Planet-BLUE

066 雪

 雪が、降る。
 まっさらな大地に雪が降る。
 何もない、地平線ですら白い空に溶け込んでしまいそうな白い空間。
 そこに、一つの影があった。
 トワは見たことのない純白の空間に一人、取り残されていた。
 ここは何処なのだろうか。
 身を切るような風が雪を舞い上げて踊り狂う。しかしトワの髪も着ている薄手のワンピースも少しも風に揺れてはいない。トワは風の、雪の冷たさすらも感じていなかった。
 そういえば、風の音すらも、耳には入ってこない。
 ああそうか、とやっとトワは納得する。
 これは、幻。
 よく出来た、幻。
 何度も同じようなことはあったような気がする。その時々によって場面は違ったけれど、自分の知らない場所を夢に見ることはよくあることだ。
 きっと、それは誰かの夢。
 彼女自身も知らないうちに、誰かの心に共鳴するのだろう。それが、彼女の能力なのだから。
 雪と風と純白の空間。狂いそうなほどに冷たい場所。
 一体誰の夢なのだろうと思いながら、一歩進む。
 何歩進んだとしても変わらないのだろうと思っていた空間に、一瞬歪みが出来たような気がした。
 トワがそちらを見ると、何もなかったはずの場所に、一人の人間が立っていた。だがトワからは遠く、その姿を判別することは出来なかった。
「誰……?」
 奇妙な静寂の中、トワの声だけが響く。
 それは、頼りない足取りでトワのいる方向に向かってきているようだった。
 ゆっくりと、ゆっくりと。
 雪原に消え行く足跡を残しながら、体を揺らして歩みよってくる。
 雪に塗れ、今にも倒れそうな様子のそれは、顔を包帯で覆った、背の高い男だった。けして防寒に優れているとは思えない、病人の着るような白い服を身に纏っている。
「あの」
 トワは声をかけたが、男はトワがそこにいることにも気づかないらしく、彼女の丁度目の前に立ち止まり、雪の上に膝をつく。包帯は男の片目までも覆っていて、もう片方の目も固く閉じられている。
 積もった足元の雪に細い、真っ白の指を伸ばした男は、そのまま雪の上に倒れこみ、包帯の間からかろうじて覗く唇を動かして何かを呟く。
 その声は、トワの耳には届かない。まるで全ての音を通さない透明な壁が男とトワの間にあるかのように。
 男は苦しそうに喘ぎ、雪に指を食い込ませて言葉を紡ぎ続ける。包帯に隠れた顔がどのような表情をしているのか、トワには知る由もなかったが、それでも。
 ……悲しいのだ、と思った。
 多分、男は悲しいのだ。
 雪の中に埋もれていく身体が悲鳴を上げていないはずはない。だが、それ以上に男の心が、悲鳴を上げている気がした。
 狂気にも似た、しかしあくまで正気の中にある悲しみ。
 それがこの男の世界。
 どこまでも続く純白の世界。生きるものは他に存在せず、常に吹雪が吹きすさぶ、孤独な世界。
 この男の孤独感を、悲しみを鏡映しにした「夢」。
 それならば、その悲しみはどこから来たものなのか?
 白い男は雪の上にうつ伏せになり、やがて動かなくなる。雪は男の肩に背に積もり、形ある男の身体をもまっさらな世界の中に取り込もうとする。
「だめ」
 思わず、声が出た。
 届かないとはわかっていても。
 これは夢だと、自分が存在すべき領域ではないとわかっていても。
 この世界は「悲しみ」。
 悲しみに飲み込まれてしまえば、儚く、存在すら希薄なこの男がその重さに耐え切れるはずもない。
 怖い。
 やはり、声は届かない。倒れた男はぴくりとも動こうとはしない。トワは男の横にしゃがみこみ、男の身体に触れようとしたが、手は、男の質感を感じることさえ出来なかった。伸ばした指は空を切り、男の姿が実体ではないことを知る。
 当然、これは幻なのだから。
「目を、覚まして」
 トワは男に呼びかける。何度も、何度も。
「お願い、起きて」
 何故、この男を助けようと思うのか。それは自分でもよくわからなかった。夢の中に漂う彼女自身の意識も曖昧で、自分が誰なのか、この男が一体何なのか、その境界すらも定かではなくなっていた。
「飲み込まれちゃだめなの、貴方は生きて」
 知らぬ間に、涙が零れていた。
 悲しい。
 トワは俯き、ゆっくりと、それでいて確実に雪原と一体化しようとしている男から目を逸らした。
 その時、静寂を突き破る声がした。
『貴方は生きて』
 凛とした女声。
 トワははっとして顔をあげた。男から目を離した一瞬のうちに、男の横に一人の女性が立っていた。
 まるで、その姿は白い砂の上に咲いた真紅の花のよう。
 身体の線を際立たせるような真紅のドレスに、オリーブ色の髪。トワから女の顔は見えないが、唇が動くのだけはわかった。
『逃げないで、ここで死ぬなんてやめて』
 どこか歌うような響きすら伴ったそれは、半ば闇に引きずり込まれていたのだろう男の意識を覚醒させたようだった。男は顔を上げ、目の前に立つ女を見上げて唇を微かに動かす。
 トワは呆然と男と女を見つめることしか出来なかった。
『私は貴方に生きていてもらいたいの。貴方は、何にでもなれるのだから』
 女は男に向かって手を差しのべる。男は震える指を女に向かって伸ばす。
 女が、笑った気がした。
『……大丈夫、私は、いつでも貴方の側にいるわ。そう、いつでも、いつまでも』
 女の手に男の指が触れた瞬間、白い空間が真紅に染まった。
「翼……」
 トワは思わず呟いていた。
 女の腕には、燃え盛るカーテンのようなものが出現していた。放たれる光は落ちる雪に反射し、世界を赤く染め上げる。
 それは、まるで真紅に輝く翼のようで。
 広がった赤い幕は男の身体を包み込み、女の姿も飲み込んでいく。
「行かないで!」
 手を伸ばして、トワは叫んだ。
 女は、ふとトワの方に目を向けて、寂しげに笑った。穏やかなブラウンの瞳が細められ、唇が薄い笑みを模る。赤い雪が渦を巻く中、女ははっきりと、言った。
『トワ、どうか、早く答えを見つけて』
 
 
「待って!」
「うわっ!」
 トワは大きく身を乗り出した。その瞬間奇妙な声が聞こえて、彼女は我に返る。
 自分は、白い柔らかなベッドの上にいた。そして、目の前には見慣れた顔があった。
「……聖」
 聖は緑色に染めた髪をがしがしとかきながら、目を白黒させる。
「全く、驚いたじゃねえか。うなされてたみたいだから見に来たんだ。大丈夫か?」
「うん、大丈夫……」
 荒涼とした空間と白い男と赤い女の姿を思い出し、軽い頭痛を覚える。それでも聖に心配はかけさせまいと思い首を横に振った。
 何とか気分を変えようと思い、トワは部屋の中を見渡す。部屋のあちらこちらに見たこともないような形をした機械が並べられていて、やけに気を引く。
 ここまで来て、やっとトワは自分がどうしてこんな場所にいるのかを思い出した。
 第四ブロック街についてすぐ、ラビットの知り合いである医師マイカ・ジェイドの勧めにより、トワと聖はここ……ラビットとマイカの共通の知人の家に泊めてもらえることになったのだ。
「おう、お嬢ちゃん、目が覚めたか」
 部屋のドアが開き、ひょいと顔を覗かせたのは癖のある茶色の髪と分厚い眼鏡が特徴的な、どうにも冴えない印象の男だった。年のころはラビットより一回り上といったところだろうか。
 この男は名をノエルというらしく、職業は自称「発明家」。話によればラビットがこの町にいた頃には随分親しかったらしく、ラビットの視力補助装置もこの男が作ったものらしい。
 ノエルは冷たい水の入ったグラスをトワに手渡し、自分も側にあった椅子に腰掛ける。幹色の瞳がトワの青い瞳を覗き込む。
「気分はどうだ?」
「平気。ごめんなさい、心配かけて」
 水を一口飲んでから、トワは申し訳なさそうに俯いた。それを見たノエルは屈託なく笑う。
「何、気にすんな。それに、まずスノウの具合が不安なんだろ?」
 スノウ。
 聞き慣れない名前。
 それがラビットのこの町での呼び名であることに、すぐには気づけなかった。
「……うん」
「よっしゃ、それじゃあお嬢ちゃんと兄ちゃん」
 ノエルは立ち上がって言う。
「俺もどちらにしろスノウに話があるから、今から一緒に病院行くか。多分一日開けたから会えねえってことはねえだろ」
 トワは即座に頷いた。聖も「ああ」とノエルの提案を受け入れる。ノエルは満足そうに微笑むと、「それじゃあ俺は車の準備してくる」と言って部屋から出て行った。
 聖はノエルが去った後数秒間トワを見つめていたが、すぐにノエルの後を追うように部屋を出ようとする。その際、一度だけトワの方に振り向いて言う。
「無茶すんなよ。辛かったら辛いって言っていいんだからな」
 聖にそんな言葉をかけられたことが初めてだったこともあり、トワは目を丸くして聖を見上げた。聖は気恥ずかしそうにそっぽを向くと、すぐに階下へ降りて行った。
 その足音を聞きながら、トワはグラスの中に半分ほど入ったままの水を揺らす。
 雪、と呼ばれている者。
 夢の中の、雪の世界。
 白い男。
 赤い女。
 炎の羽。
 そして、「答え」。
 言いようも無い不安だけがつのる。どうして不安なのかがわからない、根源的な不安。
「ラビット……」
 いつも側にいたはずの大切な人の名前を呟く。
 会いたい。
 会って、「何も不安なことはない」と言ってもらいたい。その手で背を支えてもらいたい。
 一日しか離れていないのに、何故これほどまで不安なのか。
 今までにない不可解な感情に、トワはただ戸惑うことしか出来なかった。