遠くで、叫び声が聞こえた。
トワが顔を上げると、そこは窓一つ無い白い壁に囲まれた空間だった。頭が朦朧として、何故自分がこのような場所にいるのか思い出せない。
だが、この場所には見覚えがあった。
足元に転がる色とりどりのビー玉。くすんで、ぼろぼろになってしまったぬいぐるみ。苦い薬の入った瓶。
怖い。
冷たい思い出ばかりが蘇る。
「やめて! こんなの、見たくない!」
叫んでも、こちらを押しつぶすかのようにそびえる白い壁は消えない。トワは膝をつき、頭を振った。どうにかして、この場所から逃れたかった。
そういえば以前は、どうやって逃れたのだろう?
ふと、そのような考えが頭をよぎる。落ち着いて思い返してみると長い間この場所にはいなかった気がする。それならば、どうやってこの場所から逃れたのだろう。
頭の中にかかっていた霧が晴れようとしている。
あの時は、誰かがいた。
今まで自分を包んでいた沈黙が破られた日。
自分の前にいたのは赤く染まった白い服を着た、見たことの無い姿をした大きな人だった。
だが、今その人はいない。
冷たい沈黙から自分を救ってくれる人は、誰一人としていない。
「助けて……!」
放った声も、まるで吸い込まれるように白い壁の中に消えていく。目を閉じて、何とか空間を見ないようにするが、意識だけははっきりと、この場に自分が存在しているということを認識している。
「助けて、わたしをここから出して」
その時、急に声が降ってきた。
「トワ」
トワが顔を上げると、いつの間にか自分に迫っていた壁はなくなっていた。夜の闇の中、幽かな明かりに照らされ、ラビットがこちらを覗きこんでいた。
夢。
記憶に残った生々しい感覚に、トワはしばらく自分が目覚めたのかどうかもわからなかった。ラビットは表情を崩してはいなかったが、心配そうな声色で尋ねる。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
そう言ってから、トワは目を見開いた。
自分に触れているラビットの指が、ぼろぼろと乾いた砂のごとく崩れ始めていたのだ。
「ラビット……?」
あまりにおかしな状況だというのに、ラビットは顔色一つ変えず、ただトワの目を見ていた。
「よかった……貴女を失ったら、私は」
「ラビット! どうしたの?」
ラビットは、そこで初めて自分の指が崩れ落ちたことに気付いたようだった。しかも、指だけに留まらず、今や風化は手首にまで及ぼうとしていた。
「ああ、そうか」
それでも、ラビットは淡々と言った。
「もう、時間か」
「時間……?」
トワは動けなかった。声も、掠れていた。風化は速度を増していき、ラビットの腕が見る間に砂と化していく。
「いいんだ、貴女が無事でいてくれれば、私は」
何かがおかしい。
それはわかっているのに、目が離せない。もう言葉も出なくなっていた。ラビットの表情はあくまで穏やかで、それが逆に恐怖を呼び起こす。
「どうか、貴女は」
ラビットがその言葉を言い終わる前に、ラビットの身体は一気に崩れ落ちた。後に残ったのは、ラビットであった砂と、夜の闇、そして、トワ。
「……っ」
夢だ。
これは夢だ。
そう自分に言い聞かせようとしたが、月の光も、冷え冷えとした空気も、無情に砂を運んでいく風の感触も、全てに現実感が伴っていて……
「い……」
ただ一人、その場に残されたトワは。
「いやああぁっ!」
トワは「目を開けた」。
夜の闇に包まれよく見えないが、そこは確かにいつも通りの車の中。前を見れば、ラビットがいつもと変わらぬ姿で寝息を立てている。ただ一つ違うのは、窓の外、少し離れた場所に見慣れぬ人影が立っていたこと。
トワに対して背を向けているが、そのシルエットはどこかで見たことがあった。同時にトワの記憶は、はっきりとその影の名を彼女自身に告げていた。
「白の……二番」
トワはすぐに車のドアを開けて飛び出した。
夢に見ることはあっても、一瞬接触することはあっても、けして届くことはなかった存在。
トワが、捜し求めていた存在。
今逃せば、次にいつ出会えるのかわからない。その前に、彼女の目的を果たさなくてはならない。
「 『白の二番』……クレセント!」
トワは叫んだ。前に、トゥールから聞いた『白の二番』の名を。影は、トワの方を振り返ることも無く、どこかで聞いた声で応えた。
「何だ」
「さっきの夢は、貴方が見せたの……?」
自分がかつていた場所の夢。
大切なものが崩れる夢。
現実と夢が混ざったような、奇妙な感覚。それは明らかにただの夢で済まされるようなものではなかった。例えば、誰かが意図的に夢を改竄しているような……嫌な感触。
「その通りだ」
影は淡々と言った。
「貴女も知っている通り、これが私の力だからな」
死者でありながら無限色彩として再び生を受けた『黒』鈴鳴刹那とはまた違う意味で「異端」の無限色彩『白の二番』。
無限の名を冠しながらただ一つ、「精神感応」の力しか持たない能力者。それが、今まさにトワの目の前にいる男……クレセント・クライウルフである。
彼の持つ能力は唯一の能力であるが、その力はトワを凌ぐとも言われている。
事実、精神に関わるものならば自在に介入できるため、トワが『白の二番』の居場所を特定しようと精神波を飛ばしても、存在しているかいないかの判別くらいしか出来ない。それは、クレセントが意図的に精神波をジャミングしているからだ。
だからこそ、トワは『白の二番』を捜し求めていたのだが。
トワは、なおも質問を続ける。
「何で、あんな夢を見せたの?」
「警告だ」
クレセントの声はけして大きいものではないが、はっきりとトワの耳に届いた。
「警告?」
「貴女は、私を捜していたようだが」
そこで一度言葉を切り、クレセントはゆっくりとトワの方に振り向いた。光の当たり具合で、丁度彼の顔は影になってしまっていたが。
「今のままでは、私も、貴女も……そして、白兎も救えない」
「?」
言っている意味がわからなかった。
何故、突然ラビットの名前が出てきたのかわからない。
しかし、先ほどの夢では、確かにラビットが……
「貴女が私を求める限り、全ては深淵の中」
クレセントは、空を見上げた。つられてトワも空を仰ぐと、真上に『ゼロ』が輝いているのが見えた。
「分岐点は『白の原野』 」
「しろの、げんや?」
トワが、空を見上げたまま問うと、すぐにクレセントが答えを返した。
「東の果て、『白の原野』に貴女を待っている者がいる」
「わたしを、待っている?」
『ゼロ』がこちらを見下ろしている。その時、トワの脳裏に幽かな声が響いた。
『捜して……白の、二番を』
それは、全ての始まりとなった声。トワを、地球へと導いた声。
『地球で、白の二番を』
はっとクレセントを見ると、月光の中に浮かび上がったクレセントは昏い、青い夜か海の底を思わせるような瞳を細めた。
「 『白の原野』へ来てくれ。そして、私を、捜してくれ」
トワが口を開く前に、クレセントの姿は闇に掻き消えた。脳裏に響く幽かな声だけを残して。
『捜して、私の言葉を、届けて……』
Planet-BLUE