Planet-BLUE

059 亡霊

 頭が痛い。どうでもいい記憶も大切な思い出も、全てをまとめて混ぜ合わせてしまったような。気持ちが悪い。
 トワは、うっすらと、焦点の合わない目を開ける。
 放さないようにしていたはずのラビットのコートは、手の中に無かった。
「ラビット……?」
 無意識に自分の口から漏れた声は、すぐに騒がしい陽気な音楽に押し流されてしまう。それでも、ゆっくりとではあるが、意識が覚醒していく。
「アンタは、一体、何者だね」
 弱弱しい、掠れた声が音楽に被さる。
 トワは、重い頭をあげて、声の聞こえた方向を見て……小さく、悲鳴を上げた。
 まず、トワの目に入ったのは、黒いコートをぼろぼろにして、少し離れた欄干に背を預けているラビットの姿だった。夥しい量の血が、石畳に赤い水溜りを作っている。頭部にも傷を受けたらしく、純白の髪は夜目にもわかるくらいの真紅に染まっていた。
 だが、それ以上に不可思議なものが目に飛び込んできた。
 それは、背中だった。
 トワを庇うように……まるで、いつものラビットがそうしているように……目の前に立ち、ラビットとは対照的な白いコートと長い黒髪を靡かせている。もちろんこちらに背を向けているのだから顔は見えない。
 バルコニーの向こうに見えるイルミネーションを背にしているため、おそらくはルークからも目の前の男の表情は見て取れなかっただろうが。
「情けない」
 吐き捨てるように、トワの前に立つ男は言った。
「この程度の魔法士に遅れを取るとは」
 静かでありながら凛と響く、独特な声。トワがいつも聞く声と、よく似ている。
「何者かと聞いているんだ……っ!」
 トワからは見えない位置で、ルークが喚く。同時に、金色の蝶が展開される。それ自体が爆弾である凶悪な光が、男に向かって飛来する。
 男は、その場から一歩も動こうとはしなかった。
 ただ、左手を少しだけ上げる。
「魔法士のお遊びに付き合っている暇は無い」
 どくん。
 男の声を聞くたびにトワの胸の辺りで鼓動する、何か。はっとして、胸に手を当てる。冷たくも温かくも無い小さな石が、指に触れる。鼓動は、明らかにこの石から放たれていた。
「白……」
 かろうじて出た声も、男には届いていないのか。
 男の二の腕から、幻とも実体ともつかない白い翼が生える。トワにはわかった。その翼こそ、彼の『無限色彩』の象徴であることが。
 どこまでも白く、穢れを知らず、均整の取れた存在でありながら、今にもはちきれんばかりのエネルギーが、その翼には込められていた。
 金色の爆弾は、翼が放つ白い光によって男に近づくことも出来ずに霧散する。
「無限色彩保持者……しかも白、ってわけねえ。ゲストにしちゃあ大物過ぎるねえ」
 ルークはあくまでふざけた言動を崩さなかったが、声は明らかに恐怖に震えていた。能力を振るうことを嫌うトワとは違い、莫大な色彩のエネルギーをそのまま攻撃に転化しかねない相手に恐れをなすのは当然の反応である。
 トワはルークが一歩下がる足音を聞いた。
 男が、低い声で笑う。
「逃がすか」
 白い手袋を嵌めたままの左手で指を鳴らす。
 ざわり、という嫌な感触。周囲の風景が一瞬、白と黒だけになったような錯覚。その中の「黒」が一斉に姿を変え、ルークに向かって襲い掛かる。
「嘘」
 トワは、思わず声をあげていた。
 トワの目から見てただの「黒」いイメージにしか見えなかったものは、現実の「影」であった。イルミネーションと月の光が落とすルークの影は蛇のごときしなやかな実体となってルークの身体を絡め取る。
「な……っ」
 影は焦るルークなど意にも介せず、その触手を喉元にまで伸ばす。そのまま、息の根を止めんとばかりに絞め上げる。
 何故。
 トワは目の前で起こっている現象をにわかには信じられなかった。
 この「影を操る」能力は、彼女の知っている無限色彩能力の一つである。もうこの世にいない、『黒』が使っていた能力……
「……っ!」
 ルークは苦しげに息を吐き、目を閉じた。
 止めなくては。このままでは本当に死んでしまう。
 トワの手が、トワには背を向けたままの男に伸びる。しかし、コートの裾を掴む前に、影に縛られていてたルークの姿が、揺らぐ。
 驚きで目を見開くトワの前で、その歪みは空間までも侵食し、いつの間にかルークを飲み込んでいた。
 それは、一瞬の出来事だったのだろう。空間の歪みが収まった頃にはルークの姿もその場から消えていて、彼が存在した痕跡は何処にも残っていなかった。
「空間操作か。厄介な能力だ」
 男は言って一つ、舌打ちするともう一度指を鳴らした。ゆらゆらと目標を失って彷徨っていた影が、元の形へと戻ってゆく。そして、それと同時に男の腕から生えていた純白の翼も姿を消していた。
 トワは、ただ呆けた表情で男の背中を見ることしか出来なかった。
 白の二番。
 間違いない。男から感じられる無限色彩の感触は明らかに『白』のものであり、何度か接触し、会話を交わしたあの男であることもわかっている。
 それなのに、何故、彼女の中の『青』は「違う」と叫んでいるのか。
「……全く」
 男はトワから離れ、倒れているラビットに歩み寄る。ラビットは動かない。最悪の事態がトワの頭を掠めたが、それは杞憂に終わった。
 男が軽くラビットの肩を蹴ると、ラビットは小さくうめき声を上げる。それを確認すると、男は苛立った声をあげる。
「起きろ」
 ラビットの意識は未だ失われたままらしく、男の声には応えない。
 男はしばらく血に染まったラビットを黙って見下ろしていたが、急にラビットの喉を強く掴み、身体を無理矢理持ち上げる。意識による統制が取れていない腕にも足にも力は無く、だらりと垂れ下がってしまっている。
 石畳に滴り落ちる、赤い液体。
 トワは、悲鳴を上げることも出来ず、されるがままになっているラビットを凝視することしか出来ない。もっと正確に言うのならば、目こそ開いてはいるものの、あまりに壮絶なこの状況を視認することは、彼女の頭が拒否していた。
「答えろ、白兎」
 男は、喉を絞め上げる指に力を込めたようだった。上向きになったラビットの口から苦しそうな息が漏れる。
「結局貴方に何ができた。否定するだけ否定しておいて、何を彼女にしてやれた。……同じ現象を繰り返し、凍った思考を回転させることも出来ず、その口から出るのは卑怯な言い訳だけだ。白兎!」
 早口に男がまくし立てる。当然といえば当然だろうが、その声はラビットの耳には届いていないようだった。ひゅうひゅうという嫌な息遣いが喉から聞こえてくる。
「私に答えを示そうといったのは貴方だろう。貴方は確かに存在し、貴方は貴方として彼女を守ると、そう言ったはずだ。聞いているか? だが、貴方は貴方すらも否定する」
 男は歯を噛みしめる。男が何を言っているのか、トワにはわからなかった。
 何故、この男はこうもラビットを責め立てるのか。
「貴方には失望させられた。もう貴方を見ていることも我慢ならない。全てを否定してしまえ! 過去も今も何もかも、全てを失って楽になってしまえ、この臆病者が!」
 まさにラビットの喉笛を潰さんとばかりに、男の指に力が加えられる。
 その時だった。
 ラビットの口が、微かに動いた気がした。
 トワの耳……いや、トワの研ぎ澄まされた『青』としての感覚は、ラビットの放った言葉をかろうじて聞き取っていた。
「許してくれ」
 声にはなっていなかった。息も上手く吸えていないこの状況で、声を出せるはずもない。にも関わらず、ラビットは何度も何度も、同じ言葉を繰り返していた。
「許して……くれ」
 それは、無意識の発言だったのだろう。顕になった赤い目の焦点は定まらず、自分の喉を絞めているのが誰なのかも認識していないようだった。
 やがて、無意識の言葉すらも絶え絶えになってくる。眠りよりもなお深い闇が、ラビットを包もうとしていた。
「……てくれ……ず……」
「やめて……」
 トワは、やっと、言葉を放つことが出来た。
 男が、ここにきて初めてトワを見た。左頬に刻まれた、不恰好な蛇の刺青。少し焦点のずれた、深淵をたたえた青の瞳。
「やめて、クレセント。もうやめて!」
 トワの目から、涙がこぼれる。
 男は、トワをじっと見つめた後、無造作にラビットをトワの方に向かって放った。重い音を立てて、ラビットの身体は石畳の上に落ちる。
「時間が無い」
 苛立った口調で、男が言い放つ。
「貴女も早く答えを見つけろ。そして、この臆病者の目を覚まさせてやれ」
「どういう」
 何とか男を呼び止めようとするが、一度零れた涙は止まらない。声がいつのまにか嗚咽に変わる。
「さもなければ……貴女がここに来た意味も、全て無に帰すだろう」
 『白の二番を捜して』。
 トワは、ふと自分がここに来た意味を思い出す。
 目的を忘れているわけではない。
 この男が、「白の二番」であることも、理解している。なのに、この男が彼女の求めている「答え」を持ったものでないこともわかる。
 何が何だかわからない。
「……クレセント」
 止めどない嗚咽を何とか抑えようとしながら、トワは男の名を呼ぶ。すでにトワに背を向けていた男は、振り向きもせず答えた。
「何だ」
「 『白の二番』、って、何……?」
 冷たい風が、男の白いコートを揺らす。その左手の袖の辺りは、ラビットの流した血で赤く濡れていたけれど。
 長い沈黙の後、男は口を開いた。
「死んだはずの存在。かろうじて生きていたとしても、死と変わらない……もしくは、そう思い込んでいる存在。『白の二番』は死んだのだ、と」
 男の声は、はっきりとトワの耳に届く。
 トワがいつも聞く声に、よく似ている。
「貴女の求めている存在は、私ではない。私は、『白の二番』の亡霊に過ぎない。『白の二番』ではない」
 諭すような、声の響き。硬質で冷たい喋り方をしているというのに、どこかに熱を感じる。
 懐かしい。
 そう感じる理由がわからない。
 これほどまで怖いのに。このように強くて儚い存在を、懐かしいと思う理由は何なのか。
「理由は、貴女が抱く心の海の中にある」
 トワの戸惑いをそのまま受け取ったかのように、男は言った。
「そう、全ては心の海に帰す……」
 男の呟きが風に流れて、消えてゆく。
 消えていったのは、声だけではなかった。
 トワに背を向けていた男も、まるで風に流されたかのように、忽然とその場から姿を消していた。
「貴方は、誰なの……?」
 トワは、消えた男の姿を捜すかのように、空を見上げた。
 星も、月も、彼女の言葉には応えず、ただそこにあるだけだった。