Planet-BLUE

034 信頼

 手を伸ばしても、届かなかった。
「止めろ」
 そう叫んだけれど、遅かった。
 覚えているのは、それだけ。
 次に気がついたときには、もう、何も残っていなかった。
 自分すら、も。
 
 
「……ライム」
 意識せず口から出た自分の声に驚いて、目を覚ました。
 まず、目に入ったのは天井だった。落ち着いた色のライトが灯っている。辺りが暗いところを見ると、どうも夜なのだろうか。
 身体を起こそうにもどうにも息苦しく、身体に力が入らない。疲労感と強い頭痛と。呼吸するだけで身体が痛い。満身創痍というのはこういうことか、と意味もなく考えてみたりもした。
「起きたのか」
 声が聞こえた。そして、見慣れた紫苑の瞳が覗き込んできた。
 そこで、やっと理解した。
「ああ、あたし……」
「全く、今日はメンテナンス日だろう? 何をやっていたんだ、トゥール」
 明らかに不機嫌そうなヴァルキリーの言葉に、思わず笑ってしまう。とはいえ笑い事ではないのだ。トゥールは一度目を閉じ、自分の状況を思い出そうとした。
「何だっけ……そう、今日はメンテに行かなきゃいけなかったんだけど」
 頭の中に靄がかかっているようで、上手く思考が働かない。自分らしくも無い、と思う。ヴァルキリーも不安げな表情を覗かせた。
「この部屋の前で倒れそうになっていただろう?いや、正確には倒れたがな」
「うん、多分そうよね……ああ、うん、思い出した。シンの爺さんが今日に限っていなくて、流石にスタッフのコに身体いじらせる気にはなれなかったから薬だけ貰ってきたんだけど、やっぱダメだったみたい……あはは」
 わかっているつもりではあった。
 自分の身体がすでに限界であることくらい。
 彼は過去に『事故』で身体の大部分を消失している。もう二十年以上前の話になるが。そのため、現在は機械で造られた身体に脳のみを移しかえた状態なのである。
 だが、その技術はトゥールに初めて使われたものだった。つまり、彼は自分でその技術の実験台になったと言った方が正しいだろう。
 脳と身体の相性が悪ければ移植の地点で死んでいたところだが、そこは彼の運のよさで乗り切った。当時の彼は悪運と称していたが。それでも、身体の寿命は普通の肉体より明らかに早い。
 移植の地点で、「寿命は二十年」と言われていた。
「もう、二十二年目だもんね……わかってるつもり、だったんだけどなあ……だけど、まだ、死ねない……」
 苦しげに、呟く。
 ヴァルキリーはトゥールが寝かされているソファに腰かけ、トゥールのやけに冷たい手を握る。
「昔の夢を見ていたのか」
「……あ、わかった?」
 ぜいぜいと喉を鳴らしながらも、彼は軽く肩を竦めて見せる。自分があくまで余裕であることを示したいとばかりに。
「 『ライム』……そう、言っていたよ」
 天井に目をやっている彼には、ヴァルキリーの表情が見えなかった。ただ、ヴァルキリーの声のトーンが下がったことだけはわかった。
「そっか。ん、そろそろ忘れたかと思ってたんだけどね。ちょっと弱気になるとすぐ思い出しちゃうわ」
 笑い飛ばしたかったけれど、どうしてもぎこちない笑みしか浮かべることが出来なかった。
 ライム。
 彼の、かつての恋人の名前だった。
 彼が身体のほとんどを失った『事故』に巻き込まれ、すでに亡くなっている。正確には『巻き込まれた』のではなく、『起こした』と言った方が正しいのかもしれないが。
 しばらく、お互い黙り込んでしまい、辺りは静寂に包まれた。
 トゥールがつく少々苦しげな息だけが聞こえた。
 自分の手を、さっきよりもきつく握られる感覚があった。
「悪いな、辛い思いをさせて」
 トゥールは突然言われた、思いもよらない言葉に目を丸くした。ヴァルキリーを見上げると、彼女は真剣な……いや、むしろ悲痛な顔で虚空を見ていた。
「何よ、それ」
「初めは、結局私の我侭に過ぎなかっただろう? お前に生を押し付けたのは、私だったはずだ」
 何となく、ヴァルキリーが言いたいことは彼にも理解できた。
 同時に、それに対して、彼は声をあげて笑うことしか出来なかった。
「何故笑う?」
 首を傾げるヴァルキリーに、トゥールは笑いながら答えた。
「アンタ、可笑しいこと言うのね……」
 確かに、このように生き延びることに意味を見出せなかった時期はあった。だが、そんなものはとっくに越えていた。今の彼はある答えを見出しているから。
「今更そんな事言う? あたしは今、こうやって生きてる。シリウスのお陰で今あたしはシリウスの側にいられて、それでアイツを見守っていられる。こんなに幸せなことは無いわよ」
 一気に言って、少しだけ咳き込む。喉は乾ききっていた。
 横目にヴァルキリーを見ると、呆気に取られたような表情を浮かべていた。その表情のまま、ぽつりと呟く。
「……そう、だったな」
「何、忘れてたの? でも、シリウスがそういう風に思ってるなんて知らなかったわよ。あんなに無理やりあたしのこと生かそうとしたアンタがそんな弱音吐くなんて、相当まいってる?」
 いつもどおりのおどけた口調ながら、トゥール自身も体力的には相当辛いらしく、時折長く息を吐く。
 ヴァルキリーは軽く頷きながら言う。
「ああ。そうかもしれないな。お前ももう少し休め。そろそろリカー老も帰ってきているころだろうから、呼んでおく」
「……サンキュ」
 トゥールは目を閉じ、微笑を浮かべた。
 それを見て安心したようにヴァルキリーは立ち上がる。そのままドアの方へと向かうが……
「ねえ、シリウス」
「何だ?」
「何があっても、あたしのことを、信じていてくれる?」
 あまりに唐突な言葉に、ヴァルキリーは驚いて再びトゥールの方を向く。トゥールは目を閉じ、微笑を浮かべたまま、続ける。
「別に、答えなくてもいいんだけど……何となく、あたしだって不安になることがあるのよ」
 ヴァルキリーは、何度か言葉の意味を掴もうと言われた事を頭の中で反芻させたが、よく考えたら、このトゥールという男の言うことは毎回唐突であるということを思い出す。
 そのほとんどが、重要であることも。
「信頼、か」
 ヴァルキリーは笑った。
「ああ、信じるさ。……何をしようとしているのか知らないが、死なない程度にやれよ」
 その答えを聞いて、トゥールも嬉しそうにくすくすと笑った。
「了解。ありがと、シリウス……」
 
 
 ヴァルキリーが去った部屋の中。
 トゥールは自分の手を天井にかざして、自嘲気味に呟いた。
「……ま、私も寝ている場合じゃないってことだよな」
 いつもの女言葉ではない、変わった響きの低い声で。
「少しでも真実に『気付いて』いるのは、今のところ私だけってわけだ――――」