多分お互い言葉にすることは無かったが、聖はもちろんのことトワも既に気付いているのだろう。
思いながらラビットはハンドルの上にただかけてあるだけの右手を忌々しげに見つめた。
今まで誰にも明かすことの無かった病気は確実にラビットの身体を蝕んでいるようで、すでに右手首までが硬直し始めていた。
これがラビット本人だけの問題であればそう困った事態ではない。元々ラビットは左利きであり、腕の関節が動く今であれば、多少の不自由こそあれど右の手や腕に刻まれた紋章魔法も問題なく発動させることが出来る。
ただし、それもやはり時間の問題だ。
薬で進行を遅らせることはできるものの、頼みの綱であった鷹目の薬はとっくに切れていた。目に見えて進行は早まっている。腕の関節が侵されるのもそう遠い話ではないだろう。
そして、その後に肩が固まり、最終的には。
その先を思い浮かべてラビットは思わず溜息をもらす。
「この星の灯火が消えるのが先か、私の灯火が消えるのが先か……」
後部座席にいるトワには聞こえないように口の中で呟き、その後呻くようにこう付け加えた。
「悪い冗談だ」
せめて、トワをめぐる問題が解決するまでは、死ぬわけにはいかないのだ。
だが、そのためにはどうすればよいのだろう。トワの言うとおり東を目指すのは良いのだが、このまま行けば大陸の東端に辿り着くだろう。
東端。
このまま行けば、何処に至る?
それを考えようとした瞬間、ラビットの思考回路は一瞬で凍りついた。
スピーカーから流れるのは、ピアノの旋律。
不安定であり安定である、接触と切断と流動のメロディー。
この先に何があるのか、ラビットは知っていた。
トワがそこを目指す理由も、何となく理解できないことは無かった。
そう、彼女はいつも言っていたではないか。
「 『白の二番』を探している」……と。
聞き覚えのある、言い換えるならば飽きるほど聞いたピアノの旋律。
嫌いだと何度も言ったはずだが、自分の指は言葉に反し、常にこの曲を選択し続ける。
あてもなく旅を続けていた、その終わりの場所があの場所とは、何という皮肉だろう。
声を上げて笑い飛ばしてしまいたかったが、今のラビットにそれが出来るはずもなく。
思い出すのは目を開けて、初めて目に入ったもの。
見えるはずの無いその眼に映っていたものは、真っ白な空と、そこに無慈悲に光る青い点……
悲しいのに無慈悲なピアノの旋律。
何処までも澄んでいて、何処までも混沌としていて。
悪い冗談だ。
ラビットは何とか頭を振って、思い浮かんだ「最悪の光景」を振り払おうとする。
トワがその場所を目指しているのは必然であり偶然で、自分には関係ないのだと自分自身に言い聞かせようとする。
だが、その思考をも凍らせる、ピアノの旋律。
左手を振り上げ、機械的にピアノの旋律を流し続けるスピーカーに狙いを定め。
すぐに思いなおしてデッキのスイッチを切った。
「まだ、逃げているのか」
静寂に包まれた車内でラビットは呟いた。
誰が、何から逃げているというのだろう。それすらもわからないまま、ただラビットの口はその言葉だけを無意識に吐き出していた。誰に問うでもなく、誰に聞かせるでもなく。
トワがあの場所を目指していたことは初めにわかっていていいことだったと思う。それも、おそらく彼女がそこを目指しているのは彼女の意志というよりも、何者かが導いていると考えることができたはずだ。
そうすれば、彼女が漠然と「東」としか言わない理由もつく。
ならば、彼女が何故あの場所を目指すのか。
決まっている。『白の二番』をあの場所に見出そうとしているのだ。
『白の二番』を求めているのならば、あの場所は避けて通れない。
誰が彼女を導いているのか、何故彼女が『白の二番』を求めるのか、それは未だ闇の中ではあるけれど、確かに目的地は見えた。
「良かったじゃないか」
そして、目的地が見えたのと同時に。
自分がその場で選択を迫られていることに気づいた。
「これで、彼女は答えを見つけられる」
嘘だ。
機械的に自分の口が紡ぐ言葉を聞きながら、心の奥では確実に言葉を否定している。矛盾に気づいている。
あの場所に行くだけでは、『白の二番』を見つけられるはずは無いのだ。
そう、自分はそれを知っている。
あの場所と、『白の二番』との決定的な関連性を――――
「後は貴方だけだ、ラビット」
無意識下の意識が、自分の口を借りて自分に語りかける。
「貴方はあの場所で彼女に向き合い、それでも全てを否定して逃げ続けることが出来るのか?」
心の奥から絶え間なく湧き上がってくる何かを無理矢理押さえ込み、口を閉じる。
もっと早くに気づかなくてはいけなかった。
逃げ続けていたのは、矛盾に背を向けていたのは、ただ一人自分だけだということに。
その度に矛盾だけが深まっていたというのに。
バックミラー越しに、浅い眠りに落ちているトワを見た。青銀色の波打つ髪が、軽い車の揺れに合わせてさらりと肩から零れる。眠りに身をゆだねているその表情にいつもの不安な面影はなかった。
「ラビット」
硬く閉じていたはずの口は、自分で、自分の名を呟く。
もはや、それは自分の「名前」ですらないのかもしれない。ばらばらになりそうな自分を繋ぎとめる、唯一の「記号」。
「何を恐れる必要がある。一言、言えばそれで終わる」
そのくらいはラビットとて理解している。
終わらせてしまえと自分の中の声が囁きかける。
だが。
ラビットは左腕を振り上げ、今度は遠慮なく横の窓を強く殴りつけた。鈍い音と共に、握り締めた白い手袋に爪が食い込み血を滲ませる。鋭い痛みが腕に走って、やっと闇に引き込まれそうになっていた精神がこちら側に引き戻される。
自分の奥底から聞こえていた何かの声も、聞こえなくなっていた。
認めるわけにはいかない。
矛盾が深まることなど承知の上だ。それでも、今更ここで否定するのをやめることはできない。
それこそが矛盾なのだと気づいていても。
『ラビット』
不安げに、龍飛がラビットの顔を覗きこむ。おそらく、先ほどから様子のおかしかったラビットを気遣っているのだろう。
ラビットは数回瞬きしてから頭を押さえ口端を軽く上げてみせた。
「大丈夫だ。いつもの『発作』だ」
龍飛は、その言葉を聞いて何も言えなくなってしまった。言い方が悪かったか、と少し気まずさを覚えつつも、ラビットはフロントガラスの外に広がる赤茶けた大地に目を移した。
「龍飛」
何処までも広がる地平線。
赤い大地と白い空の、コントラスト。
これに似た風景を、どこかで見たことがあった。
何処だっただろう。思い出せない。
『はい』
答える龍飛に、ラビットは淡々と告げた。
「私は、もうすぐ壊れるかもしれない」
龍飛は一瞬とても悲しげな表情を浮かべて見せたが、すぐに小さく頷いた。
『覚悟しています』
その言葉を聞くだけで、ラビットは満足した。龍飛に辛い思いをさせているのは確かだが、そう言ってくれる存在がいるだけでも、彼は救われていた。
「彼女に、いや、何より自分に嘘をつき続けるというのは難しいものなんだな、今になってやっと自覚したよ」
今までも、何度も自分が壊れそうになったことはあった。今のように内部から何かが自分を突き崩そうと蠢き、自分の口を借りて何かを自分自身に語りかけ、揺さぶる。
もちろん、蠢いているものが何なのかも、わかってはいたが。
「私は、とんでもない臆病者だ」
動かない右手をそっと左の肩にかけて、祈るように目を閉じる。
「結果的には自分が壊れるとわかっていながら、自分が壊れることを一番恐れている」
今回もそう。
結局は、結論を先延ばしにすることで、全てが自分に降りかかる。
『聞いてもよいですか、ラビット』
龍飛が、珍しくはっきりと、ラビットに言った。
ラビットはふと目を開け、「ああ」と彼女の言葉を促す。
『……貴方は、何故そこまで頑なに全てを拒み続けるのですか?』
聞いてはならないことということは理解しているのだろうが、龍飛はラビットのサングラスの下の瞳をしっかりと見据えて問う。
そういえば、龍飛にすらも何も話していなかったか、とラビットは目を伏せる。
「簡単なことだ」
本来拒むことの出来ないことを、否定し続ける。
それは苦痛でしかなかったが、そうするにも理由がある。
「私が全てを受け入れてしまえば」
最後に残っているものは、空虚な白。
目の奥に焼きついた、白い風景。
何もかもが白く焼きついた、白の原野。
「私は無意識のうちに全てを壊すだろう。そうするくらいならば、全てを否定して自分を壊す方が幾分か気が楽だ」
Planet-BLUE