ラビットは、行けども行けども終わることの無い回廊を走っていたが、がくり、と足から力が抜ける。その場に膝をつき、息を整えようとする。
どこまでも続く白い壁に、青いライン。
セプターからは逃れられたが、トワの姿はどこにも見つからない。トワの思念も今は感じられなくなってしまった。冷たくも温かくも無い壁に身体を預け、ふと、目を上げる。
すると、回廊の先が歪んだ気がした。
最近よくある視力補助装置のバグかと思ったが、どうもそうではないらしい。細めた目をその先に向けると、果てしない回廊の向こうから、一人の少女がこちらに向かって走ってきているのが見えた。
「……トワ?」
ラビットは、壁に手をつき、気を抜けばよろめきそうになる身体を叱咤して立ち上がった。走ってきたトワはラビットの姿を認め、声を上げた。
「ラビット!」
そして、そのままラビットの胸へ飛び込んだ。ラビットはトワの小さな身体に腕を回し、トワの青い目を覗き込んだ。その目の中には、ラビットを見つけたことに対する安堵が浮かんでいるように思えた。
「大丈夫?」
「ああ、私はな」
ラビットは微かに口端をあげて言う。トワは一瞬眉を顰め、それから少しだけ背伸びして、ラビットの額に触れた。先ほどセプターに斬られた場所から、血が流れていた。トワの白い指が、流れ落ちようとする血をすくいとる。
「……でも、怪我してる」
「このくらいは大したことない」
ラビットは自分のコートの袖で傷口を拭った。トワは、首を傾げ、微かな不安を顕にする。
「眼鏡、なくしたの?」
そう聞かれて初めて、ラビットは自分のサングラスもセプターによって壊されたことを思い出した。そういえばやけに光がまぶしいと思っていた。あまりに混乱していたため、気づけなかったのだ。
ラビットは多少苦笑に似た表情を浮かべながら頷く。
「ああ」
「何があったの?」
少しだけ破れているラビットのコートの裾を握り締めながら、トワは問う。ラビットは言っていいものかどうか迷ったが、それも一瞬のことだった。
「……レイ・セプターと対峙した」
「!」
「だが、何とか逃げ切れた……運が良かった」
言いながら、ラビットは先ほど自分が走ってきた回廊の奥を見据えた。セプターと対峙して勝てる自信は無かった。自分が今こうして生きていられるのも、セプターがあの時見せた一瞬の隙があったからである。
それを聞いて、トワは目を伏せる。
「ごめんなさい」
「何故謝る」
ラビットはトワの肩に手をやる。トワは顔をあげて、言う。
「本当は逃げられるようにしなきゃいけなかったのに、ラビットに危ない思いをさせたから」
「そんなことは構わない。……貴女の力がなければ、私はここにはいない。いくら感謝しても足りないくらいだ」
そこまで言ってから、ラビットはあることを思い出した。
「そういえば、貴女は大丈夫だったのか? 何か、あったようだったが」
先ほど、トワに思念で導かれていた時、途中で叫び声を聞いたことが、頭に引っかかっていたのだ。まず、それを問わなくてはいけないと思っていたのだが、突然トワが現れたため、聞きそびれていたのだ。
その言葉でトワは何かを思い出したのか、少し怯えたような表情を浮かべながら頷く。
「……軍の人に、会ったの」
ラビットは驚く。自分はともかく、普通トワが軍の人間に出会って無事で済むとは思えない。
「それで、どうしたんだ?」
「聖が、助けてくれたの」
「聖が?」
そういえば、聖の姿が見えない。まだ、この迷宮の中で迷っているのだろうか?そう思ってトワから周囲に目をやると、トワが走ってきた方向がもう一度、歪んだ気がした。
トワも、ゆっくりと背後を見る。
遠い回廊の向こうから、目立つ緑の髪をした青年が走ってくるのが見えた。
「おっさん、無事だったか!」
聖は、手を振りながら二人の方へと駆け寄ってきた。ラビットは「ああ」と短く答え、聖の手に収まっている長い銃身を持つ銀色の銃を見た。
「トワを、助けてくれたようだな」
「まあな。俺も危なかったぜ? 何しろ相手はあのセイント少尉だ」
「セイント……セプターの副官か。よく無事でいられたな」
ラビットは脳裏に黒髪の、聡明そうな女軍人の姿を思い浮かべながら言った。
未だにその能力は未知数だったが、あのセプターの副官であることからも、かなりの実力者であることは想像できる。本来ならば、到底聖が相手できるような人間ではないだろう。
そこから上手く逃げおおせるとは、聖の能力もラビットからは測りきれないものであることがわかる。
「ちょいとひやひやしたけどな。さてと、立ち話もこの辺にして、さっさと脱出しようぜ」
「……そうだな」
しばらくラビットと聖を見比べていたトワは、空いている手で、聖の服の裾を掴んだ。聖は「うん?」とトワを見る。
「さっきは、ありがとう」
トワは、真っ直ぐに、聖を見上げていた。海の色をした青の瞳が、聖のダークブラウンの瞳に映る。こうやって見つめられるとやはり気恥ずかしいものがあるのだろうか、聖は少しだけ頬を赤らめた。
微笑ましい様子だと思いつつ、ラビットはトワに向かって言う。
「さあ、脱出しよう。……どうするんだ?」
すぐに、トワが答える。
「目を閉じて。わたしが、目を開けてって言うまで開けないで」
「わかった」
ラビットと聖は、同時に目を閉じる。トワも目を閉じて、胸に手を当てる。青い光が、トワの胸の部分からあふれ出て、三人を包み込む。
目を閉じているラビットは、ただ瞼ごしに、穏やかな光を感じていた。懐かしいような、温かいような、それなのに何故か悲しいような。
それは……
「どうしたの?」
声。
彼は目を開けた。空には、満天の星が輝いていた。
昼は大気中の微粒子が強い光を乱反射するせいで灰色がかかった白にしか見えない地球の空だが、強い発光体の存在しない夜は、遠くの星までも見ることが出来る。
特に、ここから見る空は美しかった。
彼の横にいる女は、くすくすと笑った。彼は憮然とした表情のまま空を見上げる。
「ずっと目を瞑ってたから、寝ているのかと思っちゃった」
「寝てなんかいない」
彼はわざとぶっきらぼうに答えた。それが余計に女を笑わせる。しかしその笑い声も、彼にとって決して不快なものではなかった。
女の笑い声を聞きながら、彼の目は一点を見据えた。それは、そう遠くない瞬間にこの場所を消し去ってしまうだろう、青い光。
「それじゃあ、何で目を瞑っていたの?」
ひとしきり笑ってから、女は彼に問う。彼は、青い光を見つめながら、目を細める。
これを言ったら、また、笑われるだろう。
そう、思った。
それでも、言わずにはいられなかった。
「歌が、聞こえたんだ」
「歌?」
女が、首を傾げるのがわかった。
「……そう、歌だ。私には、こう聞こえた」
彼は、もう一度、目を閉じた。瞼ごしに感じる微かな光は、遠い空に浮かぶ青い星の光なのだろうか。
「私は、ここにいる。私から、目をそむけないで。私は、」
本当に、消えてしまいそうな声。彼の耳だけが捉える、不思議な合唱。
「独り」
「ラビット」
声が、聞こえた。
それも、どこか遠い出来事のようで、それが、目の前にいるトワの声であると判断できたのも一瞬後のことだった。
ラビットは、ゆっくりと目を開ける。
目の前に、美術館の入り口があった。その中は暗くて見えないが、確かに自分たちは美術館の外にいた。横にいる聖が、大きく息をつく。
「はあ、死ぬかと思ったぜ」
実際、殺されはしないだろうが危険な状況だったのは確かだ。ラビットも息を吐き、もう一度美術館を見た。
「トワ、まだ中はあのままなのか?」
ラビットのコートの裾を握ったままのトワは、小さく頷いた。
「まだ。あと、少ししたら元に戻るの」
「そうか」
すぐに追ってこられる心配は無いということだろう。
ラビットはトワの頭に手をのせ、「行こうか」と言った。トワは、今度はしっかりと頷いた。聖も、遅れてはいけないとすぐに二人の後を追う。
三分ほど歩いたところに、車は置いてあった。
見張りらしき影は一人も見当たらない。……考えるに、あまりにセプターたち本隊の帰還が遅かったせいで、様子を見に行ったのだろう。
車に乗り込むと、龍飛が迎えてくれた。
『お帰りなさい、ラビット』
「ああ」
車のフロントガラスの前に取り付けられた、立体映像投射機に、蜻蛉の羽を持った女性の姿が浮かび上がる。龍飛はオリーブ色の髪を揺らし、ためらいがちに微笑んだ。
『先ほど、軍の方がこの車の周りにいたようでしたが』
「今は大丈夫だろう、気づかれる前に行く」
外で聖がホバーのエンジンを入れているのを横目で見ながら、ラビットも車にキーを差し込んだ。微かな振動と共に車の機能が立ち上がる。
ふと、空に目を向けると、薄暗い空にいくつかの星が浮かび始めていた。
Planet-BLUE