Planet-BLUE

052 兎追いし

 石畳を蹴り、路地裏に逃げ込んで彼女はやっと息をついた。
 その左肩は赤黒く染まっていて、指先に液体がつたい落ちる。もはや痛みはほとんど感じなかったが、腕を動かすことは出来ない。
 ちっ、と舌打ち一つ。
 そうしているうちに近づいてくる足音。彼女は右手で重いトランクを握り締め、再び駆け出した。人影一つ無い道をあてもなく駆け抜け、何とか追ってくる殺意を振り切ろうとする。
 そう、彼女は逃げていた。
「あたしらしくもない……」
 呟きつつ、少しも速度を緩めることなく、角を曲がる。
 足音は近づくこともなく、だがけして離れることなく、彼女の耳に届く。それが余計に彼女を苛立たせる。
 ほんの少し見上げれば曇天。分厚い雲がかかっていて、近頃には珍しく、雨が降ろうとしていた。それも彼女の状況を変えるわけではないが。
 どうする。
 どうすれば、追ってくる殺意を撒けるのかわからない。
 ただ焦りだけが彼女を支配していく。
 その時だった。
「……!」
 いくつめかもわからない角を曲がった彼女は、すぐにそれに反応することが出来なかった。
 目の前に、何者かが飛び出してきたのだ。
 まずい。
 そう思った瞬間、彼女は衝撃と共に倒れた。石畳の上に転がりながらも、すぐに手と膝をつき体勢を直す。
 そして、飛び出してきた相手を見て、目を丸くした。
 彼女と同じように石畳の上に倒れこんだそれは、あまりにこの緊迫感に似つかわしくないものだった。
 もうこの時代にはとっくに廃れている黒のカソックを身に纏い、同じ色の帽子をかぶっている。その下から見える金色の髪はまるで糸のようで、肌の色も陶磁器のように白い。
 その首にかかっているロザリオを見ずともわかる。
 明らかに彼女の目の前の男は、聖職者だった。
 もちろん彼女は無神論者だが、今この状況で神に仕える存在に出会ってしまうとは、何とも神様というのは皮肉なものである。
 事態の異常さに気づく前に、彼女は男を無理矢理立たせる。男は多少の呻き声と共に、顔を上げて彼女を見た。こちらを見つめる目は澄んだ水色をしていた。
 男は、しばらく目を白黒させて今の瞬間何が起こったのかを考えていたが、やがて穏やかな声で言った。
「申し訳ありません、少々考え事をしていたもので」
「ああ、もうそんなのはどうでもいいの!」
 彼女は男の言葉を遮ると、きっと男を見つめながら、その胸を強く叩く。
「あたしはアンタにかまってられないし、早く逃げないとアンタまで巻き込む!」
 言ってから、自分らしくないと心の奥で叱咤する。
 今までならば、こんな部外者、見た瞬間に処理していた。残しておけば不利にしかならない。わかっていながらも、どうにかして男をこの場から逃がそうと思っている自分には逆らえない。
「一体、何が」
 状況が把握できていない男は首を傾げて彼女に問う。把握できていなくても当然である。これは、あくまで彼女の問題なのだから。だからこそ、彼女はただまくし立てることしかできない。
「関係ない! 早く、ここから離れて」
 しかし、遅かった。
 彼女はとっさに自分と男を庇うように右手のトランクをあげた。鈍い音、手に伝わる衝撃。
 男が、息を飲むのが聞こえた。
 今日何度目になるかわからない舌打ちと共に、彼女はトランクを下ろすとこちらに向かってくる人影を見つめた。
 何者なのかはわからない。そんなものは関係ない。確実にわかっていることは、その人影が、彼女を狙う「追手」であることだけ。知っているべきことはそれだけだった。
「……神よ」
 呟きが、背後から聞こえる。
 完全に巻き込む形になってしまったことに後悔しつつも、彼女は男から意識を目の前の追手に移す。
 逃げ出すことはおそらく不可能ではない。が、ここで逃げ出せば、死ぬのは背後の男である。この状況を見られて不利なのは自分だけではない。対峙する追手とて同じことなのだ。
 それが、闇に生きる彼女等のルール。
 理解しているからこそ、もう逃げることは出来ない。
「黙って。……絶対に動かないで」
 彼女は追手から目を離すことなく、小さな声で背後に言った。
「待ってください、貴女は、何を」
「あそこにいる奴を殺すの。いいから黙って」
「殺す? 何故」
「アイツを殺さなきゃ、あたしが死ぬから。アンタも」
 そこまで言って、男はやっと黙った。
 息を整え、トランクの取っ手を強く握る。この鈍色の箱が、彼女の唯一の武器であり、防具でもある。
「ったく、よく逃げたもんだ」
 よく響く声で追手は言った。顔は良く見えないが、手には銃のようなものが握られているように見える。
「はん、アンタもよく飽きないもんね」
「アンタとは違うからな、裏切り者の三月兎。……ま、『大佐』は気に入らねえが、これも仕事だ」
 強い殺気が、風のように吹き付ける。
 それだけで、追手がかなりの実力者だということがわかる。
 今までの彼女ならば、間違いなく追手に背を向け、背後の男のことなんかには構わず逃げていたというのに、何かが彼女の足をその場に留まらせていた。今までの彼女には無かった、何かが。
 トランクの取っ手にはトリガー。
 男が銃を構えるのが視界に移る。
 まさに一触即発。
 短く息を吸ってトリガーに指をかけ――――
 
 
「なるほど、貴女が『関係者』ですか」
 
 
 唐突に、あくまで穏やかな声で男が言った。
「え」
 反射的に振り向くと、そこに男はいなかった。
 ひやり、と首筋をつたう何か。それは、すぐに全身に伝わっていく。戦慄、とでも言えばよいのか。自問するがその悪寒の正体を正確に答えることは出来ない。
 わかることは、それが先ほどの殺気を上回る死の気配だということだけ。
 ゆっくりと、追手に目を戻す。
 そこに、もう追手はいなかった。
 いるのは、一瞬前まで背後にいた男、そしてそこにあるのは一瞬前まで追手だったモノ。
「気づけなくて申し訳ない。こちらも情報が少なかったもので」
 男は帽子をとり、深々と一礼する。金色の糸が、肩の上で揺れた。その動作があまりにも優雅で、彼女は息を飲む。
 あまりに突然の出来事で、頭が麻痺する。何が起こったのかわからない。
 いや、実際にはわかっていたはずだ。
 そもそも存在自体が場違い。普通こんな場所に「聖職者」はいない。計ったような出現のタイミング。さらに心当たりがありすぎる、「関係者」という言葉。
「初めまして、マーチ・ヘア」
 静かな声が、耳に響く。
「ああ、本当に会えてよかった」
 目を覚ませ、マーチ・ヘア。
 このおかしな状況に気づけ。
 目の前の「神の遣い」は。
「貴女を見つけることが出来なかったらどうしようかと思っていました」
 トランクを握り締める。
 男をじっと見据え、考えることを拒否しようとする頭に喝を入れる。頭をクリアにして、全てを理解しろと彼女自身に言い聞かせる。
『ありがとう』
 ふと、どこかで聞いた大嫌いな声が頭を掠めた。
 裏切られるとわかっていて感謝の言葉を述べ、自分よりも他人を考え、彼女を苛立たせる存在。そして、彼女をこのような状況に追い込んだ張本人。少なくとも、彼女がそう思っている人物の声だった。
 その言葉のどこまでが本気だったのかなんて、彼女にはわからない。ただ、その言葉に彼女の心が揺らいだのは確かだった。正体のわからない感情を抱いたまま彼女は仕事を放棄し、追われる身となった。
 わかっている。
 ゆっくりと息を吐く。
 覚悟を決めろ。この道を選んだのは、自分自身だ。
 何が起ころうとも、受け入れて、立ち向かうまで。
「 『彼女』に関わった人間は全て処理しなくてはならなかったので……助かります」
 閉ざされていた思考が動き出す。やっと男の言葉が理解できるようになった。
 「彼女」。
 確信は無かったが、それが誰のことなのかは見当がついた。
「ああ」
 彼女は、口端を歪める。
 目の前にいるものは、「神の遣い」なんかではない。
 ある意味では「神の遣い」と言ってもよいのかもしれない。例えば死の運命を司る存在、という意味で。
「でも、あたしはまだ死ぬ気無い」
 はっきりと彼女は言って、トランクを構えた。
 得体の知れない「神の遣い」は、ゆらり、と一歩前に出る。いつの間にか、その腕には何か長い棒のような物体が握られていた。それが男の獲物。正体は不明。
――――上等。
 歪めた口端がつりあがる。モードは切り替わった。彼女の目に映っているものは、『敵』と認識された。
「そう言われても困りますね。処理しなくてはいけないのは貴女だけではありませんので。急がせて頂きます」
 男の言葉は彼女の耳に入らない。
 最早言葉などに意味は無い。戦闘に特化した彼女の意識はただ、男がいつ仕掛けてくるか、それだけに向けられていた。
 ただ一つ、考えている無駄なことといえば。
『ありがとう』
 そう彼女に言った嫌悪の対象。
「……全く、とんでもない厄介事を背負わせたもんね、ラビット」
 雨が一滴、石畳に落ちる。
 それが、戦闘開始の合図となった。