雲の切れ間から覗く月が、闇に包まれた廃墟の中にぽつりと停まっている鈍色の車を映し出す。トワは、車の窓から黒い空に浮かんだ青白い月を見つめていた。
前の運転席ではラビットが静かに眠っている。近頃ラビットはずっと眠っていないということに気付いたトワが、今日は自分が起きているからラビットに寝るように頼み込んだのだ。しぶしぶ「何かがあったらすぐに起こすように」と言ってラビットは目を閉じ、そのまま眠りに落ちた。
静かな夜だ、と思う。風もほとんどなく、まるで音が消えてなくなってしまったかのような静けさが、そこにあった。
この時までは。
ざあああああっ。
急に、ノイズ音とともにフロントガラスの前に設置されている立体映像投射機に、龍飛の姿が浮かび上がる。あまりに唐突なことだったため、トワは驚いた。龍飛は少々困った表情を浮かべながらトワに向かって言った。
『通信が入ったようです』
「……え?」
龍飛は、衛星回線の向こうにいる誰かと会話しているような仕草をする。
『即刻返答を要請しているようで……あ、はい、繋ぎます』
言われて、トワは焦った。ラビットを起こさなくてはいけないのだろうけれど、今こうやって眠っているラビットを起こすというのは少々ためらわれた。そうしているうちに、龍飛の姿が消え、スピーカーから龍飛のものではない声だけが聞こえてきた。
『あ、繋がった? ラビット?』
どこかで聞き覚えのある声だ。どこか妙な響きを持つ男の声。トワは慌てて後部座席から乗り出し、スピーカーに顔を近づける。
「ラビット、今、寝てますけど」
『あら? 珍しいわね。ま、いいわ、せっかく寝てるのに起こすこともないわね。今回あたしも用があるのは貴女の方だし』
くすくすという笑い声がスピーカーから漏れる。トワはやっとその声の主が誰か、はっきりと思い出した。天文台からこの旅に出かける直前に出会った、ラビットの知り合いだという軍人の男。自分に危害を加えるようなことはないとわかっていても、相手が軍人となると何となく緊張する。
「わたしに、用?」
いつになくか細い声でトワは言う。
『ええ、そうよ。えっと、トワちゃん、でいいのよね?』
「はい」
答えたところで、ふと、トワは話し相手の男の名を知らないことに気付いた。ラビットも確か言っていなかったはずだと思い起こす。
「そういえば、貴方は?」
『あれ、ラビットから聞いていないのかしら?』
それがなんとも意外だったのか、どこか小さな驚きにも似た声が返ってくる。トワはもう一度ラビットが前に言っていた事を反芻しながら答えた。
「ラビットは、昔世話になった人ってしか言ってなかった」
再び、スピーカーの向こうからくすくすという笑い声が聞こえてきた。
『そう。あたしはトゥール。トゥール・スティンガー。ま、あんなナリしてるけど一応連邦の軍人ってことになってるわ』
ふざけているような口調で男、トゥールは言った。確かに、あまり軍人らしくはないな、と一度しか目にしていないトゥールの姿を思い起こしながら思う。顔が思い出せるわけでもなく、はっきりと思い出すのはやけに明るい色をした黄色い髪と、ラビットに比べたらはるかに小柄だったことくらいなのだが。
「……えっと、スティンガー、さん?」
『ああ、トゥールって呼んでくれていいわ。わざわざ「さん」付けしなくていいし』
「じゃあ、トゥール、わたしに何?」
スピーカーの向こうのトゥールが一瞬黙った。その沈黙が一体何を意味するのかトワにはわからなかった。何から言い出そうかと考えているのか、それとも言ってよいことなのかどうかを考えているのか。
『答えたくないなら答えなくていいんだけど』
黙っていたのは本当に一瞬だった。トゥールは聞き取りやすいはっきりとした喋り方で言った。
『トワちゃんって、何でクレスを探してるの?』
クレス。
聞き覚えのない名前に、相手に見えるはずもないのにトワは思わず首を傾げてしまう。
「クレス?」
『クレセント・クライウルフ。貴女の言う「白の二番」よ』
「何でわたしが『白の二番』を探してるってことを知ってるの?」
『ミラージュ姫に聞いたの。それにシリウスだって知ってるはずだし、ね』
当然じゃない、とでも言いたげな声でトゥールは言った。なるほどその通りで、クロウ・ミラージュにはこの地球に彼女の力で送ってもらうときにその目的を話したし、それ以前にシリウス・M・ヴァルキリーにはずっと『白の二番』を見つけたい、と言っていたのだから。ヴァルキリーは常に「白の二番は死んだだろう」と言って取り合ってはくれなかったが。
そこの疑問が解けてから、ふとトワは呟いた。
「……そっか、『白の二番』、クレセントっていうんだ」
『そうよ、ああ、今まで知らなかったのね』
その呟きに応えるトゥールの声はほとんどトワの耳に入っていなかった。夜空に浮かぶ月を見る。今日の月は下弦の月だったが、「クレセント」という名前が「三日月」を意味することくらいはトワも知っていた。
そして、トワはやっとトゥールの質問の意味を考え始めた。何故、『白の二番』を探すのか。そういえば、そのことはまだ、誰にも説明したことがないということに気付いた。勿論まだ説明できないと思っているからだというのはわかっていた。
それは今の地点でも変わっていなかった。
「でも、まだ、その人を探してる理由は言えない」
『ラビットにも、何も言ってないの?』
トゥールがすぐにもう一つの質問を投げかけてきた。トワも、すぐに答えた。
「 『白の二番』を探しているってしか言ってない」
『そう……』
トゥールはゆっくりと言った。トワは、そんなトゥールの声をやけに感情の読み取りづらい声だと思った。妙な言葉遣いのせいか、それとも軽いふざけた調子を保つことで細かな感情を表現しないせいか。
だが、代わりに落ち着いた声だとも思った。ラビットとはまた違う安心感のある声。だからだろうか、一度しか会ったこともない、どのような人物かも知らない相手であるというのに、トワはこう言った。
「でもね、わたし、ラビットに死んでほしくないの」
『え?』
突然話が飛んだと思ったのか、驚いたような声を上げるトゥール。トワは、拙い言葉ではあるけれど、続ける。
「もうすぐ、この星が壊れちゃう。そうすると、ラビットは死んじゃうよね」
『そうね、アイツはこの星と一緒に死ぬ気だから』
「それで、わたしはその前に帰らなきゃいけないの。でも、わたし、ラビットがいなくなるの、嫌なの。だから、わたしは『白の二番』を探すの」
そこで、トワは息をついた。スピーカーからはしばらく、声が聞こえてこなくなった。トワの言葉の意味でも考えているのか、時折溜息にも思える息遣いが聞こえてくる。
『ねえ』
さっきよりもずっと長い沈黙の後に、トゥールの声が聞こえた。
「何?」
『今の話からすると、「白の二番」がいると、ラビットは死なないっていうことになるのかしら?』
トワは少し考えてから、相手に見えていないとわかっていながらも首を横に振った。
「わからない。けど、きっと何かが変わる気がするの」
そう言うことしか出来なかった。『白の二番』を探す意味はあるが、それを見つけたことでもたらされる結果については、今のトワにもわからないことだった。
トゥールもそれを察したのだろう、すぐに言った。
『そう、ありがとう、トワちゃん。ごめんなさいね、変なこと聞いて。それじゃあ』
おそらくそのまま通信を切ろうとしたのだろうトゥールの言葉を遮って、トワは言う。
「トゥール」
『あら、なあに?』
「わたしからも、聞いていい?」
『いいわよ』
いろいろと聞きたいとは思ったが、相手のことも考えて、一番聞きたいことだけを聞くことにした。
「トゥールは、ラビットのお友達なんだよね?」
『お友達……そうかもしれないわね』
トゥールの声に苦笑のような響きが混じった。違ったのだろうか、と思ったが、とりあえずそのまま続けることにした。
「ラビットって、どういう人だったの?」
『どういう人?』
「わたし、ラビットのこと、何も知らないから。少しでもわかればいいな、って」
『そっか、そうねえ……』
答えは、すぐに返ってきた。
『何だかんだ言って長年付き合ってきたけど、あたしもよくわかんないってのがホントのところ。とりあえず、変な奴。アイツが昔軍人だったって事は知ってるかしら?』
「言われてないけど、多分そうだと思う」
『そう。まあ昔は連邦の軍人やってたんだけど、その時も人付き合いはよくないし、口もよくないから誤解されがちだし、そんな感じだったからけして人から好かれるような奴じゃなかったってのは確か』
「………」
徹底的にラビットの短所ばかりを並べられて、黙り込んでしまうトワ。それに気付いたのか気付いていないのか、すぐにトゥールは言った。
『だけど、あたしはそんなアイツが嫌いじゃなかった』
はっきりと言い切って、その後またくすくすと笑いながら続ける。
『ま、だからこうして今も手を出してるってワケなんだけど』
スピーカーからまだ聞こえてくる笑い声に、思わずトワの表情もほころんだ。
「ありがとう、教えてくれて」
『ええ。……っと、そろそろこっちも時間ね。本当にありがと、トワちゃん。わざわざ付き合ってもらっちゃって』
「トゥール」
今のやり取りで、もう一つだけ、聞きたいことが増えた。トワはスピーカーに向かってもう一度、その向こうの相手の名を呼んだ。
『どうしたの?』
「あと一つだけ、聞かせてくれる?」
『簡単に答えられることならいいわよ』
簡単かどうかはわからなかった。ただ、聞くことは単純だった。
「トゥールは、どういう人なの?」
あまりに妙な質問に、トゥールも呆気に取られたに違いない。今までで一番長い沈黙の後、笑い声がスピーカーから聞こえてきた。今度はくすくすという声ではなく、思い切り声をあげて笑っていた。
『面白いことを聞くわね。そうねえ、でもそれはきっとラビットに聞いてくれたほうがいいかもしれないわね』
何でそんなに笑うのだろう、と思いながらもトワは頷いた。
「うん、そうする」
その言葉を聞いて、笑い声が止んだ。それから、また落ち着いた声に戻ったトゥールが一言だけ言った。
『じゃあね、トワちゃん』
一言だけ、トワも返した。
「またね」
ぷつん、という音とともに通信が切れた。嵐が止んだかのように、再び音という音が消えた。さっきと同じ静けさが支配する空間に戻る。
トワは、今宵何度目か、雲に隠れそうになる月を見つめた。そして、そのまま夜を過ごそうとしていた。
次の日の朝、ラビットは龍飛から通信が一件あったということを聞いた。
「誰からだ?」
『強制接続通信で、コードは伏せられていました』
それを聞いて、ラビットの表情が強張る。それを見たトワが、言う。
「トゥールからだった」
「何だって?」
「トゥール。わたしに用があって、いろいろ話したの」
そこで、やっと納得したようにラビットも頷いた。確かに識別コードが伏せられていればいろいろと疑いたくもなる。
「なるほど、トゥールからか。奴のやりそうなことではあるな」
「いろいろ聞いて、思ったの。それで、ラビットに聞きたいことが出来たの」
「何だ?」
「トゥールって、どういう人なの?」
言われて、ラビットは口元に手をやって考え込んだ。トワはそんなラビットを見ながらラビットの次の言葉を待った。
「……前にも言ったとおりだが、昔、一番人を殺した軍人。それに、今は『死』を一番恐れる男、といったところだろうな」
「死ぬのが、怖いの?」
「少し違う。『死』という概念全てに恐怖を抱いている、というところか。前に言ったと思うが、トゥールは昔事故で致命傷を負った。今も、それが原因で『死』の存在を常に身近に感じている。奴はよくこう言っていた。『死ぬこと自体は別に怖くない。ただ、誰かの死がもたらす何かを恐れる』、と。……長年付き合ってきたが、私も奴の全てがわかるわけではない。結局奴が何を言いたいのかはわからずじまいだったな」
トワは、ラビットの言葉の意味を理解しようと必死になった。『死』という概念。『死ぬこと自体は怖くない』という言葉。それに、『誰かの死がもたらす何か』。そのどれも、夜に言葉を交わしたトゥールとは似合わないものであるように思えた。
それでも、何となく。
「何となく、わかる気がする」
「そうか?」
「だって、誰かが戻ってこなかったら、会えなくなっちゃったら、いなくなっちゃったら、必ず誰か悲しむよね。そういうのって、やっぱり悲しい」
ラビットがサングラスの下の赤い目を細めたように見えた。表情の乏しいラビットだが、近頃トワはそんなラビットの表情を読み取れるようになってきていた。目を細めたときは、ほとんど「微笑」に近い感情を持っている。ただし、どこかに必ず憂いを含んだ微笑。
「……ああ、そうだな」
「トゥールは、きっともっといろいろ考えてるんだと思うけど、でもわたしはそうだと思うの」
簡単なことだった。トワにとっては、一番簡単な話だった。今、目の前にいるラビットが死んでしまったら、きっと悲しいと思う。それだけの話だった。丁度、昨日トゥールに話したとおりのこと。
だが、ラビットはトワの言葉を聞いて余計に深く何かを考えているようにも見えた。しばらくそうしていたが、突然ふと顔を上げた。
「そうか……」
「どうしたの?」
トワはラビットをまじまじと見たが、ラビットはそんなトワには気付かない様子で、サングラスを手で覆った。
「そうだ、結局、奴と私は同じということだ……」
ラビットの声は、ほんの少しだが震えていた。
トワは、ただただそんなラビットを見ていることしか出来なかった。
Planet-BLUE