軍本部ビルの十三階、長い廊下を歩いていた大佐バルバトス・スティンガーは異様な光景を目にして足を止めた。
まず、目に映ったのは自分に丁度背を向けるようにして立っている一人の男だった。男にしては小柄な身体に不自然なまでに黄色い髪。ある意味でスティンガーが一番よく知る男だった。
次に目を向けたのは、その男の足元に倒れている一人の青年。真紅の軍服に、青く染めた髪が映える。この青年も、スティンガーの見慣れた姿をしていた。
「……あら」
ふっと黄色い髪の男がこちらを向いて笑ってみせた。青い半透明な眼鏡の下の目がどのような形になっているのか、光の加減でこちらから窺い知ることは出来なかったが。
「どうしたの、兄貴。こんな所で」
いつものように少しも変わったところの無い、明るい妙な口調で男は言う。スティンガーはゆっくりと、男の顔からその手元に目をやった。
何故、すぐに気付かなかったのだろうと思った。もしかしたら気付いていたのかもしれないが、どちらにしろ認めたくはなかった。
男の手が、赤い『何か』に染められていた。
青い髪の青年に目をやると、倒れた青年の腹の辺りから、やはり赤い『何か』があふれ出て、床に溜まっているのが見えた。
「……トゥール」
スティンガーは男……自分の弟である男の名を呼んだ。トゥールは呼びかけに応える代わりとばかりににっこりと笑って、自分の手についた赤いものを舐めた。
それは、血だった。
頭がしびれるような感覚を覚えたスティンガーは、一歩トゥールから下がる。何が起きたのか、予想はついた。どうやってこのような状況が生み出されたのか、それもわかった。だが、『どうしてこのような状況になったのか』、それが理解できなかった。
「貴様、何を」
出した声も震える。トゥールはスティンガーから足元の青年に目を移して言う。
「ねえ、兄貴? 人、呼んだ方がいいんじゃないかしら。……早くしないと、凪くん死んじゃうわよ」
何を言っているんだ、自分でやったというのに。スティンガーはそう思いつつも、一歩、また一歩とトゥールから離れ、ついにトゥールに背を向けて走り出した。人を呼ばなくてはいけない、というよりはここから一刻も早く離れたかった、というほうが正しかったのかもしれない。
スティンガーは、ただ、自分の「弟」である男の行動に対する恐怖に支配されていた。
そして、トゥールはそんなスティンガーの背が見えなくなるまでいつまでも見つめていた。
明かりをつけていない上に窓にかかったカーテンを閉め切り、暗くその上無駄に広い部屋の中、大佐シリウス・M・ヴァルキリーは部屋の真ん中に置かれた机の前に座って目を閉じていた。
眠っているわけではない。ただ、何かを考えているかのように片肘をつき、その手を額に当てて、暗い顔つきのまま、少しも動こうとはしなかった。
どのくらいそうしていただろうか、突然机の上に置かれた通信を知らせるアラームがなった。ヴァルキリーはゆっくりと目を開けると、手早く通信を繋げ、立体映像映写機のスイッチを入れる。
映写機に映し出されたのは、一人の老人だった。ぼさぼさに伸ばした白髪を後ろで無造作に縛っていて、髭もかなり長い。白衣を着ているところから、どうも研究者のようだ。
「……リカー老、何か?」
ヴァルキリーは少しの驚きとともに、低い声で言った。そのリカーと呼ばれた老人は神妙な表情で言う。
『トゥールが、捕まったそうだな』
その言葉を聞いて、ヴァルキリーの表情が一瞬だけ悲痛に歪む。だが、すぐに表情を戻すと、吐き捨てるように言う。
「ああ、聞いている。今のところメーアの管轄下にある……どうやら私に手を出させたくないらしいな、上の連中は」
『お前の所属の海原を殺害しようとしたが失敗し、そのまま抵抗もせずに捕まる、か。奴らしくもない。さて、お前さんの意見を聞こうじゃないか、シリウス?』
しゃがれたリカーの声がヴァルキリーの長い耳に響く。少しだけ考えてから、慎重に言葉を選びつつヴァルキリーは答えた。
「まず、一つ。海原は、トゥールに刺されはしたが命に別状はなかった。トゥールは『殺す気でやった』と言ったが、それは嘘だと断言できる」
それを聞いて、リカーは満足そうに頷く。
『その通りだな。それは私も同意見だよ。今はああでも、一応は元「軍神」だ。相手を仕留め損なうということなぞ考えにくいからな』
「それと、もう一つ、気になったことがある……リカー老、貴方には言っても良いと思う」
首を傾げるリカーに向かって、ヴァルキリーは言った。
「トゥールは、数日前に私に『何があっても自分のことを信じるか』と聞いてきた。……奴がこんなことを私に聞くのは、おそらく何かをしでかす直前だ。つまり、こうすることは奴も始めから決めていたことだと思う」
リカーは顎に手を当てた。灰色の目を細めて、それから心底楽しそうに笑った。
『それで、お前さんは』
笑いながら、言った。
『そんなトゥールをまだ信じる気かい?』
ヴァルキリーも、口端をあげて、どこか挑戦的な笑みを浮かべる。
「ああ、もちろんだ」
椅子を鳴らして、立ち上がる。机の上に無造作に置いておいた煙草の箱を手にし、映写機のリカーに向かって言う。
「奴が何を考えているのかはまだわからないが、それでも奴が意味のない行動を取るとも思えない。それに、奴が『信じろ』と私に言ったのだ。ならば、私一人でも信じてやらなければ奴も報われないだろう」
『……そうだな』
皺だらけの顔をほころばせ、リカーは安心したような声を出した。ヴァルキリーは手にした煙草に火をつけながら、リカーの言葉を待つ。
『今まで行ってきた週に一回のメンテナンスは続けて行う。その許可は上から得ることが出来た。その時に、何とかいろいろと聞き出してみよう』
「ああ、感謝する」
ヴァルキリーは素直に礼を言うと、溜息とともに煙草の煙を吐き出す。映写機の放つ光に、白い煙が浮かび上がる。
リカーはしばらく黙り込んでそんなヴァルキリーの様子を見ていた。ヴァルキリーもそれに気付いていたが、あえて何も言わなかった。
数秒後、リカーが再び口を開いた。
『そう、私はいつも思うのだよ、シリウス』
「何だ?」
『何故、そこまでしてトゥールを庇う? 奴は立場上、死人同然だ。奴がどんな行動をしようと、結局お前さんには関係ないのだぞ?』
思わぬ質問に、ヴァルキリーは言葉を失った。煙草から灰が落ちる。リカーは真剣な表情でヴァルキリーの次の言葉を待っていた。
手に持った煙草に目を落とし、それから目を伏せる。言うことは決まっていたのだが、声が出なかった。自分が言うべきなのかも悩んだ。ただ、リカーが黙って待っていてくれるのが嬉しかった。
そうして、やっと、自嘲気味な笑みとともに、どこか吐き捨てるような響きの言葉を放つことができた。
「……おそらく、庇われているのは私の方だよ」
ただですら小さな部屋の真ん中に嵌められた分厚い硝子板が部屋を隔てている。その硝子板を隔てた奥に、トゥール・スティンガーは座っていた。ウェーブのかかった黄色い髪は後ろで一つに束ねられていて、着ている服も珍しくいつものスーツではなく、だぼついた黒いトレーナーにジーンズという出で立ちだった。
硝子板の向こうで、ドアが開く。トゥールは顔を上げて、そちらを見た。
ドアを開けて入ってきたのは長身で、茶色の髪を長く伸ばした優男……ヴィンター・S・メーアだった。トゥールをこの部屋に監禁した張本人である。もちろん、それはトゥールも了承の上ではあるのだが。
トゥールは立ち上がると、硝子板に手を当て、その向こうのメーアに向かってにっこりと笑う。
「あら、メーア大佐じゃない。お忙しい身でこんな所までご苦労様」
メーアはドアの前に立ったまま、いつものどこか冷めた笑顔を浮かべて言った。
「……全く、その減らず口まで相変わらずですね、トルクアレト・スティンガー少佐」
その言葉を聞き、突然トゥールの笑顔が消えた。気分を損ねた様子で、表情を歪めながら鋭く言い放つ。
「あたしは『トゥール』よ。トゥール・スティンガー。それに、正確には少佐でもないわよ?」
そんなトゥールの言葉も気にする様子はなく、あくまで淡々と、声色だけは優しいようでいて、しかし明らかな皮肉を込めてメーアは言う。
「別に違わないでしょう? それにしても、貴方には随分と失望させられましたよ。同胞を殺害しようとした罪は重いですよ」
トゥールは、顔を歪めたまま、奇妙な笑顔を浮かべる。硝子板に爪を立て、その向こうのメーアを睨む。メーアはやはり笑顔のままであった。
「……最悪。アンタ、解ってるくせに」
「何が、でしょうか?」
しれっとした態度で答えるメーアに、トゥールは「さあね」と言って背を向け、部屋の奥へと歩いていく。奥の壁も硝子張りになっていて、ここ、セントラルアークの高層ビル街が見渡せる。外からこの中の様子は見えないようになっているらしいが、その仕組みはここで説明する必要もないだろう。
別に何を見るわけでもなく、立ち並ぶビルとその上を飛ぶ定期便の方に目をやりながら、トゥールは硝子に手を当てた。
背後で、メーアの声が聞こえる。
「しかし、なんとも解せませんね。……どうして、『貴方』が海原中尉を刺したのです?」
貴方、というところを強調しているのは、トゥールにも解った。トゥールはメーアの方を向きもせず、くすくすと笑い声を漏らす。
「……あたしがやらなきゃ、誰も手を出せないでしょう?」
「彼女を、庇ったのですか?」
メーアははっきりと、そう言った。
笑い声を止めたトゥールは、表情すらも消して、ビル街を見た。灰色で、銀色で、飾り気も何もあったものではない、そんな街並。
つまらないな、と思いつつ、
「……どうだか」
それだけを、言った。
メーアが何かを言おうとしたらしい。しかし、何かを言われるのも面倒だと思い、トゥールは先に声を出した。
「でも、一つだけ確かなことは」
そこで一度言葉を切り、赤い目を閉じる。冷たい硝子に頭を当て、3秒数えた。
その瞬間、メーアの横に浮いていたデバイスが通信を受信した。デバイスからは、甲高い女の声が聞こえてくる。
『大佐、手術室に海原中尉を移動させようとしたのですが、突然目を覚まし、応急処置のみの状態であるにもかかわらず、我々の制止も振り切って……っ』
メーアはそれを聞いて舌打ちをし、「失礼します」と言って部屋を出ていった。トゥールは「やっぱりね」と言って、誰もいないというのに笑った。そして、誰も聞いていないのは解っていながら、
「でも、一つだけ確かなことは、私も、それにアンタですら『真実』の全てを知っているわけじゃないってことさ、メーア」
それだけを、言った。
Planet-BLUE