中尉、海原 凪がトゥール・スティンガーに刺されセントラルアークの星立中央病院に入院してから二週間が過ぎようとしていた。
刺された傷はほとんど癒えていた。医者の話によれば確かに深い傷だったが骨や臓器、主要な血管に異常は無く、まさに生命に関わる部分をぎりぎり紙一重で避けたような傷だったらしい。
海原は、それを聞いて即座にトゥールに殺意がなかったことを確信した。前にヴァルキリーやリカーが指摘したとおり、腐っても元『軍神』であるトゥールのことだ。ここまで見事なやり口ならば、もはや「殺さないように刺した」としか言いようが無い。
そして、この傷害事件が何かの目的を持って行われたものだということにも気づいていた。
自分に、トゥールに刺された瞬間の記憶は無い。というよりもそこを基点にして数日前からの記憶が明らかに曖昧なのである。
何とか思い出そうとしても、そこだけが白い霞か何かに紛れてしまったような、不快感が残るのみ。同じ……とはいえ彼より遥かに高い力を持つ……無限色彩のカルマ・ヘイルストームも海原の記憶を辿りながら首を傾げるくらいなのだから、怪しいにもほどがある。
もちろん本部も怪しいと思っているのは同じであり、傷が癒えた今でも彼は退院を許されていない。調査が終わるまではおそらくここでの待機を強いられるのだろう。
海原は軽く溜息をつき、病院の中庭のベンチに腰かけた。今では歩いても傷が痛むことは無い。なるべくならば早いところ調査に復帰したいものなのだが、と思いつつ空を見上げる。
空は、抜けるように青い。真っ白な雲が綿菓子のようだ。木漏れ日が、きらきらと煉瓦を模した道に落ちる。
『地球の空は白いんだな』
かつてそう言った、友人の姿を思い出す。
『……貴方は太陽系出身だったと聞いていましたけど、違うんですか?』
かつては青かったであろう地球の空は、今や開発と共に進んだ大気汚染と微粒子の散布によって白く染められているのだ。地球でなくとも太陽系で生まれた人間ならそのくらいは常識である。
そう思って海原はその男に問うたものだが、男は眉一つ動かさず答えたのだった。
『育ちはアークだから知らなかった。……ある意味新鮮だった』
青い空を見上げると、ふとそれが思い出される。
思えば、それが彼との最後の会話だった、と。
そんな他愛もない事を考えながら、目を地面へと戻そうとして……目があった。
どきりとするくらい、深い色の瞳。
それがあまりにも誰かに似すぎているような気がして、彼は息を飲んだ。
ベンチの正面に走る道を、看護士が車椅子を押しながらこちらに歩いてきた。車椅子に座った女が、まさにその瞳の持ち主だった。
まるで濡れているかのような黒い髪を長く伸ばし、肌は透けるように白い。膝の上に載せた指は細く、手首は少し触れただけで折れてしまいそうだった。
そして、長い睫毛に縁取られた瞳は、深淵を覗き込んだような、青。
車椅子は、呆然としている彼の前で道を折れ、中庭の奥へと向かっていく。
海原は、ただそれを眺めていることしか出来なかった。
次の日も、また次の日も、海原は病室の窓から中庭を行く女を見た。
女はいつも同じように看護士の押す車椅子の上にいた。常に同じ格好、同じ姿勢で。
ただそれだけだというのに、女は海原の意識から離れようとはしなかった。つい数日前までは何も知らなかったことだというのに、一目見た瞬間から、彼の心はあの女に奪われてしまっていた。
「貴女は、一体」
窓から見るだけでは、放った声も向こうに届くことは無い。誰もいない病室で、彼は呟くことしか出来なかった。
翌日、彼は女が中庭を通る時間を見計らって、中庭に出た。初めて女を見たときと同じベンチに腰かけて、女を待つ。
女は、数分も待たないうちに、窓から見ていたのと同じルートを通って、海原の前の道を通りがかった。いつものように、看護士の押す車椅子の上で、昏い青の目を何処を見るとも無く開いている。
間近で見ても、人形のようだ。
海原は息を飲んだ。女はじっとこちらを見つめている海原の視線にも気づく様子は無かった。
「あの」
気づけば、海原はベンチから立ち上がって声をかけていた。
女は全く反応を返さなかったが、車椅子を引いていた看護士が驚きの表情を見せる。
「何か?」
「あ、す、すみません。その……」
無意識に声をかけてしまった海原としては、何を言っていいのかわからずうろたえることしか出来なかった。看護士はそんな海原の様子を見てくすりと笑みを漏らす。
「先ほどから、ずっとこちらを見ていたみたいですけど……グローリアさんをご存知の方かしら?」
「い、いえ。ただ、すごく綺麗な方だなと思って……」
見とれていたのです、という声はかすれてほとんど聞き取れなかった。そんな海原の姿を微笑ましいと思ったのか、看護士は笑みを消すこともなく、グローリア、と呼んだ女の耳元で囁く。
「よかったわね、グローリアさん」
しかし、グローリアは瞬き一つしない。深い青の目も、相変わらず焦点が定まっていない。看護士は軽く溜息をつき、再び海原に向き直る。
海原は、グローリアから目を離さず、看護士に問う。
「あの、この方は、どのようなご病気なのですか?」
看護士は苦笑しながら、答えた。
「……グローリアさんは、重い精神の病を患っているのです」
「精神の?」
「ええ。精神の働きが完全に失われている、と言われています。自我は無く、いつこの状態が治るかもわからず、今はただ生きているだけ、という状態です」
海原の胸が、強く鳴る。
「……しかし、グローリアさんは確かに生きています。それに、いつ治るかわからないということは、いつか治る可能性だって無いとは言い切れません」
看護士は、言った。それは確かに穏やかな声ではあったが、車椅子の女に対する強い同情……それに似た感情を感じ取ることが出来た。
海原は激しい動悸を感じながらも、平静を装って言葉を放つ。
「あの、私がお聞きしていいことかどうかわからないのですが……グローリアさんは、いつからこの病院に?」
一瞬の沈黙の後、答えが返ってきた。
「先生の話によると、おそらく今年で二十五年くらいになるということです。詳しい原因はわからないのですが、幼い頃に何か事件に巻き込まれて、その後遺症だ、という話です」
心を持たない、女。
海原は、じっとグローリアの目を見つめた。
吸い込まれてしまいそうな、空虚な青。
似ている。
誰に?
手を伸ばし、あまりにも白い、グローリアの手に触れる。思った以上に彼女の手は暖かく、それが血の通った人間であるということを思い知らされる。
海原は、グローリアの中にある何かを探るように、触れた地点から伸びた、目に見えない「意識の手」を伸ばす。それでも、グローリアの中に意識を感じることは出来なかった。
彼女は、確かに「空っぽ」だった。
海原の脳裏に伝わってきた彼女の中を描いた擬似映像は、真っ白に塗り潰された、がらんとした部屋……
その様子はまるで、こちらまでがおかしくなってしまいそうなもので、すぐに伸ばしていた意識を切り離す。
看護士は、海原の行動の意味がわからなかったらしく、首を傾げて海原を見た。海原は苦笑しながら離した右手を振る。
「いえ、何でもないんです」
「そう。……ああ、もうこんな時間」
時計を見て、看護士は慌ててグローリアの乗った車椅子に手をかける。海原も申し訳無さそうに一礼した。
「すみません、お引止めしてしまって」
「いいえ。それに、グローリアさんも少し、楽しそうでしたし」
「そうですか?」
もう一度、海原はグローリアを見た。表情を浮かべない、作り物のような顔。
ただ、一瞬。
グローリアが、海原を「見た」気がした。
海原ははっとしたが、次の瞬間には彼女の焦点は虚ろなものに戻っていた。
看護士は海原の動揺にも気づかない様子で、グローリアを見た。
「最近は、お兄さんのお見舞いも少なくて、きっと寂しかったと思いますし」
「お兄さん?」
「ええ。今は軍の仕事が忙しいらしくて、なかなかお見舞いが出来ないって言ってらっしゃいましたけど」
……軍人?
海原の頭に、何かが引っかかった。
「あの、軍……って」
「あら、貴方も軍の関係者?」
「ええ、一応軍の者です」
看護士は、どこか寂しげな笑顔を浮かべながら言った。
「なら知っているかしら? グローリアさんのお兄さん、ケイン・コランダムさんという方なのですが」
「そう、彼女も無限色彩の『被害者』だよ」
あっさりとカルマ・ヘイルストームは白状した。
グローリアと別れてすぐ、海原は友人であるカルマのいる病室に向かった。
海原とて無限色彩保持者である。グローリアの精神状態が、「人為的な破壊」によるものというのは、彼女の精神を探った地点で気づいていた。
「しかも、コランダム少佐に妹がいたなんて、初耳だ」
「でも、何となく勘付いてはいたでしょう?……あれが、彼の無限色彩嫌いの理由」
少佐ケイン・コランダムは、無限色彩嫌いで有名だった。
ヴァルキリーから『青』の奪還任務に就いたという話を聞いたときは思わず戦慄したものだった。何しろ、直属ではないといえ部下である海原にすら敵意に似た視線を向けてくるのだから、相手が『青』となればどうなるのかは簡単に想像がつくというものである。
「グローリア・コランダム。僕が知っている事を言えば、丁度二十五年前、一人の無限色彩保持者が能力を暴走させて、一区画の人間全てを昏睡状態に陥らせた事件があった」
カルマは端整ではあるものの血の気の薄い顔を、海原に向けた。
「その時、暴走の発生源に近かったのが彼女。事件を発生させた無限色彩保持者はすぐに軍に保護されて、彼女もここに運ばれたんだけど、壊された精神はそう簡単には元に戻らない」
「君の能力でも無理だったのか?」
「もちろん僕も彼女の精神は視たよ。だけど僕には手が付けられない。『青』だって、多分難しいと思う」
壊すのは僕らにとって簡単なこと、難しいのは「壊れたものを直す」こと。
カルマはそう付け加えた。
海原は、カルマの金色の目から目が離せなかった。
「彼女は、もう元には戻らない、と?」
何故か。
放たれた海原の声は、震えていた。
カルマは、喉にある白い石……無限色彩を象徴するジュエルを指で押さえながら、小さな声で呟くように言った。
「奇蹟でも起こらない限りはね」
Planet-BLUE