Planet-BLUE

057 アスガルズ

 ラビットの纏う黒いコートが、鮮やかな光に照らされて、明るい色に染まる。ラビットは体中のバネを使って高く跳躍し、空中へと舞い上がる。
 普通ならばその行動は致命的なものである。人間は空中では身動きが取れない。そこを狙い撃ちされればひとたまりも無いだろう。
 当然コランダムもそこを狙って魔法を放つ。
「行け……『滴り落ちる円環(ドラウプニル)」
 集中と発動のための言葉が、コランダムの口から放たれる。コランダムの両手首に出現した数十もの小さな金色の輪が射出され、曲線的な軌道で空中のラビットに迫り来る。
 自由落下に身体を任せていたラビットは、すぐに「空を蹴った」。
 何もないように見えるラビットの足元に青い「足場」が出現し、逃れようも無いと思われた輪の射程から脱出し、視覚では捉えきれないくらいのスピードでコランダムの背後に回りこむ。
 何とかその場で一撃を喰らわせようとしたのだが、コランダムは反射的に左手をラビットがいると思われる位置に振りかざす。
「 『万物裂く聖剣(グラム)」
 声と同時にその手の延長線上に伸びた青い光の刃。触れただけで精神を侵す、『死呼ぶ神の槍(グングニル)』をそのまま圧縮強化した魔法だ。ラビットは刃に触れないよう一歩下がると、右腕を大きく振るう。
「 『死を喰らう疾風(フレースヴェルグ)』!」
 ラビットを基点として周囲に突風が巻き起こり、そのあまりの激しさにコランダムも一瞬目を閉じる。もちろん今放たれた技に威力が伴っていないのは発動地点でコランダムも察したらしく、防御策を取ろうともしなかった。
 ラビットはその隙で再びコランダムから距離をとり、空中を駆けあがる。
 難しい。
 コランダムが再び放つ金の輪を避けつつ、思案する。
 自分が予想した以上に相手は冷静である。
 しかも、魔法を練るスピードはラビットの方が圧倒的に遅い。今の『死を喰らう疾風(フレースヴェルグ)』も、あとコンマ一秒集中する暇を与えてくれるのならばコランダムにダメージを与えることも可能だったのだろうが。
 まだ自分は、コランダムの高速発動の仕組みを理解していない。
「情報が少なすぎるな」
 ラビットは呟きながらも、金の輪の合間を縫って再びコランダムに接近する。当てられるとは思わないが、攻めなければ勝機は見えない。
 勢いをつけたまま、コランダムに迫る。先ほどのように応戦するかと思われたが、予想外にもコランダムは一瞬だけ困惑した表情を見せて、数歩下がった。
「お前は」
 コランダムは体勢を整えると、とてつもなく不可解なものを見るような目つきでラビットを見やる。
「魔法士にしては奇妙な戦い方をするな」
 ラビットは攻撃が失敗したことがわかるとすぐに間合いを取りなおし、黙ってコランダムを見据える。
 感心しているのか呆れているのかよくわからない口調でコランダムが続ける。
「発動公式も姿勢も無茶苦茶だ。効率が悪すぎる」
「悪かったな」
 ラビットはコランダムの言い分がどうにも気に入らないらしく、少々声を低くした。
 コランダムの言葉が事実であることも十分承知している。魔法士は「停滞の士」である。自身は動かず、他の援護を行うのが基本であり、一対一で戦う場合にも後先考えずに接近戦を挑むようなことはしない。少なくとも、軍の魔法士隊ではそう教わる。
 が、確かに軍の魔法士であったはずのラビットの戦い方は明らかに荒削りであり、純粋な魔法士というには程遠い。コランダムが呆れるのも無理は無い。
「だが……常識が通用しない分戦いづらいのは確かだ」
 コランダムはそこで言葉を切り、手を揺らめかせる。何が来るのかは判断できないが、ラビットは空中で身構える。
「 『滴り落ちる円環(ドラウプニル)』 」
 三度、迫り来る金の輪。ラビットの知らない魔法ではあったが、こう何度も放って来ればそろそろ目も慣れてくる。
 無数の光の曲線軌跡ではあるが、それも計算の上での動きでしかない。根源的な物理法則は無視できない。
 魔法により強化された跳躍力と重力操作能力で、ラビットはすぐに高みに離脱する。
 だが。
 ラビットの離脱位置を予測して放たれた一条の青い光が、眼前に迫る。『死呼ぶ神の槍(グングニル)』だ。
 魔法の同時発動。
 ラビットはすぐにそれを悟った。
「バケモノか……っ!」
 毒づきながらも、迷っている場合ではない。
 ラビットは即座に身体を反転させ、地面に向かって空を蹴る。自由落下に任せる暇も無かった。勢いのついたラビットの身体は地面へと叩きつけられる。
 放たれた魔法は虚空へと飛び去ったが、受身を取ったのにもかかわらず全身に激痛が走る。隙だらけになったラビットに向かってコランダムが右腕を揺らすのを目の端に捉え、ラビットも倒れたまま集中無しで言葉を紡ぐ。
「 『矮小なる介入(ラタトスク)』 」
 声と共に、ラビットの右腕から放たれた小石程度の光の粒が、コランダムへと向かっていく。
「その程度か」
 本来ならば魔法の発動を妨害する光の粒は、しかしコランダムの腕の一振りでかき消される。集中無しで放たれた妨害魔法など、通用しないことはラビットとて理解している。
 呼吸を整え、コランダムを見据えて立ち上がる。あえて、コランダムもそれを待っているようだった。腕を下ろし、ラビットに対しどこか侮蔑すらも含んだ目を向けている。
「興醒めだな」
 コランダムの言葉に、ラビットは何も答えない。
「 『闇駆ける神馬(スレイプニル)』による高速移動から攻撃へと移行……確かに奇抜なスタイルだが、攻撃のスピードが追いついていない」
 どこか余裕すらも含んだ口調で、コランダムが続ける。だがそのどこにも隙はない。ここで仕掛けたとしても間違いなく、スピードで勝るコランダムの攻撃の方が先に発動するだろう。
 コランダムは喉を鳴らして笑う。
「この程度の魔法士に太刀打ちできないとは、軍神候補も大したことは無いということだな」
 軍神候補、というとおそらくはあのレイ・セプターのことだろう。
 何故突然セプターの名が出てきたのかはわからないが、ラビットは微かに眉を上げる。コランダムはラビットの微妙な表情の変化には気づかなかったらしく、軽く頭を振る。
「全く、つまらない。……そうだな。せめてこれで終わりにしよう」
 コランダムの目が、細められる。
 ラビットは言い表しようも無い悪寒を覚え、身構える。
 優雅な動きでコランダムは身体を低くし……その時初めてコランダムが直立状態から体勢を変化させた……バルコニーの石畳に手を触れる。
 その体勢の意味を、ラビットは「知っていた」。
「 『猛り狂う腐龍(ニーズホッグ)』 」
 コランダムの、声。
 瞬間、ラビットは大きく横に跳んだ。
 コランダムの手が触れた位置から、石畳がはじけ、目には見えない衝撃波が深く石畳をえぐりながら猛スピードでラビットに近づく。一撃は避けたが、衝撃波は誘導性能を持つらしく、その鎌首をすぐにラビットに向け直す。
 まさしく、それは自在に地中を這い回る龍のごとく。
 高速で近づく「力」の奔流。まともに喰らえばひとたまりも無い。
 先ほどのように空中に逃げることができれば良いのだが、『闇駆ける神馬(スレイプニル)』は高位で消耗も激しい。短期決戦を狙っていたが、ここまで戦闘が長引いたとなってはもはやラビットにそこまでの魔法行使容量は残っていない。
 それでも。
 ラビットは、口端を上げた。
 それは、主に彼の自嘲の笑みであり、そして。
「早まったな、コランダム」
 その声は、あくまで淡々としていた。
 コランダムが声に驚き、目を上げたときには遅かった。
 ラビットは、その時初めて「左腕」を上げ。
「行け、『呪縛する銀糸(グレイプニル)』 」
 静かな声で、告げた。
 ラビットの左腕から放たれた擬似存在の銀の糸は、執拗にラビットを追う衝撃波と違い、単純な直線軌道でコランダムへと向かっていく。
 にも関わらず、コランダムはそれを避けることが出来なかった。
 体勢が、悪かった。
 魔法の使用には、先ほどコランダム自身が言ったとおり、「発動公式」と「姿勢」がものを言う。公式を理解することがまず高速発動の近道であり、そして。
 コランダムを初めとする魔法士の特徴である直立不動の姿勢は、他の身体機能を一時的に抑えこみ、身体のシステムを八十パーセント魔法構築バイパスに切り替える一種の「儀礼」。
 ただし、その中には勿論例外も存在する。
 今、コランダムが放った『猛り狂う腐龍(ニーズホッグ)』がまさにそれである。
 現在使用者が存在する紋章魔法の中で最強と称される魔法。事実、威力も速度も他の魔法の比にならないのだが、この魔法には、一つ大きな弱点がある。
 そう、「使用者の『末端』が触れた平面から伝導する衝撃波」であるという能力の特徴自体がこの術の弱点だったのだ。
 コランダムは一度衝撃波の誘導を切り離し、ラビットの攻撃に対して防御魔法を発動させようとするものの、不安定な体勢からでは十分な集中が得られるはずも無い。
 誘導を失った衝撃波はバルコニーの欄干を打ち崩し、そのまま勢いをも失う。
 ラビットが放った銀の糸は、焦りの表情を浮かべたコランダムの腕に絡みつく。
「……バイパス閉鎖、思考ジャミング開始」
 ラビットは糸を繰りながら、呟くように言う。指示に従い糸はそれ自体が意思を持つかのようにコランダムの身体に絡み付いてゆく。
 コランダムは何とかその糸から逃れようと身体に力を入れるが、糸は少しも緩むことが無い。同時に、何者かがまるで頭の中に砂をまいているかのような錯覚と共に魔法への集中を妨げる。
 対魔法士魔法。相手の動きを封じ、なおかつ魔法使用までも封じる完全な「呪縛」の魔法。
「狙っていたのか」
 コランダムが唸るような声を上げる。ラビットは靴音を立てながらコランダムに近づく。
「……ああ。純粋な実力では貴方に勝てるはずも無い」
 軽く、肩をすくめてラビットは言った。息は荒く、度重なる魔法の使用からか顔色も悪かったが、声は穏やかだった。
「ただ、貴方が『龍使い』という噂は聞いていたからな……龍を使う瞬間ならば他の術に対する集中も解けると思った」
 『猛り狂う腐龍(ニーズホッグ)』の使用時の特殊な体勢。それが命取りであることは、コランダムも十分に知りえていたことである。
 決着を焦った。
 ラビットがこれを狙っていたということまでは気づけなかった。
 どうにも詰めが甘い。
 コランダムはそう思い、苦笑する。
「一つだけ、聞かせてくれ、白兎」
「何だ」
「お前は、あれを連れて何処へ行こうというのだ」
 コランダムの目は、バルコニーの奥……トワが隠れているだろう場所……に向いていた。ラビットはかぶりを振った。
「さあな、私にもわからん」
「まあ、どちらにしろ気をつけるんだな」
 コランダムが、笑う。目に氷の刃を抱きながら。
「無限色彩は、周囲をも破滅させる、呪われた力だ」
 ラビットは、目を見開いた。戦闘中には微塵も感じなかった不快感が、再び蘇る。
「黙れ。貴方に彼女の何がわかる」
 掠れた声が、漏れる。
「ふん、私は警告しているだけだ。それに、そう言うのであれば私もこう返してやろうじゃないか。『お前に、無限色彩保持者の何がわかる』 」
「……っ!」
 反射的に。
 ラビットは動かない右手をコランダムに向けていた。少し意識を向ければ、槍がコランダムを貫く。感覚を研ぎ澄ませ、青い刃のイメージを高めていく。
 ラビットの敵意に気づいていながらも、コランダムは歪んだ笑みを崩そうとはしなかった。
 
 
「……それに、お前に『無限色彩の被害者』の何がわかるというんだ、白兎」
 
 
 その言葉を聞いた瞬間、ラビットは迷わず『死呼ぶ神の槍(グングニル)』を放っていた。