駅から飛び出して、マーチ・ヘアは深く息を吸い、吐く。
とっさに飛び込んだために、何処の町に転送されたのかはわからない。軽くなったトランクを強く握り締め、長い三つ編みを揺らして再び走り始める。
だが、彼女の顔には絶望しかなかった。
路地を曲がる瞬間に、ちらりと背後を振り返る。
彼女から少し離れて、もう見飽きた聖職者がゆっくりとこちらに歩み寄ろうとしていた。
手には長い得物。
所々に穴の開いたカソック。
口元には、張り付いたような笑顔。
倒せない。
彼女は悟った。
彼女とて何度も死線は潜り抜けてきた、一流の賞金稼ぎであり殺し屋である。特に一対一ならば彼女の最も得意とするところである。
だが、その彼女が、この得体の知れない男相手にかすり傷さえ負わせられないのだ。
いや。
何度も、彼女の銃は男の身体を撃ちぬいたはずなのだ。彼女の目は確かにそれを見ていた。あのカソックの穴は間違いなく、彼女の銃弾が貫いたはずの場所だ。
だというのに、黒い聖職者は何事も無かったかのように、彼女に迫る……。
「化物」
放った声も、掠れていた。
トランクの中に仕込まれた銃は撃ちつくし、エネルギーも銃弾もほとんど空になっていた。何とか撒こうと駅に飛び込んだが、結局は同じことだった。
なす術も無い。
彼女の足には傷があった。何度かまともにやりあったが、そのうちの一回で深く傷つけられた。走っているとはいえ、スピードは歩いているのとそう変わらない。
本当に神か何かがついているのか、あの男は。
足を引きずって走りながら、マーチ・ヘアは考える。
倒せない。
圧倒的な火力を持ってしても、あの男は倒せない。
そして、ここから逃げることも出来ないで終わるのか。
「情けない」
思わず、言葉が零れた。
自分の感情を、この胸に抱いているものを信じて行動した。その結果がこれか。
要するに運が無かったのだ、と思う。
まさか相手がこんな化物だとは思ってもいなかった。自分が首を突っ込んだことが、ここまで根の深いものだとは思ってもいなかった。
クライアントである「大佐」を裏切った彼女に対し、始末のための追手を放つまではわかる。
だが、その追手を殺し、それでいて彼女が「関係者」だからという、ただそれだけで彼女を殺そうとする背後の聖職者。
何処までも何処までも彼女を追い詰めていく、死神の足音。
逃げても仕方が無いということはわかっていた。彼女が男を倒すことが出来ないのならば、もはやこの先は無い。
それでも足は動き続ける。
死への恐怖が、彼女を逃亡に駆り立てる。それは無為に死への時間を先延ばしにしているに過ぎないと、自分で理解しているというのに。
それとも……
「……さて、鬼ごっこはこのくらいにしましょうか」
声は、耳元で聞こえた。
はっとして振り返ったが、遅かった。
すぐ側にまで迫っていた聖職者は、長い棒のような得物を振り上げ、今まさに彼女の命を奪わんとしていた。
それとも、逃げ続けようと思ったのは。
彼女は長い一秒の中で思った。
……こんな都合のよい奇蹟をどこかで期待していたからか。
彼女の目は、得物を振りかざす男を捉えてはいなかった。
その背後でちらついた、小さな光。
それが一体「何」であるのか、彼女は本能的に理解していた。
次の瞬間。
黒い男の身体は真横に弾き飛ばされ、壁に激突した。男の体が変な方向に曲がったのが、目の端に映った。
彼女は思わず、その場にへたり込む。全身の力が抜け、これまでずっと張り詰めていた緊張が途絶える。ともすればそのまま闇に落ちてしまいそうな意識の中で、ただ、彼女は唐突に現れた「奇蹟」を見上げることしか出来なかった。
「奇蹟」は、1人の男の姿をしていた。
冷たい風に金色の髪を揺らし、鮮やかな緑の瞳が彼女の目を射る。
とんでもない奇蹟だ。
彼女は身体を震わせた。
男の手袋を嵌めた右手には、淡い光を放つレーザーブレイドが握られていて、独特の唸りをあげている。
「ティア、何してるんだ?」
男が、呆気に取られた様子で問う。
昔は常に側にいた、そして今までは遠目に見ることしか出来なかった男に向かって、彼女は言った。
「その言葉そのまま返してあげるわよ、レイ。でも助かったわ。感謝してる」
男……レイ・セプターは軽く眉を曇らせたように見えたが、すぐに視線を数秒前に自分が蹴り飛ばした男の方へと向けた。黒い聖職者はぴくりとも動かない。
彼女に目を戻してセプターは言う。
「俺は今からステーションに向かうところだったんだよ。休暇を貰ったからな」
「休暇?」
ラビットと同行していたときに、彼女は一度レイ・セプターを見ている。間違いなく、トワを追うという任務についていたはずのこの男が何故今になって休暇などと言っているのかが解せなかった。
トワは捕まってしまったのだろうか。
もしもそうだとしたならば、一体ラビットはどうなったのだろうか。あの男が、簡単にトワを諦めるとは考えられない。
一瞬そんな考えが頭をよぎったが、やけに冴えない表情を浮かべるセプターを見ると、どうやら仮定自体が間違っているようだった。
「ちょっといろいろあってさ。それよりティアは何でこんな所に?……前に白兎と一緒にいたのは見た気がするんだが、それにしても何で一人で襲われたりしてるんだ」
彼女は返答に困った。
相手が旧友のセプターとはいえ、セプターは軍の人間である。少なからず一連の出来事に関係しているセプターに全てを話すことは躊躇われた。
目を伏せ、唇を噛む。
今になって実感する足の激痛。
セプターは、あくまで真っ直ぐ彼女の目を見据える。どんなに背が高くなっても、目だけは昔と全然変わらない。彼女は思って息をつく。
「話すと長くなるけど」
彼女が言いかけたところで、セプターが唐突に跳んだ。
一条の赤い光がセプターの足元を焼く。
セプターは着地と同時に右手に握ったレーザーブレイドを構える。羽織った革のジャケットが、揺れる。
彼女も何とか立ち上がり、攻撃が来た方向を見た。
彼女とセプターが見たものは、明らかに立てるような状況ではなかったはずの黒い聖職者が、何事も無かったかのように、ゆらりと立ち上がるところだった。
「何だ、こいつ……」
セプターが驚きを顕にする。男は薄い青の瞳を細め、微笑んだ。整いすぎた顔が、少しだけ歪む。
「レイ……そう、ですか。貴方が星団連邦政府軍大尉レイ・セプター、ですね。さすがに『軍神』候補なだけはありますね」
淡々と、男は言葉を紡ぐ。セプターは表情を消し、ブレイドを振るって目の前の黒い聖職者に向かって問いかける。
「貴様、何者だ」
男は笑顔のまま、答える。
「私に名前などありません。呼ぶのであれば『ビショップ』とでも」
「そういうことを聞いているわけではない事くらいはわかるだろう。何故、ティアを狙う」
「それは、彼女が『関係者』だから、ですよ」
「 『関係者』……?」
セプターは背後に庇った彼女に一瞬目配せをする。おそらく、この男……ビショップが放った言葉の意味が測りかねてのことだろう。
ビショップは、一歩、セプターに近づく。
「いいでしょう、レイ・セプター。本来私の仕事ではありませんが、貴方もいつかは処分しなくてはならない相手でしたから」
間近に迫った空色の瞳が、獰猛さを顕にする。
それに気づいたセプターの判断は、早かった。
半ば反射的にレーザーブレイドの刃を消し、彼女の身体を抱えると、ビショップに背を向けてその場から一目散に逃げ出した。
「ちょ、ちょっと、レイ!」
彼女は大きなトランクを抱えたまま叫ぶ。セプターは全速力で走りながら怒鳴り返す。
「こんな所で戦えるか! それに」
彼女からセプターの表情は見えなかったが、放たれた声に今までと違う感情が混ざったのは確かだった。
「これは単純な問題じゃない。話、聞かせてもらわないといけないからな」
折角の休暇が台無しだ、と呟くセプター。
ちらりと背後に目をやると、ビショップはセプターの脚力に追いつけていない様子だった。得物を向けているが、走りながらの行動である。照準が合わせられないようで、こちらに攻撃は来ない。
「軍に、報告するの?」
ぽつり、と抱き上げられたままの彼女は言った。舌を噛みそうになり、ほとんど聞き取れないものとなってしまったが、セプターはすぐに彼女の言わんところを理解したらしく、言い返す。
「ダメなのか?」
セプターは、もう彼女が「青」に関わったことに気づいている。このビショップという追跡者も「青」関連であることは明白だ。ならばセプターも軍に報告しないわけにはいかない。
それでも。
彼女は沈黙するしかなかった。
軍に報告されれば、彼女の存在が上層部に伝わる。
そして、「大佐」が、動く……
ここで終わるわけには行かないと、彼女は感じていた。
セプターもしばらく黙って走り続けていたが、諦めたように一つ、息をついた。
「何だかなあ」
「え」
「俺、頭悪いからさ、何していいかわかんなくなっちまった」
器用にも、全速力で走っているにも関わらず軽く頭を振ってみせた。
「……じゃあ、上に報告するのは保留。で、軍部の情報握ってる奴に俺の個人的な友達がいるから、そいつに話通してみるってのはどうかな。俺は休暇中だからそんなに厳しくないだろ、上も」
セプターの放った軍人らしからぬ発言に、当然驚くのは彼女の方である。
「それで、いいの?」
「別に。それにアイツなら何か知ってるだろ」
セプターの言う「アイツ」が誰なのかは彼女には測りかねたが、今はセプターの言葉を信じるしかなかった。
いや、相手がセプターでなければ彼女も信じたりはしなかったが。
さほど時間はかからずに、先ほど彼女が逃げてきた駅が目の前に現れる。
セプターはそこで足を止めると、ビショップが追いつけていないことを確認して彼女を下ろす。
「歩ける?」
「あ、うん、一応」
「よし。……それじゃあ」
セプターは羽織っていた革のジャケットのポケットから、小さな通信機を取り出す。慣れた手つきでボタンを押すと、すぐに通信は繋がった。
「トゥール?」
『何、レイ君? 何してんのアンタ。休暇中じゃなかったの?』
「ちょっと厄介なことに巻き込まれてさ」
『 「青」関連?』
「多分」
通信機からの声は彼女にも筒抜けだった。おそらくセプターがわざと彼女に聞こえるようにしているのだろう。
通信機の向こうにいるのは男とも女ともつかない、奇妙な声と喋り方をした存在だった。
「今俺の友達が追われてんだけど、友達ってのが前に白兎と一緒にいた奴で、コイツを追ってる奴が何だか変な化けもんで」
『レイ君、もっと要領よく喋って』
「あー、ってかそいつに代わる。ちょっと俺は化けもんの相手するから」
はい、と無造作に通信機を渡されて、彼女はうろたえた。セプターは再びレーサーブレイドの刃を出現させると、ちょいちょいと駅の奥を指す。
「時間は稼ぐ。トゥールは軍の関係者だけど中立だから、きっと力になってくれると思う」
「レイ……」
「通信機は次に会った時にでも返してくれればいい」
どん、とセプターは彼女の肩を押した。彼女はよろめき、奥へと下がる。
セプターの背は、「早く行け」と告げていた。
何てバカな奴。
彼女はそう思って歯噛みした。
自分を助けても、何の得もないというのに。
本当にバカな奴。
思いながら、彼女は駅の奥にある転送装置へと駆け寄る。
『貴女、ティア・パルセイト……狂気茶会のマーチ・ヘアね?』
通信機の向こうにいる存在が、彼女に語りかける。こんな短時間の会話を聞いただけで相手を特定したことに彼女は驚きつつ、聞き返す。
「ええ、貴方は?」
『あたしはトゥール・スティンガー。トゥールでいいわ。そんなことより状況を聞かせてもらえる? 転送後でいいわ。通信機は繋げたままで』
早口で喋る存在……トゥールに多少面食らいながらも、彼女はこの見知らぬ存在への奇妙な安堵感を覚えていた。
遠くでセプターが吼える声が聞こえてきた。接敵したのだろう。
「わかったわ。信頼して、いいのね」
通信機の向こうで、微かにトゥールが笑った。
『あたしに真っ先に連絡したレイ君に感謝なさい、マーチ・ヘア』
重々しい駆動音とともに転送装置が作動する。
直後、彼女の姿はその場から消え去った。
遠くから響く、絶え間ない剣戟の音を残して。
Planet-BLUE