覚すら覚える。
 固く閉じていた目を、恐る恐る開く。
 片目はかつて焼け落ち、もう片方の目は元より光しか見ていないはずだというのに、ラビットの視覚は目の前に広がる青い海と白い空の空間を認識していた。
 当然、その上に立つ、忌々しい「幻」の姿も。
「……嘘だ」
 ラビットは言って、一歩下がる。そういえば自分はベッドの上で寝ていたのではないかという疑念が頭をよぎったが、そんなことは一瞬にして思考から取り除かれていた。
 一人の人間の姿をした「幻」は、ラビットの歩幅に合わせて一歩前に出る。
「私は何も見ていない! 私は何も知らない! 彼女があの時……」
『ならば』
 今まで俯いていた「幻」が、ふと顔をあげる。
 目から顎にかける顔の左半分が無残に焼け爛れているその顔を、ラビットに向ける。
『彼女は、どうして死んだと?』
 頬に触れた手の熱さを、思い出す。
 笑いかけるその顔を、思い出す。
 左の半身が、燃えるように熱い。
『貴方は、どうして生き残ったと?』
「やめろ!」
 足元の海が波立つ。まるで、ラビットの思いをそのまま反映するかのように。
 それでも、「幻」は一歩一歩、確実にラビットへと迫る。
『彼女の言葉、忘れたとでも?』
 違う。
 言いかけて、ラビットは言葉を飲み込んだ。
 そう、思い出せない。
 夢の中で、たった今見た夢の中で、笑顔の「彼女」が囁いた台詞を思い出すことが出来ない。唇の形すら、浮かんではこない。
『貴方はトワを守ると言ったな』
 腕を伸ばせば届く位置で、「幻」は立ち止まる。
『貴方は、「守る」という言葉の意味を取り違えてはいないか。貴方のやっていることは』
 ……そんなこと、とうに理解している。
 守りたかったもの。
 守れなかったもの。
 今、守らなくてはならないものに、その思いを重ねて。
 あの時守れなかったものと今守りたいものは違うと理解していながらも、間違いなくトワにかつて守れなかったものの姿を見て。
『何かを守りながら、自らの存在は否定する。その先に待っているのはどうしようもないヴィシャス・サークルだと思うがな、白兎』
 淡々と、声が響き渡る。
 ラビットは震える体を自身の腕で抱き、歯を食いしばる。
 「幻」の言葉はラビットの意識に突き刺さり、同時に奥深く眠らせていた記憶を無理矢理呼び起こす。
 混濁する記憶。
 曖昧な定義。
 自分は、誰なのか。
――――貴方は、何にでもなれるのに。
 かつて聞いた「彼女」の言葉が反射する。
 いつでも笑顔で自分を見ていた、お互いの手を握りあっていた「彼女」。
 しなやかな指の感触が、左手に蘇る。白と黒の世界を踊るために創られたような、均整の取れた形の手。
 その温もりだけが、まだこの手に残っていて。
 それでも、ラビットは頭を振って半ば悲鳴じみた声をあげる。
「思い出させるな……これは、『私』の記憶じゃない!」
『否定からは、何も生まれない』
 「幻」が腕を伸ばし、ラビットの喉を掴む。ラビットは抵抗することも出来ずに、目の前に「幻」を凝視することしか出来ない。
 海の底、深淵を思わせる青。焼け爛れた左半身。
『本当に理解などしてはいまい、白兎。思考を放棄して逃げているだけの貴方が理解などできるはずがない』
 息が、できない。
『ならば、見せてやろう、貴方が目を背けた一部始終を』
 霞む目に映ったのは、「幻」の後ろに描き出されたあの時見た風景。
 白と青の空間に忽然と現れた、赤の、帳。
「嫌だ……」
 かろうじて出した声は、「幻」に届いたのだろうか。少しも表情を変えずに、喉を絞める力を強めるだけで。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ……っ」
 ざあざあと、全ての音がかき消されていく。巻き戻されていく記憶の中、目を閉じても見えてしまう幻影の中、ラビットは子供のように首を振り、同じ言葉を繰り返す。
 そして、赤の帳が――――
 
 
「ラビット」
 急に飛び込んできた少女の声に、ラビットは固く閉じていた目を開ける。
 色素のない赤い瞳は、こちらを覗き込んでいる何者かの影を映していた。
 未だ混乱する思考を何とかまとめながら、目の前の影に言葉を返す。
「……トワ?」
「大丈夫? まだ、具合悪い?」
 トワの声はいつものようにラビットの様子を心配しているような響きがあった。どうやら本当にうなされていたらしい。
「いや、昨日よりは随分楽だ」
 事実、先ほどまで感じていた半身の激痛は治まっていたし、昨日のように唐突に倒れるような状態でもない。ただし、急に立って普通に歩けるかというと少々疑問が残ったが。
「そっか、よかった」
 トワは安心したように息をつく。ラビットもそんなトワの声を聞いて心が幾分か安らいだ。
 その時、トワの後ろから聞き覚えのある声がかかった。
「よっ、久しぶりだな、スノウ」
「……ノエルか」
 ラビットは微かに口端をあげて、そこに立っているのだろう友人の名を呼んだ。ノエルはからからと笑いながら言う。
「相変わらず細っこいし病弱だなあ、お前。しっかし俺の最高傑作ぶっ壊すなんて本当に俺のこと嫌いなんじゃないのか」
「さあな、そこは貴方の判断に任せることにするが」
「ああそうかいそうかい」
 そう言って肩を竦めるノエルに対して、ラビットは真顔に戻って続ける。
「しかし、間違いなく貴方の腕は確かだからな。本当に急ですまないが、視力補助装置の修理を頼みたい」
「勿論請けるけどな。でもいくら俺様でも三日はかかるぞ」
「そのくらいなら待つ。本当にすまないな、ノエル」
「いいってことよ。俺とお前さんの仲だろ」
 ノエルは楽しげに笑う。そんな二人の会話を聞いていたトワは、しばらくは黙って二人を見ていたが、会話が途切れた合間に、ぽつりと言った。
「ラビット」
「何だ?」
「ラビットは、どうしてノエルとそんなに仲良しなの? それに、ラビットはどうしてこの町にいたの?」
 ラビットはトワからこんな質問をされるとは思ってもいなかっただけに、軽い驚きを覚えた。
 だが、同時に自分はトワに対して自分のことはほとんど話していないことに気付いた。今までならば話す必要はないと思っていたことだが、もはや、黙ってもいられないことになっていたのかもしれない。
 ラビットの側で様子を見守っていたマイカが、ラビットの心中を察したのかラビットが言葉を放つより前に問いかける。
「経緯なら私も知ってるけど、私から話す?」
「いや、いい。私から説明する」
「……でも、貴方は」
「どちらにしろ、いつかは話さなくてはいけないことだったからな」
 ラビットは目を伏せ、どこか自嘲気味な響きをその声に込めた。
 目の奥に、夢の中で見た真紅のカーテンが蘇る。
「トワ、それに……そこに聖もいるか。少し、つまらない昔話をしよう」