Planet-BLUE

058 妖精遣い

「ラビット」
 囁くような声に、やっとラビットは正気に返ったかのように顔をあげた。柱に隠れるようにしてラビットの戦いを見守っていたトワは、ラビットの方にゆっくりと歩み寄りながら倒れているコランダムを見た。
「……死んでるの?」
 恐怖すらも交えたトワの声に、ラビットは軽く頭を横に振って見せた。
「いや、気絶しているだけだ。目が覚めたとしても、しばらくは身体も動かないだろうが」
 足元に倒れたコランダムを一瞥する。
 コランダムの顔は痛みや苦しみで歪んではいなかった。むしろ、ラビットを嘲るような、薄い笑みすらもその整った顔から見出すことが出来、ラビットは不快感を振り払うようにコランダムから目を逸らした。
 だが、トワは目を逸らさなかった。一瞬前まで浮かべていた恐怖の表情は消えていて、ただ大きな青い目をもっと大きく広げてコランダムをまじまじと見つめていた。
「どうした?」
 ラビットの問いに、トワはコランダムを見据えたままぽつりと言った。
「ううん……でも、誰かに似てる気がしたの」
「誰かに?」
 ラビットは、つとめて平静を装って言ったが、これ以上は何もわからなかったらしく、トワも首を傾げるばかりだった。
 その時、ラビットのコートに取り付けられた小型通信機が微かな音を立てた。ラビットはすぐにそれに向かって話しかける。
「聖か? コランダムは黙らせた」
『そりゃあよかったと言いたいとこなんだがな、おっさん。やばいことになった』
 通信機の向こうから聞こえてくる聖の声は、明らかな焦りを交えていた。ラビットは訝しげに目を細める。
「門の方に動きがあったのか」
『軍の連中は西門に集まって、あの得体の知れない二人組と戦闘してたんだが、奴等が何かしたわけでもないのに軍の連中がばたばたと倒れだした』
「?」
『全員、だ。その直後、俺が見るに二人組のうち黒髪の刺青野郎は忽然と「その場から消えた」。スキンヘッドの人形は……っ!』
 聖の声が、途中で詰まる。ラビットは異変に気づき、通信機に向かって声をあげる。
「どうした!」
 だが、返事は無い。
 異常な報告、聖の身に起こった「何か」、迫り来る殺意。
 混乱するラビットの頭に、鋭い痛みが走る。紋章魔法の使いすぎによる反動かとも思ったが、それとは違う。
「来る」
 ラビットのコートの裾を掴んだトワが、震える声で呟く。その手も、小刻みに震えている。目は大きく見開かれ、虚空を見つめている。
 瞬間。何も無いと思われていた場所に一人の男が現れた。
 右目の下に蝶の刺青を施した、黒髪の男。
 こちらの姿を獰猛な金の目で確認するなり、甲高い、耳に障る声をあげる。
「見つけたね、お姫様」
「ルーク」
 かつて喫茶店で聞いた名を呼びながら、ラビットはトワを庇って一歩下がる。下げた腕が、バルコニーの崩れかけた欄干に触れる。
 相手から目を逸らさぬまま、ラビットは素早く思考をめぐらせる。
 今の反応は、間違いなく空間転移。しかも、コランダムと同じ「魔法」だ。
「気づかなかったな……貴方も、魔法士か」
 思わぬ敵の登場に、ラビットは動揺する。コランダムを倒せば、あとはここから首尾よく脱出するだけだったはずである。だが、ラビットの計画は、ここまできていながら崩れはじめていた。
「おや、これで気づかなかったんだね」
 相変わらず癖の強い喋り方で、ルークは自分の目の下に刻まれた刺青を指す。流線型を描き、細かい装飾の施された美しい蝶。単純な線の組み合わせであるアスガルズクラフトとは根本的に異なる。ラビットも見たことの無い紋章だ。
 いや。
 ラビットは一度今までの思考を切り替えて考え直す。
 流線型の紋章。装飾過多であり、見た目どおり中身も複雑な記号の組み合わせによって構成されている。その実魔法としてはまだ未完成。
 どこかで、そのような話は聞いたことがある。
 確か――――
 ラビットが考えている間にも、ルークは切れ味鋭いアンティークの刀を鞘から抜き放っていた。
 ラビットも、相手の手の内を考えながら左手に剣を出現させる。銀色の籠手から伸びる、青白い光の刃。
「何考えてるんだか知らないけど」
 ルークがにやり、と歪んだ笑みを浮かべる。
「……お姫様はワタシが貰い受けるね」
 来る。
 ラビットはまとまりかけていた考えを一旦放棄し、剣を構える。が、予想に反してルークは手にした刀を頭上に掲げた。ルークの服の袖が少しだけずれ、腕に刻まれた不可思議な文様を顕にする。
「 『夜闇裂く悲鳴(バンシー)』 」
 ルークの声と同時に展開された軽い衝撃と共に、耳に割れるような痛みが走る。
「……!」
 視界が揺れ、平衡感覚が崩れる。背後にいるトワが、ラビットの服の裾を手放してその場に倒れこむ。
 ラビットもともすればそのまま倒れそうだったが、欄干に手を乗せて何とかその場に踏みとどまり、きっとルークを見据えた。
 ルークは、こちらを見つめてにやにやと笑っている。
 しかし、今の一撃で、わかったこともあった。
「それは……」
「なあんだ、今のでもまだ倒れないのか、しぶといね」
 手にした刀を揺らめかせ、ルークが迫る。イルミネーションを反射する、鏡のような刀身。
「フェアリー、クラフト」
 ラビットは、朦朧とする頭を振り、かろうじてこれだけを言った。ルークは、何とかその言葉を聞き取ったのだろう、少しだけ眉を上げ、満足そうに目を細める。
「ご名答。意外と物知りだね、ウサギさん」
 少しずつではあるが、一瞬失われた身体の機能が取り戻されていく。時間を稼がなくてはならないと、ラビットは何とか声を出す。
 先ほどのコランダムとの戦闘で消耗しすぎているラビットとしては、少しでも有利に事を運ばなくてはならない。
「だが、『それ』を持っているということは、貴方は」
「そういうことだね」
 ルークは、嬉しそうに目を細めたまま、ラビットの言葉を肯定する。
 ラビットは軽く唇を噛んだ。遠ざかりかけた意識が戻ってくるにつれ、得体の知れない相手の手の内がわかるにつれ、現状があまりに複雑であることを理解せざるを得なくなる。
「フェアリークラフトは、元々連邦の軍が開発した未完成の紋章魔法が帝国側に流出して独自に発展したもの」
 記憶を手繰りながら、目の前につきつけられた事実を確認するためにも、ラビットは言葉を続ける。
「帝国の人間は連邦の領域への侵入を禁止されているはずだが」
「どこにでも内通者ってのはいるものなんでね。それにそうかりかりすることないんじゃない?軍人でもないのにねぇ」
 おどけた口調でルークが答える。その言葉には緊張感などというものはかけらも含まれていなかった。それは満身創痍のラビットと対しているという余裕なのか。それとも。
「私が聞きたいのはそこではない」
 言葉を紡いでいくうちに、やっと、混沌としていた思考が一つに収束していく。
「帝国が、彼女に何の用があるのか、ということだ」
「もちろん、お姫様の力が必要なんだよ、ね」
 ルークの言葉はくすくすという笑い声と共に放たれた。
「それに、元々お姫様はこっち側の所属じゃないか」
「……何?」
 ラビットには、ルークの言葉が理解できなかった。無限色彩の破壊性を武器として求める、という考え方だけならば頭の中で解釈することも出来ただろう。
 だが、「こっち側の所属」というのはどういうことなのか。
 トワは、元々帝国側の存在だったとでもいうのか。
 ラビットの混乱をよそに、ルークは首を軽く横に振り、軽い溜息までもそこに混じらせた。
「あーあ、また怒られるね、喋りすぎだって。ま、ウサギさんのしぶとさと鋭さに免じて、ってところかねぇ」
 一歩、足音を立てて、ルークがこちらへと歩み寄る。
 ラビットも、欄干から手を放し、何とかぎりぎり身体が言う事を聞くということを確認する。
 逃げるだけの力を残しておけば。
 後一回「闇駆ける神馬(スレイプニル)」を使うだけの余裕を残せていればこの場からも逃げおおせることが出来たはずである。勿論コランダム相手ではそんな余裕など残してはいられなかったのだが。
 背後に倒れているトワが、軽く呻いた。
「詰めが甘いのは私も同じ、か」
 ルークの横に倒れているコランダムを一瞥し、呟く。
 また一歩。
 迫る距離。左手の剣が、震える。
「本当は、ワタシとしてはお姫様だけ連れて行けばよかったんだけどねぇ」
 あくまで楽しげに笑いながら、ルークは言う。
 が、明らかに今までとは違った。ラビットの背に走る、冷たい何か。理性よりも鋭い感覚が捉えた、目の前の存在が放つあからさまな「殺気」。
「……ここまで知ったウサギさんには、消えてもらわなきゃねぇ」
 風が、吹いた。
 ルークが一気に間合いを詰める。
 ラビットは、トワを背後に置いているために横に避けることもできず、ただ前に踏み出すしかなかった。
 軌道の読みづらい刀の先端が、ラビットの右肩を抉る。鈍い痛みと熱、血が腕を、感覚を失っている右手をつたってバルコニーの石畳に落ちる。
 構わず、ラビットも左手の剣をルークに向かって突き出す。剣は独特な羽音のごとき唸りを上げ、ルークの胸の辺りを浅く切り裂いた。
 ひゅう、とルークが短く口笛を吹き、もう一度、今度は確実にこちらを仕留めるべく刀を向ける。
 その前に、こちらが仕留める。
 ラビットは、ルークが構える前に返す刃を振るう。狙いは、喉元。間合いに間違いは無い。
 しかし。
 ラビットが決定的な一撃を放とうとした瞬間、ルークは刀を構えるような仕草を見せつつも、軽やかなステップで間合いから離脱する。
 すぐに相手の狙いに気づいて目を上げると、ルークは、こちらを嘲るように笑っていた。
 先ほどの、コランダムとの対峙が蘇る。
 そっくりそのまま繰り返しているようだ。
 ただし、立場を逆にして。
 誘われていたのは、誘いにかかったのは、今度は自分の方だった。
「 『絢爛の妖精王(オベロン)』 」
 鋭く響くルークの声は、すぐに無数の金色の光へと変わる。それはまるで蝶のように舞い踊りながらラビットの方へと向かってくる。
 勢いのついたラビットの身体は、金色の蝶の群れへと自ら飛び込んでいく形になる。
――――まずい。
 思考が凍る。
 一瞬が、ひどく長く感じられた。
 ルークは目の前にいるというのに、剣の切っ先が届かない。視界は全て金色の蝶で埋め尽くされ……
「爆ぜろ」
 声が、遥か遠くから聞こえた。
 その瞬間、ラビットにまとわりついていた金色の光が、爆発した。