彼は、紙袋を手にエレベータを降りた。降りてすぐ側にあったドアのチャイムを一度鳴らす。返事はない。それでも明らかに人の気配があることもわかっていた。
首を傾げながら、もう一度、チャイムを鳴らす。返事はない。
彼は、失礼かもしれないと思いつつも無言でドアノブに手をかけた。鍵はかかっていなかったらしく、あっけなくドアは開いた。玄関はやけに暗く、彼はそこを突っ切ってリビングに繋がっていると思われるドアを開けた。
瞬間、風が、彼を襲った。
それは、目の前……リビングの奥にある大きな窓から入ってきているものだった。流石にここは十六階だ。入ってくる風はかなり強い。だが彼が見ていたのはそこではなかった。
「リィ……?」
青空をバックにして、窓の外、ベランダのフェンスに、一人の女性が寄りかかっていた。ここ数年会っていなかった女性の名前を、思わず口にする。それを聞いた女性は、にっこりと笑った。
「ああ、ごめんなさい、今日来るって言ってたのよね……」
口調も、彼が昔聞いていたものと少しも変わらなかった。ただ、海の青をした瞳だけは、どこか悲しげな色を湛えていた。
「サフィを、よろしくお願いします」
やっと、彼女が今から何をしようとしているのか察した彼は、紙袋を放り出して駆け出した。
遅かった。
女性の身体は軽くフェンスを越え、仰向けに倒れた。そしてそのまま真下へと、落ちていく。
彼を、青い瞳で見据えながら。
悲しげな微笑すらも、湛えながら。
「嘘だ……っ」
彼は、低いフェンスを強く握り締めて、かすれる声を出した。
「何でだよ、リィ!」
青空に、彼の声が吸い込まれるようにして消え
最悪だ。
まず目覚めた彼はそう思った。眠るつもりもなかったのに、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
しかも、何年も見ていなかったはずの夢を見てしまった。数ある彼の「忘れたい思い出」の中の一つでもある。思い返してみると、ろくな人生を歩んでいないなと思わずにはいられない。
今でもはっきりと思い出せる、あの瞬間。自分の前で人が死ぬ瞬間はたくさん見てきたはずだが、その中でも少しも色あせず、いつまでも彼の心の中にあり続ける瞬間の一つだ。
特に、彼女の目の青さが、焼きついてしまっていて。
「リィ……何で死んだのかな」
ぽつりと、呟く。
その瞬間を見た彼ではあったが、結局その原因はわからなかった。いくら警察が調査しても、原因だけは掴むことが出来なかった。その上彼独自の情報力でもわからないとなると、もうどうしようもないのだが。
そして彼女の死の後、その娘もすぐに転落事故で死んでしまった。まるで、彼女の後を追うように。
忘れよう、と思った。
今はそんなことを考えている場合ではないのだ、と頭を振って夢を忘れようとする。
「……どうしました?」
声がかかった。彼はふとそちらに目をやって顔をしかめた。
「うっわ、趣味悪い。男の寝顔見て何が楽しいの? 最悪」
彼はいつも通りの女言葉で硝子越しの相手に言った。相手……大佐ヴィンター・S・メーアはいつも通り口元だけの笑顔を浮かべ、シニカルな口調で言う。
「別に見たくて見たわけではありませんよ、トルクア」
「トゥール。何度言ったら解るの?」
「全く、こだわりますね、トゥール・スティンガー」
すかさず訂正を入れる彼に対してあからさまに呆れた表情を見せつつ、メーアはご丁寧にもゆっくりと名前を言いなおした。
険悪な表情も隠さずに彼はメーアを睨みつけていたが、ふと、何かが頭をよぎった。
それは、先ほど夢に見た、あの「彼女」の顔だった。
「そういえば、メーア」
「何ですか?」
彼の言葉に、メーアは笑顔のまま首を傾げる。しかしその目は冷たく、彼を見据えているように見えた。もちろんそれはいつものことであるから彼が気にするほどのものではないのだが。
「……あたし、寝てる間何か言ってた?」
質問の答えは、すぐに返ってきた。
「いいえ、何も」
「そう、それなら良かった」
嘘だ。
微笑んで言いながらも、彼は確信していた。
彼の言葉を否定したとき、メーアの表情は少しも変わらないように見えたが、その目だけは冷ややかさを増していた。
だが、今の彼には、そのメーアの反応が何を意味しているのかまではわからない。嘲りなのか、侮蔑なのか、それとも。
「今日はメンテナンス日ですので、それを伝えに来ました」
そんな彼の思惑に気づいているのか否か、メーアは事務的な口調で言った。時間感覚が乏しくなっていた彼は、その言葉を聞いて「もうそんなに経ったの?」と思わず問い返した。
「ええ。二時間後には研究室へ行くようにとシン・リカー博士が。今から一時間四十五分後に私の部下を遣しますので、それまで待機していてください」
「りょーかい」
気の無い返事をして、「さっさと出て行け」とばかりに手を振る彼を見て、メーアは笑みを深くする。
「トゥール・スティンガー」
「何?」
自分で通称で呼ぶことを要請しておきながら、通称で呼ばれることにはやけに違和感を覚える。もちろんそれはこの男に対してだけなのだが。
「どこまで、気づいているのです?」
メーアの言葉は、要領を得ていなかった。しかし、何が言いたいのか彼にはわかった。
彼は、肩を竦めて言った。
「それなりにわかってるつもりだったけど……今は、とっても混乱しているわ」
「一つだけ、忠告しておきます」
メーアは、彼に背を向けながら、言葉を放った。
「全てが終わるまで、ここから出ようなどとは思わないように。命が、大切ならば」
彼が何か言葉を返す前に、メーアは硝子張りの部屋から立ち去ってしまった。
溜息をつきながら、彼は硝子の壁に背を預ける。
「忠告、か」
メーアが何を知っているのか、わからない。
『青』にまつわる一連の事件に対して、『青』を裏から援護する側に回ったのが彼とヴァルキリー。
『青』の危険性を訴え、力に頼って『青』を捕獲しようとするのがスティンガー。
そして、メーアは。
初めは、ほとんど傍観者として『青』をめぐる軍部の騒ぎを見ているだけで、行動らしい行動は起こしていなかった。『青』に対する干渉など見られなかったはずだ。少なくとも、彼が見る限りでは。
ならば、何故今になって動く?
情報が少なすぎる。
自分はある程度ならばこの事件の裏を知っていると思っていたが、何かが足りない。メーアにはあって、自分には無い、何か。
わからない。
そう思って目を閉じると、あの時の彼女の、目の青さが、蘇る。
「リィ」
無意識に、もう一度、その彼女の名を呟いて……
「……!」
何かが、彼の中で閃いた。
だが、それはけして嬉しい閃きではなかった。
「嘘だ、まさか」
額に手を当て、彼はうろたえることしか出来ない。何かをしたいと願っても、硝子の檻が、彼の行動を阻む。
何故、今まで気づかなかったのだろう。
自分は、全てを気づいているつもりで、一番重要なところを見落としていた。
唇を噛み、がん、と無造作に硝子の壁を叩く。
忠実に再現された痛覚が彼の手に衝撃を伝えるが、そんなことに構う余裕は無かった。それほどまでに、彼は冷静を失っていた。真紅の瞳を硝子の向こうの扉に向け、その先に消えたメーアの姿を思い返しながら。
今はただ、この硝子の檻が恨めしかった。
Planet-BLUE