トワは、独りきりで不思議な空間に立っていた。
何も聞こえない、完全な静寂が支配する空間。
一点の汚れもなく白く塗り潰された天井のような空。自分が立っているのは、澄んでいるのに底が見えない青い水の上。それが、どこまでもどこまでも続いている、そんな空間。
そして、トワはここを知っていた。
「白の、二番……?」
思わず呟いた声に呼応するかのように、足元の水に波紋が広がった。
『来たのか』
突然、頭の中に声が響いた。声というよりは漠然とした意識と言った方がいいだろうか。
誰もいない空間に向かってトワは呼びかけた。
「うん。貴方は、どこにいるの?」
『貴女の、すぐ側に』
トワがはっと後ろを見ると、一人の男がそこに立っていた。長く伸ばした闇色の髪に、右の瞼を縫い付けたその姿は、かつてここと同じ空間で見た男の姿と同じだった。
ただ、以前と違うところは、その男がトワと同じようにその場に『立っている』ということだろうか。
男は、足元に広がる水と同じ色をした左の瞳を向け、それより少し薄い、かつての海色をしたトワの目を見据えた。男の目は、深くて、吸い込まれてしまいそうだ、と思いつつトワは口を開く。
「聞きたいことがあるの」
言いながら、男の白い服の袖を掴む。男は無表情のまま、意識を飛ばした。
『……貴女は、「私」に会ったのか』
唐突に「言われた」ものだからトワは一瞬驚いたが、すぐに我に返って頷く。
「あれは、やっぱり『白の二番』だったの?でも……」
トワは記憶の糸をたどる。『リカー・ラボ跡地』で見た、あの白いコートの男。背中しか見えなかったけれど、あれは『白の二番』だと思った。トワの持つ『青』が、そう言っていた。
だが。
「あれは、貴方じゃなかったよ」
言った瞬間、男の表情が微かに歪んだ。トワに袖を握られていない手で目を覆うような仕草をする。長い袖から少しだけ覗いた指は、細く、そして何故か焼け爛れていた。
どこか苦笑のような響きを含んだ意識がトワの頭の中に響く。
『ああ、貴女の言うとおりあれは「私」であって「私」ではない。あれは、私の「一部分」にすぎない、とでも言っておこうか』
「どういうこと?」
『私は、いつからか一人ではなくなってしまった』
トワは言われている意味がわからない、といった様子で首を傾げた。男は『まだわからなくても構わない』というような思念を送った。
そして、再び、別の思念を送る。
『……折角来たんだ。貴女に少し、長い話をしよう』
「長い、話?」
よく似たことを、前にどこかで言われたことがある気がした。だが、トワは一体それがいつのことで誰が言ったことなのかは思い出せなかった。
『そう、長い、昔話だ』
男が、ふと笑顔を浮かべた気がしたが、トワが顔を上げたときにはまたいつもの無表情しか見ることが出来なかった。
男は、ゆっくりと歩き始めた。どこへ行くでもなく、何も無い水の上を歩いていく。トワも男の袖を掴んだまま男の後についていく。
歩きながら、男は思念を送った。けしてはっきりとしたものではない、それでいて淡々とした思念。
『昔々、ある所に一人の男がいた。その男は軍人だった』
「それ、ラビットが言ってた」
やっと、そこでトワは気付いて言った。ラビットも、『長い話をしよう』と言い置いて、全く同じ出だしで語ったのだ。男は口端を少しだけ上げた。笑みに見えなくも無い、不思議な表情。
『何、「あの話」とは少し違う……その男は軍人としては結構な問題人物だったし、能力的にも危険な男だった』
ラビットの話は、違った気がする。『ちょっとした問題人物で能力的には申し分ない男』という言葉を使っていた。トワは首をかしげながらも黙って男の言葉の続きを待った。
『そいつには、一人の相棒がいた。いろいろな意味で性質悪い奴だ。もちろんこの男とは違う意味で、だったが。二人はいつも喧嘩しつつも、いつも共に行動していた。実際、その相棒というのは男の制止役だった』
「制止役?」
『ああ。つまり、この相棒には男の危険な行動を抑える、そういう才能があったんだ。だから軍でもいつも組まされていたんだがな』
続きを話すぞ、と男が言ったのでトワはまた黙って男の言葉を聞くことにした。
『そんな二人だからやはり有名にならないはずがなかった。軍の中でも問題人物の吹き溜まりのような部署に置かれていたが、その中でも一、二を争う問題人物だった、と言っておこうか』
男の思念に、何かを懐かしむような感情が混ざった気がした。あくまでトワがそういう風に感じただけではあるが。
『だが、ある時、その男は突然、帝国との戦争に駆り出されることになってしまった。そうして、男と相棒は嫌々ながらも連邦の領土内に秘密裏に作られていた帝国の研究所へと向かうことになった』
男は立ち止まった。水面に、波紋が広がる。
『二人は、何も知らずに研究所に向かったが、研究所では、帝国にとって「優秀な兵士」を作り上げる実験を行っていたんだ。……わかるか?』
トワは首を横に振った。
「兵士を作り上げるって? 人を作るなんてできないんじゃないの?」
『……その研究所では、ただの人間に強大な「力」を植え付ける研究を行っていたんだ』
「!」
トワの表情が恐怖に染まる。男も、確かに感情の乏しい表情ではあったが、少しだけそれが歪んでいた。
『被験者は罪も無い子供達。「力」を無理やり植えつけられたことで我を失い、帝国への忠誠という刷り込まれた情報だけで男や相棒、それに共に向かった兵に襲い掛かってくる。それは、ひどい戦場だった』
ラビットと話の内容は似通っている。だが、男の話はラビットの語っている内容よりもよほど詳しく、そして悲惨だとトワは思った。
『しかし、やらなければやられる戦場の中で、連邦の軍人たち……つまり男や相棒のような軍人たちはその子供たちを殺していくしかなかった。そのうちに、ついに』
男はふと、真っ白に塗り潰された空を見上げた。
『 「その男」が、狂ってしまった』
やっと、トワにも男の『 「あの話」とは少し違う』という言葉の意味がわかった。ラビットが語ったのは、今男が語っている「その男」の相棒の話だったのだ。視点の違う、同じ話。それが、この話なのだ。
『男は、何もわからなくなってしまった。頭の中に流れ込んでくる、子供たちや軍人たちの苦しみ、悲しみ、そして死への恐怖。それだけが、男を突き動かした。……見境なく、目の前に立ちふさがるものを壊すという形で、な』
「頭の中に、流れ込んでくる?」
トワは聞き返した。男はゆっくりと首を動かし、トワを見た。男の目はとても、悲しい青をしていた。
『男は精神感応能力者だったんだ。……それも、自分では時に制御しきれなくなるくらいに強力な能力者。だからこそ、その場にいる全ての人々の負の感情をまともに受け取ってしまった。狂ってしまってもおかしくはない』
「……貴方みたいに?」
男を見上げるように、トワは目を向ける。男の表情がまた少し歪んだ。
『私が狂っていると?』
言われて、慌てて首を横に振る。
「そうじゃなくて、強力な精神感応能力者ってこと。貴方も、そうなんでしょう?」
『ああ、そう、だな』
ゆっくりと、一言一言を区切って男は思念を飛ばした。男の表情は歪んだままだった。
『その後は、貴女も知っている通りだ。男の相棒は、何とか男の凶行を止めようとした。だが、もちろん男は狂ってしまっている。男は、目の前に立ちふさがる相棒を排除しようと思って……』
男の左腕がゆっくりと上がる。そして男の口が少し動いたが、声にはならなかった。トワも、男が何を言おうとしているかはわからなかった。
男はすぐに腕を下ろして首を振る。
『……いや、やめておこう。とにかく、しばらく男は抵抗した後、我に返った。目の前に映ったのは、自分が殺した帝国の子供達、仲間だった軍人たち、それに、右腕を失った相棒』
「右腕を失った?」
トワの頭の中に一瞬、自分たちを追っている軍人、レイ・セプターの姿が浮かんだ。確か、彼の右腕は無かった気がした。もちろんそこまでよく見ているわけではないため、確信は無かったが。
男はそんなトワの考えに気付いているのかいないのか、ただ淡々と続ける。
『おそらく、相棒が目の前に立ちふさがったとき、失ったのだろう。だが、その満身創痍の相棒が、男に向かって言った言葉。……これも、貴女は聞いたはずだな』
ラビットが、奇妙な沈黙の後に、言った言葉。
「 『良かった』……?」
『その通り。相棒は、ただそれだけを、その男に向かって言ったんだ。純粋に、男が正気を取り戻したことを喜び、安心して。男もわかっていたはずなのにな。相棒が、そういう奴だということを』
思念の中に、また何かが混ざった気がした。今度はまたさっきの感情とは違うもの。
――――自嘲?
トワにはそう、感じられた。
『だが、男は逆に、それが我慢ならなかった。それは前に貴女が聞いたとおり。結局、男は、心を閉ざすことを選んだ。全てを拒絶し、自分を本当に心配している相棒をも否定し、ただただひたすら自分を追い詰めて。……悲しい奴だ』
最後の思念は、普通に声に出した言葉で表しているのであれば、「吐き捨てるように」言っているような響きを持っていた。
トワも、やはりその『男』は悲しい人間だと思った。ただし、おそらく目の前にいる男が言っていることとは違う意味で。
「ラビットが言ってた。その人、死んじゃったんでしょう?」
『ああ。それがどうした?』
「……最後まで、相棒の人を、拒絶したままだったの? 相棒の人と、わかりあえなかったのかな……それなら、悲しすぎるよ」
男は目を閉じて、俯いた。
『ああ、悲しいんだ』
ふと、トワは男の顔を覗きこんだ。その顔が、トワの知っている『誰か』にとてもよく似ていて、一瞬恐怖を覚えた。
『悲しいんだよ……私は、アイツを受け入れられなかったから』
その瞬間。
世界が、歪んだ。
白い空と青い海が混ざり合い、濁った色へと変わる。トワは身体が浮き上がるとも沈むともつかない不思議な感覚に陥りながらも叫んだ。
「……貴方は、貴方は誰なの? 『白の二番』!」
姿が既に歪みはじめている男は顔をあげ、真っ直ぐとトワを見た。
さっきまで『誰か』に似ていると思っていたその顔は、今度はまた別のものに見えた。実際に変わっているわけは無いというのに。
「私は」
白と青の洪水。流されそうになりながら、トワは男を見ていた。
男は、微かに、悲しげに笑った。
そして、声に出して言った。
「ただの、臆病な」
その先は、トワには聞こえなかった。白と青の奔流に飲み込まれ、そのままトワの意識は遠ざかっていった。
貴方は、誰……?
Planet-BLUE