何故、気づかなかったのだろう。
ラビットは出口に来た瞬間、ホールの出入口扉前に現れた一隊を目にして舌打ちした。真紅の軍服を身に纏った十人前後の一団。その先頭に立つのは、これまでも数度目にしたあの男、レイ・セプターだった。
聖が、半眼で横に立つラビットを見つつ、小声で言うのが聞こえた。
「……だから、言ったじゃないかよ」
「もちろん、想像はしていたがな」
ラビットも溜息混じりに返す。トワは、ラビットのコートにしがみつきながらラビットを見上げている。その海色の瞳は不安と、ラビットにはわからないまた別の感情が入り混じっているように見えた。
「お待ちしていましたよ、ご一行様」
セプターは笑顔で言った。言いつつ巨大な機械の剣と化した作り物の右腕を、ラビットたちに向ける。ざっと、背後に控えていた他の軍人たちも各々の武器を構える。
ラビットの判断は、早かった。
左手でトワの手を取り、聖に目で合図をした。聖が頷くのを確認した瞬間、ラビットは口で右の手袋を外し、軍人たちに向かって上手く動かない右手をかざした。
「 『闇照らす閃光』!」
ラビットの声と同時に、右手から強烈な白い光が生み出され、軍人たちに襲い掛かる。軍人たちは突然の光に目を焼かれ、大きな隙が生まれた。完全に視力が戻るまでにも少しはかかる。
ラビットはすぐに軍人たちに背を向け、トワの手を引いて走り出した。……美術館の奥に向かって。
「そのまま行ったら追い詰められるぞ?」
聖が悲鳴を上げながらもラビットを追う。先ほどの合図でラビットが何をしようとしてたのか察し、目を伏せていたためあの光で目を焼かれることは無かった。
「……まあ、なるようにしかならないがな」
けして表情を崩すことはなく、ラビットは淡々と言い放った。聖は走りながら、大きく溜息をつかずにはいられなかった。何とも、無責任で頼りない言葉である。
「これでトワが捕まったら本当に大惨事だな。俺も事情聴取かなあ。姉貴、上手くごまかしてくれるかなあ?」
ぶつぶつと呟きつつも、聖は走り続ける。ラビットも走りながらこれからどうすればいいか考えていた。はっきり言ってまともにやりあえばこちらの分が悪いのは目に見えている。どうにかしてここから脱出できれば少しは状況が変わるが、それまでに……
そこまで考えたとき、ラビットのすぐ横の壁が弾けた。銃弾が命中したのだと気づき、目だけを背後に向ける。
すでに、あのセプターが迫ってきていた。右腕に仕込まれた銃の銃口から、硝煙が上がっているのが見える。
幸い、視力は完全には戻っていないようだった。もし完全に戻っていれば今の一撃でラビットの頭が寸分違わず打ち抜かれていただろう。それだけの実力を持つ相手であることも、今までの対峙でわかっていることだった。
「まずいな……」
セプターの後ろには誰もいない。おそらくまだ動ける状態ではないのだろう。セプターの回復力が恐るべきもの、と言おうか。
ラビットは苦い顔をして、T字に分かれた回廊を右に曲がった。ほんの数時間前に通った道だ。壁にはいくつもの絵がかけられ、所々に彫刻作品が置かれている。
その時、急にトワがラビットの手を強く引いた。
「何だ、トワ。急がなければ」
「わたし、やってみる」
ラビットの言葉を遮って、トワは言った。トワの目はラビットではなく、聖でもなくましてや迫ってくるセプターでもなく、壁にかかった一枚の絵に向けられていた。
トワが、一度目を奪われた、青い線が引かれた白いカンバス。
まるで、一度入ったら抜け出せない迷宮のような。
「わたし、まだ、捕まりたくない。ラビットと一緒に、旅したいから。だから、やってみる」
トワの小さな手が、絵に触れた。青い光が、トワの指先から溢れる。
「何を……」
「わたしたちは、捕まりたくない。力を貸して」
はっきりとトワがそう言った瞬間、青い光が絵から迸った。ラビットも聖も思わず目を伏せてしまうくらいの強烈な光。
後ろの方で、セプターがうめき声を上げるのが聞こえた気がした。
何も解らなくなってしまうような光の奔流。それが、全てを包み込んでいった。
ラビットが次に目を開けたとき、側には誰もいなかった。真っ白な壁が、目の前にあった。視力補助装置の調子がおかしくなってしまったのかと思ったが、そんなことはない。
「トワ?」
すぐ側にいたはずのトワもいない。
「聖……?」
聖の姿も、見当たらない。
違う。
ラビットは気づいた。
自分が立っている場所、そこがすでに先ほどまでとは随分と様子が異なっていた。埃まみれで古びた壁は、真っ白な石の壁に変わっていた。壁の所々に青いラインが無造作に引かれている。床も、真っ白なタイル。
そして、自分が「何処に立っているのか」もわからない。
一歩ずつ、慎重に歩みを進める。人の気配は近くには感じられない。歩いていくうちに、いろいろとわかってきた。
これは、「迷宮」そのものであるということ。
一通り歩き回ったはずの美術館とは全く異なる道を持ち、歩く者を惑わせる複雑な回廊。そのように、変容してしまっていたのである。
「これが……『青』の、能力」
青いラインの走る天井を見つめて、ラビットは呟かずにはいられなかった。
明らかに、これはトワの能力で生み出された空間だ。「捕まりたくない」というトワの強い願いが、この世界を生み出したのだ。あの不可解な迷宮のような絵を媒体として。
遠くの方から、「一体どうなっているんだ!」という軍人たちの声が響く。確かに混乱するのも無理は無い。突然ごく普通の美術館が迷宮に変わってしまったのだから。
混乱しているのはラビットも同じだった。
確かにこのようにすれば捕まる心配は少なくなる。だが、自分たちが抜け出せなければ意味は無い。もちろん、ラビットはここの出口を知らないし、誰もこの奇妙な迷宮の出口を知っているわけが無いだろう。
ここを作った本人である、トワを除けば。
トワを探さなければならない。軍人たちより先に、自分がトワを見つけなければならないのだ。
自然と、歩みが速くなる。
美術品の姿もなくなった回廊が続く。ひたすら、白と青だけの世界がそこに広がっている。そのような風景が続くのだから余計方向感覚も鈍っていく。
この美術館はこんなに広かっただろうか、と思う。空間の広さすらも変わってしまったのだろうか。無限色彩の『青』。小さな少女の身体に隠されたその力の底知れなさに、ラビットは寒気すらも覚えた。
どこまでも白と青の世界の中、時折壁にかかっている絵や無造作に置かれているオブジェだけが、ここが美術館であることを思い出させてくれる存在だった。
『ラビット』
急に、頭の中に声が響いた。少女の声。
トワだ。
「トワ? 何処にいるんだ?」
立ち止まり辺りを見回しながらラビットは声をあげる。だが、周囲には白い壁しかない。道の先にも小さな少女の姿は見えない。
すぐに精神感応だ、と気づいた。多彩な能力を持つという無限色彩保持者ならばそのくらいも容易く行えるのだろう。その上、彼女は同時にラビットのいる位置すらも把握しているらしく、こう言った。
『今から教える。そのまま真っ直ぐ』
頭の中に響く耳慣れた少女の声に従って、再び歩き出す。変わっているのかいないのかわからない風景が流れていく。
『突き当たりを右』
「……トワ」
『何?』
壁に手を当て、右に曲がってからラビットは言った。声が直接届くわけも無いが、それでもトワにはきちんと伝わっているらしい。
「今回も、貴女に助けられたようだな」
自嘲気味に、言い放つ。
守ると言っておきながら、逆に守られているような、情けない存在だ、と思った。いつもそうであるだけに、余計に情けなさを感じていた。
『……ううん、いつも、わたしラビットに助けてもらってばかりだから』
「そうか?」
『うん。あ、そこは左』
ラビットが突き当たりを左に折れたのを確認してから、トワの言葉は続けた。
『助けてもらってるよ。わたし、ラビットといるだけで、助けられてるから』
「……?」
トワが何を言わんとしているのかがわからず、ラビットは相手に見えるはずも無いが小さく首を傾げる。しばらくの沈黙の後、少女の声はぽつりと言った。
『ううん、何でもない……そこで真っ直ぐ……きゃっ!』
トワの声が急に途絶えた。あまりに突然すぎる通信の中断に、ラビットは焦った。
「トワ?」
返事は無い。
「トワ!」
いくら呼んでも、再び頭の中に少女の声は響いてこない。トワの身に何かがあったとしか考えられない。
心臓の鼓動が否応なく早まる。
次の瞬間、ラビットは床を蹴って走り出していた。最後の指示通り三叉路を真っ直ぐ進み、後は感じたままに道を曲がっていく。トワのナビゲートがなくなった今、再び手探りの状態になってしまったが、ラビットは勘で道を選び取っていった。正しいという証拠は無いが、迷っている暇も無かった。
どのくらい、走っただろう。
急に、視界が開けた。
そこは、入り口のホールだった。いや、「入り口のホールだったもの」と言った方が正しいのかもしれない。ホールの形はとどめているものの重要な出入り口は消えていて、その代わり周囲の四方八方に何処に続いているのかも解らない道が伸びている。
そして、一瞬足を止めたラビットの目の前に、真紅の軍服を身に纏った男……レイ・セプターが立ちはだかった。
Planet-BLUE