熱い。
熱は体と意識とを同時に支配する。
何も考えられない。
何も思い出せない。
何も見えない。
何も聞こえない。
息が、できない。
燃える身体を抱えて真っ白な空間に一人取り残されたような、孤独感。
伸ばした手は、空を切り。
「助けて」
声にならない声を、あげる。
「助けて」
息が、ひゅうひゅうと音を立てて漏れていく。
バラバラになる、意識。
ただ、熱い、と。
それだけを思った。
「着いたか」
ラビットは反射的に薄く目を開け、龍飛に向かって問う。急に車が止まったことで、意識が闇の底から急速に引きずり出されていく。
『はい。第四ブロック街入り口です』
先の戦闘でサングラスをも壊されたラビットには、直接的な日光が届いていないはずの白い昼時ですら目を焼かれる。当然、目の前にある建物群もラビットの目には入っていない。
それでも。
微かに開けた窓から入り込む「街」独特のざわめきが、ラビットの耳には懐かしい。
「このまま進めてくれ。曲がるときになったら指示をする」
龍飛に指示を飛ばし、車は歩くくらいのスピードで、第四ブロック街の中へと入っていく。
道行く人々が、珍しい外からの客に驚き、こちらに視線を向けているのを感じる。聖がどうにも耐え切れなくなったのか、窓越しにラビットに向かって言う。
「おい、おっさん、目立ってるぞ」
「わかっている」
ラビットは別段気にした風もなく、素っ気なく返した。
後部座席のトワが、ラビットの横に首を出す。
「……ここ、大きな町だね」
そう、この第四ブロック街は地球に現存している都市区画の中でもかなり大きな部類に属する。それだけ人口も多く、設備も整っているということなのだが。
「遠い昔から人の集まる町だったそうだ。自治の概念が発達しているこの地域の中でも、ここはとりわけ、といったところか。住み心地も悪くない」
「ラビット、ここに住んでたの?」
「住んでいたのはほんの一、二年だが、これから会いに行くのはその時の知り合いだ」
ラビットは再び目を伏せつつも、淡々と言った。トワは窓の外に広がる家並みを見つめる。二十世紀前半の建物群を模したような家々がどこまでも広がっている。時折突き出している高層建築物が奇妙といえば奇妙だが、それすらもこの町の雰囲気に溶け込んでいる。
「龍飛、そこを右」
目がほとんど見えていないはずのラビットは、その場その場で的確に龍飛に指示を飛ばしていく。複雑に見える通りを車とホバーとはゆっくりと進んでいく。
そのうちに、聖が道の先にあるものを指差した。
「なあ、おっさん、アレが目的地か」
「見えているのならそうなんだろうな」
ラビットの言葉は普段以上に素っ気ない。特に聖に対しては。
聖は多少むっとしながらも、段々と近づくその建物を見た。
白い壁を持つ、四角い二階建ての建物。
それは、小さな病院だった。ざわめきを内包するこの町の中で唯一、どこか静謐さを持って佇んでいる存在。
ラビットたちを乗せた車は、病院の前に停まる。
そして、ラビットは病院の入り口あたりに何者かが立っているということに気づいた。
ラビットには見えていないが、それは白衣を着た長身の女性だった。銀色の髪を短く切りそろえ、耳まで隠れるくらいの大きな帽子をかぶっている。
そして、その陶磁器のような白い顔に浮かんでいるのは、穏やかな笑顔。
「……おかえりなさい、『スノウ』 」
女は、穏やかな笑顔どおりの温かい声で言った。
車から降りたラビットも、軽く目を伏せて、口端を歪める……彼ならではの不器用な表情を浮かべて言う。
「ありがとう。そう言ってもらえると正直安心するよ、マイカ・ジェイド」
雪が降る。
熱を持つ身体を濡らしていく、雪が。
冷気は意識を覚醒させ。
意識は現状を理解する。
息はまだ苦しくて。
何も見えない。
何も聞こえない。
それでも、雪は降り積もる。
深々と、深々と。
そして、雪は降り積もる。
この熱い身体を覆い隠すように。
ラビットたちは、すぐに応接室に通された。
きょとんと部屋の中を見回すトワやどこか居心地の悪さを感じて首を引っ込めている聖とは対照的に、ラビットはあくまで自然にソファに腰掛け、テーブルの上に置かれたティーカップを手に取った。
「よくわかったな、私たちが来ると」
ラビットの言葉に、目の前に座ったマイカはふわりと微笑んで見せた。
「ええ、貴方はよく目立つから。それに、ちょっと前にウィードがスノウに会ったって言ってたから、そろそろかなと思ってたのよ」
「……ウィード?」
「昔の私の患者。今はちょっと危ないお医者さんごっこやってるらしいけど」
そこまで聞いて、やっとラビットにも合点がいった。
おそらく、マイカが言っているのはマーチ・ヘアが紹介した闇医者、鷹目のことなのだろう。確かに鷹目はマイカと知り合いのような事を言っていた。なるほど元は医者と患者の立場だったのか、とラビットは妙なところで感心する。
その時、横に座っていた聖が軽くラビットの身体を肘でつつく。
「おっさん、今の状況がよくわかんないんだけど、説明してくれないか? ひとまずこの人は誰なんだよ、おっさんの元彼女か何か?」
口を開きかけたラビットより先に、マイカが紫苑の目をいたずらっぽく細めてラビットを見つめる。
「あら、スノウ、何も私のこと話してなかったの?」
「話す必要があったのか」
ラビットは肩を竦めながらもマイカから目線を外した。「もう、そういうところは直しなさいって言ったじゃない」と保護者のような台詞を呟きながら、マイカは優雅な動きで聖とトワに向き直る。
「ごめんなさいね、まさか何も話してないなんて思ってなかったから。私の名前はマイカ・ジェイド。こう見えても一応れっきとした医師よ」
しかし、言われて納得しろという方が難しい。
目の前にいるマイカ・ジェイドという女は確かに白衣こそ着てはいるが「医師」という印象とは程遠い。
ただ目を丸くするしかない聖だったが、その横に座っていたトワが聖の代わりに問う。
「 『スノウ』って、ラビットのこと?」
「……そう、今は『ラビット』っていうのね。この町にいたときには皆が『スノウ』って呼んでたのよ。ほら、雪みたいに白い身体をしているし……それに、発見されたのも雪の日だったの。だからスノウ」
「発見?」
何かを思い出すように窓の外を眺めるマイカに対して、トワが問い返すが、マイカがそれを答えようとするのを無理矢理遮って、ラビットが言う。
「いろいろと話したいことはあるのだが、何しろ今はそう悠長なことをしていられない」
あくまで平静な口調を装っていたが、あからさまに今の話題を打ち切ろうという意志を含み、ラビットは続ける。
「貴女も我々が軍に追われている、というのは聞いているだろう。私はここにいるトワを軍から守りながら東へと向かわなければならない。そのために、破損した視力補助装置の修理を頼みに来た」
鞄から取り出されたのは、ルークとの戦闘で爆破されてしまった視力補助装置の残骸だった。マイカはこれを一目見ただけで微笑みを消し、整った顔をほんの少しだけ歪めた。
「でもこれはノエルがいないとどうしようもないでしょう」
「ならばノエルを呼んで欲しい。そう簡単に直るものではないということは知っているし、身勝手な頼みだということもわかっているが、必要に迫られていてな。なるべく早く直して欲しいと思っている。これが直るまではこの町に滞在する予定だ」
簡潔に用事だけを述べて即座に席を立つラビット。普段になく冷淡なラビットの行動に、今度こそトワも聖も声をあげた。
「ラビット、もう行っちゃうの?」
「何焦ってんだよ、急ぎの旅ってわけでも無いって言ったの何処の誰だ」
ラビットは二人の声を黙殺し、マイカに一礼する。
「今日は挨拶をしに来ただけだったからな。また明日にでも」
そのまま二人を無理矢理引き連れて応接室を後にしようと思ったラビットは、しかしすぐに背後からかけられた声に立ち止まらなくてはならなかった。
「そうはさせないわよ、スノウ」
一瞬前までの穏やかな声とは正反対な、あまりに鋭いマイカの声。ラビットばかりでなく、トワと聖でさえ、背筋が凍るような思いがした。
マイカはソファから立ち上がると靴音を立てながらこちらに歩み寄り、ドアの前に立ちふさがる。
「貴方がこの場を早く離れたいと焦ってる理由はきっと二つよね」
ラビットは、ただ息を飲むことしか出来なかった。
「一つは、貴方のことをこの二人に聞かれたくないと思っているから。それは私にとってどうでもいいから見逃すとしても、もう一つ」
マイカの目が、切れ味鋭い刃物のように細められ、ラビットを見据える。
「……貴方、立っているのも辛いんでしょう? お仲間には上手く隠し通せたかもしれないけど、私の目は誤魔化せないわ。それで外を歩かせることはできないわよ、スノウ」
「そんなことは……」
言いかけたラビットの身体が大きく傾ぐ。がくりと膝をつき、吐く息は荒い。顔色も死人のようであり、今まで普段どおりに振舞っていたこと自体が奇蹟のような状態に見えた。
マイカは軽く身体をかがめ、ラビットに視線を合わせる。ラビットは息をつきながらも、きっとマイカを睨みつけるが、彼女がそれに動じた様子は無い。
「詳しい検査が必要だし、視力補助装置が直るまでは入院していてもらった方がいいわ。……貴方たちもそれでいいかしら?」
後半の質問はラビットの背後で呆然としていたトワと聖に向けられたものだった。唐突に声をかけられた二人は驚いたが、すぐに首を縦に振った。
「この人、すぐに無茶するのよね。そこも相変わらず」
いつの間にか、マイカの口調は元の穏やかなものに戻っていた。苦しそうなラビットの身体を支えながら、マイカは小さく首を傾げる。
「流石に貴方たちをここに泊めるわけにはいかないんだけど。そうね、ちょっとそこのお兄さん、スノウ支えてて」
マイカは立ち上がりざまに聖にラビットの身体を押し付けた。聖は慌ててラビットの身体を抱きとめる。ラビットの身体は、服の上からでもわかるくらいに冷たかった。トワも、青い瞳を見開いて不安げな色を隠そうともしない。
その間にも、マイカは側にあったメモ帳の一枚を破り、白衣に挿してあったペンで何かをすらすらと書き記して二人に差し出す。
「はい、これ」
手の空いているトワが、メモを受け取った。
メモには簡単な地図が描かれていて、「この二人はスノウの友人だから丁重にもてなすように」という文が記され、そして最後にマイカ・ジェイドと署名してあった。
「これを、この地図の家の人に渡してくれればいいわ。多分スノウが来ていることは気づいていると思うから、喜んで迎えてくれるわよ」
「あ、ありがとうございます」
トワは深々とお辞儀をして、マイカを見上げた。
部屋の中でも帽子をかぶったままの彼女は、慈しむような瞳でトワを見つめていた。
「いいのよ。スノウのことは心配しないで。私がきちんと処置するわ」
あくまで穏やかな響きを持った声だというのに、そこには相手を完全に信頼させる強い何かがあった。
普通ならばラビットの側からけして離れようとはしないトワだったが、今回だけはこの女性にラビットを任せていても大丈夫だと信じられた。
「お願いします」
「ええ。スノウは私が病室に運ぶわ。スノウ、立てる?」
ラビットが小さく頷くのが二人にもかろうじて見えた。聖はもう一度ラビットの身体をマイカに返す。
「ったく、どうしようもないおっさんだな」
毒づく聖だったが、言葉の底では本気でラビットを心配しているようだった。トワもここを離れるのは辛かったが、逆にここにいては邪魔にしかならないこともわかっていた。
「行こう、聖。ラビットなら大丈夫だよ」
トワは聖の服の裾を引っ張り、言った。トワの口からその言葉が出るとは思っていなかっただけに聖は目を見張ったが、すぐに苦笑してトワの頭に手を載せた。
「そうだな。殺しても死なねえよな、アイツは。……じゃ、おっさんをよろしく頼みます」
「頼まれなくとも」
マイカはラビットを立たせながら、にこりと笑って見せた。ラビットはトワと聖の方に顔こそ向けていたが、そこには苦痛以外の何の表情も浮かんではいなかった。
「ラビット」
トワが、ドアを開けてからもう一度ラビットの方を振り返る。
ラビットは片手をあげて「大丈夫だ」とでも言いたげなジェスチャーを送った。それを見て、トワも大きく頷いて聖の後について部屋を出て行った。
しばらくそれを見送っていたマイカは、ぽつりと感慨深げに呟いた。
「スノウ、いい友達ができたのね」
ふと、ラビットは顔をあげて、掠れた声でマイカの呟きに答えた。
「……そうかもな」
苦しくて。
苦しくて。
いっそ死んでしまえば楽になれるのに。
なのに、死ねない。
死ぬのが、怖い。
何故?
何故?
何が、怖い。
あの時見た景色が、怖い。
「箱型ホバーは苦手だから、俺のホバーで行くぞ」
聖はホバーの荷台に載っていた荷物をラビットの車に積みかえ、トワが乗れるだけのスペースを作って言った。トワは「ありがとう」と言って聖の後ろに乗る。
「しっかり掴まってろよ、箱型と違って振り落とされることもあるからな」
「うん」
トワがしっかりと聖の身体にしがみついたのを確認してから、聖はホバーを発進させた。
風を切る独特の感覚に、トワは思わず目を閉じる。
ホバーは先程よりスピードを上げて車の少ない通りを走り抜けていく。
それは、聖の苛立ちを端的に表してもいた。
トワは聖の感情が何となく理解できていた。それが『青』の力によるものなのか、それとも根本的な共感なのかはわからないが。
つまり、ラビットが何を考えているのか理解できないのだ。トワにも聖にも、自分のことは何一つ語ろうとしない。過去の出来事であれ、現在の自分の苦痛であれ。
これが当たり前になっていたのだ、と考えているうちに思い至る。
ラビットは代わりにトワに対しても何も問わなかった。何も問わずに、ただ「守りたいから」というだけの理由でトワに手を差しのべた。
それが、心の底から嬉しかったのだと思い出す。
なのに、今は。
純粋にラビットの事を知りたいと思う。
苦しみも、何もかもを自分に教えてくれたらいいのに、と思う。
自分ならラビットの力になれる。なれるだけの力がある。それはラビットだって、わかっているはずなのに。
ラビットは、ただがむしゃらに、自分の力だけでトワを守ろうとしている。誰にも協力を求めずに、独りきりで。
独りきり、で。
無性に悲しくなって、閉じた目から涙が零れた。
前から吹き付ける強い風にあおられ、雫は後方へと流されて散っていった。
Planet-BLUE