近頃のラビットは、何かが変だ。
トワは、そんなことを思いながら、横に立つラビットを見上げていた。
初めからそれほど多くを語るわけでもなかったが、近頃は余計に口数が減ったように思える。感情が表に見えないのも相変わらずだが、そこには常に影が差しているような、暗い何かを感じる。
「どうした?」
ラビットが、ふとこちらを見上げているトワに気付いたらしく、静かに問う。トワは、何も言わずに首を横に振った。
ラビットは膝を折り、トワと目線を合わせた。サングラスの下にある真紅の瞳が、軽く揺れた。
トワは近頃ラビットを眺めていて初めて気づいたのだが、ラビットの両目の色は微妙に異なる。トワ自身の感覚を信じるのであれば、左目は良く出来てはいるが、明らかに神経の通っていない作り物だ。
作り物の左目と、弱視の右目。ラビットの視力が無いに等しいことはトワも理解しているつもりだったが、よく考えなくともラビットは常に大きなハンディを抱えながらトワを守っていることになる。
それを思うと、少し苦しい。
その上、ラビットは絶対に自分からは言わないのだろうが、彼の右手が動かないのは前から気づいていた。ただそれを言っていいものかどうか、トワはずっと悩んでいた。
「……不安か?」
トワの困惑を察したのか、ラビットが穏やかな声で問う。なるべくラビットを困らせまいとしているつもりではあるものの、いつもトワの不安はあっけなく看破されてしまう。
仕方なく、トワはこくりと頷いた。
ラビットはいつものように口端を少しだけ上げ、トワの頭の上に手袋を嵌めた左手を載せて立ち上がった。
「大丈夫だ、何とかなる。……今回はいつも以上に乱暴な手段だが」
別に、今の事を心配しているわけではない。
わたしが心配しているのは、ラビットのこと。
トワはそう言おうと思ったけれど、茜色に染まりかける空をどこか悲しげに見つめるラビットを見上げると、何も言えなくなってしまう。
トワの不安は鋭く察せるというのに、自分に対する不安は見つけることが出来ないのか。
それとも、不安が自分に向けられていることに気づいていながらも、何とか誤魔化そうとしているのか。
一瞬頭に浮かんだ考えを振り払い、トワもラビットに倣って空を見つめた。
いつもは白い空が、夕日に赤く染め上げられていく。グラデーションが段々と濃くなっていくのが目に見えてわかる。夜が近い。
『おっさん』
ラビットのコートに仕掛けられた小型の通信機が、声を発した。聖の声だ。だが、聖の姿はこの場の何処にも見えない。
「来たか」
『ああ。北東より、あと十キロくらい』
ラビットはコートのポケットから、黄銅色の懐中時計を取り出した。ぱちりと蓋を開けると、何重にも重なり合った青色の小さな文字盤画像が時計の上に浮かび上がり、それぞれにばらばらな時を示す。
「それ、時計?」
見たことも無い仕様の時計である。外見だけはアンティークながら、その実かなり精巧な最新鋭の時計のようだ。ラビットは文字盤を一瞥し声だけでトワの質問に答える。
「ああ。……なるほど、時間ぴったりか。奴らしい」
ラビットは複雑な時刻表示を一瞬で理解し、懐中時計を閉じると再び無造作にコートのポケットの中に突っ込んだ。
『どうする?』
「計画通り行く。……ここで撒かなければ、撒く機会を失うだろう」
『オーケイ』
緊張感のある聖の声。
ラビットも、北東方面に目を向けたまま、動こうとしない。やがて闇を呼ぶ赤い空は、ラビットの靡く白い髪をも真紅に染め上げていた。
ああ。
トワはそんなラビットを見上げて思った。
このまま、ラビットは夕日に溶けて消えてしまうのではないか、と。
そのくらい、今のラビットは儚く見えた。
いつかの夢で見た、風に溶けていく姿のように。
「トワ」
ラビットが、淡々と言った。
「……貴女の旅が、幸福に終わることを信じたい。そのために、私は戦う」
戦うなんて言わないで。
わたしは、ただラビットに。
「ラビット」
トワが、言う。
「旅が終わったとき、きっと一緒に、いてくれるよね」
それが、今のわたしの願い。
そう、トワは心でラビットに伝えようとしていた。
ラビットは色眼鏡の下の目を少しだけ見開き、それから再び、口端を上げた。その表情は、彼なりの笑顔であると同時に、少しだけ自嘲のようなものを含んでいるようにも見えた。
ふと、ラビットは再び空を見上げ、目を細めた。
「……作戦開始だ」
夕日は、ほとんど地平線の向こうに沈みかけていた。
トワは唇を噛む。
「大丈夫」
静かだけれども、確かな、ラビットの声。
「私は絶対に貴女の横にいる」
最後に残された幽かな光が、ラビットとトワの頭上にある、巨大な観覧車を浮かび上がらせていた。
「廃墟の遊園地か」
夕日が完全に沈もうとしているその時、一番近くの港から小型の車を走らせてきた連邦政府軍少佐ケイン・コランダムは、地図に映っているマーカーを見据え、呟いた。
マーカーはここから南西にある遊園地を指していた。
「……それは?」
横に乗っている少尉ルーナ・セイントがフロントガラスの前に浮かび上がっている立体映像の地図をざっと眺めながら問う。
「前回の接触の時、ターゲットの乗っている車に発信機を取り付けておいた」
そう、前回機兵にラビットたちを追わせたのは、捕まえられると思ってやったことではない。向こうには気づかれないように発信機を撃ち込むことが目的だったのだ。
数日間様子を見ていたが、発信機に気づかれた様子は無い。
「この惑星に存在している『白の二番』のせいで『青』の精神追跡が使い物にならないからな。このような原始的な戦法の方が早い」
コランダムは口端を上げる。
「とっとと終わりにするぞ、少尉。無限色彩のいざこざに関わるのは御免だ」
放たれたその言葉に何か引っかかるものを感じ、セイントは地図からコランダムに目を移したが、コランダムはその視線には気づかずアクセルを踏んだ。
それにならって加速した軍の一団は、そのまま闇に溶け込みかかっている遊園地のゲートをくぐった。
遊園地、とはいうもののそれほど大昔の施設ではないらしく、その規模は大きく設備もかなり新しい。ジェットコースターや観覧車などは、遊園地と呼ばれるものには大昔から変わらず存在し続けているようだったが。
「二班から五班までは北から、六班から九班までは南から回り込め。我々と十、十一班は中央を見て回る」
いくら広い遊園地だからといって、車をそのまま走らせるのには無理がある。それに、このような場所であれば、隠れるのには困らない。人間に発信機がついているわけではない以上、ここまで来ればしらみつぶしに当たるしかないのだ。
セイントは、手際よく指示を飛ばすコランダムの声を聞きながら、近頃調子のよくない左腕の武器を調整していた。
「行けるか?」
指示を終えたコランダムが問いかける。
「ええ、大丈夫です。行けます」
「そうか。ならば」
コランダムが言葉を紡ごうとした時、強い風が吹いた。
ラビットの手が、コンソールの上を走る。
「全体を予備電源に切り替える。……カウントスリー」
トワは、透明なドームとなっている天井を見上げた。
手を放し、トワに倣ってドームを見上げたラビットも無言で、その時を待った。
それが、風だけであったならば。
「何だと……?」
がたん、という衝撃音があちこちから聞こえた。
そして、急に暗闇に無数の光が灯り始めた。大音量で流れる陽気な音楽、客が無いのに動き出す、色とりどりの乗り物。
一瞬前まで沈黙に包まれていた廃墟が、「遊園地」に戻ったのだ。
「少佐、一体何が」
「くそっ」
コランダムは即座に遊園地の全体地図を手元にダウンロードする。
「我々を撹乱する気だ。奴等がいるのは、中央部」
遊園地の中心にあるのは、巨大な観覧車が目印の大広場。そこに、この遊園地のアトラクションを統轄するコンピューターが存在する。
間違いなく、死んでいたはずの統轄コンピューターに何者かが介入している。アトラクションを動かしているのは、おそらくまだ生きていた予備電源か何かなのだろう。
「……馬鹿にしているのか?」
コランダムは吐き捨てるように言った。だが、意外にもその表情に怒りは見えない。一瞬の混乱はとっくに消えうせ、彼の思考はすでにターゲットを追い詰めるための回路に切り替わっていた。
ターゲットの行動は無駄が多すぎる。
今の行動も、こちらに居場所を示しているようなものだ。
中央部にいることがわかった以上、今から逃げようにもそうそう遠くまで行けるはずが無い。車が動けばこちらでも把握が出来るのだから。
頭の中でシミュレーションを繰り返しながら、コランダムは走り出す。あらゆる状況でシミュレーションを行っても、ターゲットは捕縛できるという結果しか出ない。
横を走るセイントも、同じ事を考えていたのだろう。どこか呆れたような表情を浮かべている。
「こうも簡単に詰みとはな」
呟くコランダムに、表情は無かった。
『おい、おっさん』
何処から発されているのかよくわからない聖の声。
ラビットは、トワを連れて走っていた。しかも、何故か東方向に。
『そっちは軍の連中が来てるぞ』
「知らずに走っていると思うか」
ラビットの返答に対し、聖は大げさに呆れた声を出して見せた。
『おっさん、クレイジーだ』
「褒め言葉として受け取っておく」
ラビットはさらりと受け流し、トワの手を引いて手近な建物に駆け込んだ。
「西はどうだ、聖」
『……おっさんの言うとおりだっつーのが気にくわねえんだけどな』
「最高のタイミングだ」
この区画は元々土産物屋か何かだったのだろう。それなりの高さを持った建物が立ち並ぶ一角であり、まあ好都合だとラビットは思いながら通信機に話しかける。
「では、待機していてくれ。下手に動けば西の連中を刺激する」
『おうよ。お互いの健闘を祈るぜ』
建物の奥へ奥へと向かいながら、
「面白い見世物になりそうだな」
淡々と、ラビットは言った。
Planet-BLUE