Planet-BLUE

030 醒めない夢

 ラビットは、闇の中に立っていた。いつからこうやって立っていたのかは覚えていない。ただ、ふと我に返るとまるで自分を押しつぶすかのような闇だけがそこにあった。
 ――ここから、逃げなくては。このままだと狂ってしまう。
 そう思うや否や、ラビットは駆け出していた。どこへ向かってかは定かではない。ここを逃れたい一心で、彼は足を前に出していた。
 走っても走っても終わりの見えない闇。段々、不安と恐怖が彼の心を支配し始める。
 ――この闇が、どこまでも続いていたら。もし、終わりが無かったら。
 ――暗い、怖い、怖い、怖い……
 ――ここから、どうか出してくれ……!
 思った瞬間、視界が開けた。
 
 
「また、あの夢だ」
 彼は目を開くなり、言った。暗い部屋の中、すぐ横に寝ていた女が薄く目を開ける。
「あの、白い男の人と不思議な女の子の話?」
 その声を聞いて、彼は横の女に目をやり、苦笑した。
「起こしてしまったみたいだな」
「いいわよ、私ももう起きようと思ってたし……それで、今回はどんな夢?」
 最近の日課なのだろう。楽しそうに、女は彼の顔を覗きこんだ。彼は苦笑の表情もそのままに、今度は天井に目を向けた。
「あまり楽しい夢じゃなかった。『白兎』は光の刺さない完全な闇に閉じ込められて、抜け出せなくて」
 彼は腕を天井に向かってかざした。剥き出しの腕には、無数の刺青が刻まれていた。おそらく、紋章魔法士なのだろうことが見て取れる。
「こうやって、手を伸ばしても、何も掴めない。どこまで走っても、終わりが無い。そんな闇だった」
「怖いわね。私がそんなところに置き去りにされたら、きっと頭がおかしくなっちゃうわ」
「ああ、『白兎』も、同じだ。……ずっと、ずっと走り続けて、足が砕けそうなほど走って。それが現実なのか夢なのかすらもわからなくなってきた。ただ、『ここから出してくれ』と願った……まあ、そこで目が覚めたからその先どうなったのかは知らんがな」
 あっけない終わり方ね、と女は笑う。ただ、彼は少々真面目な顔つきになって伸ばしていた腕を下げる。
「だが、このまま目覚めなかったら、どうなっていたんだろうな。……本当に、私も狂ってしまうかと思ったよ。不思議な夢だな」
「そうね。でもそれを言ったら全部不思議じゃない。これで何日目? その二人の夢を見るの」
 彼は顎に手を当てて、考える。そういえば、かなり長い間、毎日同じ夢を見ている気がする。それも、全く同じではなく、少しずつ、まるで物語が進むように、紡がれてゆく夢。
「もう、一ヶ月くらいになるな」
「一ヶ月か……そっか、……のね」
 後半の言葉は、彼が聞き取れないくらいの小さな声で呟く。彼は首を傾げて、女のブラウンの瞳を見据えた。
「何か言ったか?」
「ううん?」
 女は笑った。ただ、彼は一瞬女が寂しげな表情をしたような気がした。すぐに気のせいだと思うことにしたが。
「あと、五年とちょっとね」
 突然、女が言った。すぐに女の言葉を理解した彼は頷いた。
「ああ、そうだな」
 そして、女は手を伸ばし、窓にかかるカーテンをほんの少しだけ開ける。暗い空に、一つだけ光る青い星。
 女は、彼に目を戻し、言う。
「貴方も、ここに残るの?」
 彼は目を閉じた。穏やかな表情を浮かべるが、奥にはどこか暗いものが見え隠れする、そんな表情だった。
「……私の居場所は、ここにしかない」
 それを聞いた女は、笑顔になる。しかし素直にその言葉を喜んでいるわけではないのはすぐにわかった。
 女の細い、だがしっかりとした指が男の頬に触れる。
「勿体無い。貴方は、望みさえすれば何にでもなれるのに」
「どういうことだ?」
 彼の質問には女は答えず、ただ何かの歌の一節を口ずさむだけだった。
「……青く輝く細い光は、私たちを遠くへ導く……遠い過去、それとも遠い未来だろうか……求めることは無い、ただ望むだけで私たちはどこへでも行ける……何にでもなれる」
 透き通った声。ほんの小さな声ではあったが、その声はとても美しかった。女はそこまで歌うと、また彼の目を覗き込んだ。
「わがままよね、私。私はここにいることを望んでいるのに」
 
 
 ラビットは目の前にある光景を信じられないといった表情で見つめていた。
 何度も夢で見た二人。悪夢としてしか考えていなかった2人。
 その二人が、今目の前にいるのだ。
 しかし、ラビットはその二人に触れることはできない。何か透明な壁に阻まれているように、すぐ側にいるというのに干渉することはできないのだ。
 二人は、すぐ側にいるラビットの存在に気付いてはいない。いや、見えてすらいないのかもしれない。
 ここから逃げ出してしまいたかった。だが、前に進むことができないのと同じように、後ろに下がることもできなかった。闇が晴れた瞬間、まるで透明な鳥かごに自分だけが入れられているような状態になっていた、とでも表現しようか。
「……嘘だ」
 ラビットの口から、かすれた声が漏れた。赤い目は大きく見開かれていて、表情は憔悴しきっていた。
「嘘だ……私は、こんなもの、知らない……」
 振り上げた腕が、透明な壁を壊さんばかりに叩く。音はしない。壁にひびの一つも入らない。ただ、激痛が腕に走るだけ。
 ラビットは叫ぶ。かすれた声で、喉が壊れそうで、それでも叫ぶ。
「知らない、私は知らない! 止めろ、消えろっ……私にこの光景を見せるな! 私は……」
「まだ、逃げるつもりか?」
 背後から、声がした。
 ラビットは二人から、背後へを目を向けた。背後の透明な壁の向こうに、闇をバックにして一人の男が立っていた。
 ラビットが白い髪をしているのとは対照的に、男は黒い髪をしていた。ラビットが赤い瞳をしているのとは対照的に、男は青い瞳をしていた。
 ラビットは、その男に見覚えがあった。いや、むしろ今まで見ていた人物と全く同じものに見えた。夢の中の二人のうちの、『彼』。
「貴方は、私が生み出したモノに過ぎないと、早く自覚したらどうだ?」
 『彼』はラビットに向かって言った。ラビットはわけがわからないといったように首を横に振る。
「何を、言っているんだ?」
「わかった、貴方がわかりやすいように質問を変えよう。貴方は、自分の『名前』を言えるか?」
「言えない訳が無いだろう? 私は」
 ――誰だ?
 ラビットは言葉を紡げなくなって、俯く。
 自分が何者なのかがわからない。自分は今まで何と呼ばれていた?
 わからない。
「 『白兎』はあくまで私の幻想でしかない……今見ていてそれがわかっただろう? さあ、認めるんだ、『白兎』。そうすれば、この醒めない夢から開放されて、楽になれる」
 ――幻想? この私が?
 ラビットはこの二人の夢を見るようになってから自分の存在が希薄なものだと感じていたことを思い出した。
 自分は本当に現実に生きている存在なのか。本当に今ここに存在している『私』が現実なのか。その不安と、今こんな形で直接向き合うことになろうとは思いもしなかった。
 ――だが。
 ラビットは顔を上げた。
 『彼』が声を荒げる。
「認めろ、『白兎』!」
「確かに、私の存在はあの時に、貴方から生まれた幻想でしかないのかもしれない」
 ラビットの声は、静かだった。
「だが、私が、『彼女を守りたい』と思う、その心は幻想ではないと信じる! 私は私だ! 存在が幻想であれど、私の心は確かにここに存在する!」
 『彼』は一瞬虚を付かれたような表情になった。それから、すぐに表情が崩れた。いろいろな感情がない交ぜになった、そんな顔になる。
「……そうか、それが今の貴方の答えか。だが、貴方が頑なにそう思っている限り、貴方は夢を彷徨う。彼女も守れないだろう」
「守ってみせる」
 ラビットは、『彼』の青い瞳を真っ向から見据えた。
 『彼』は笑った。目を細め、口端を歪める、そんな笑みで。
「ならば行くがよい、『白兎』。私に、貴方の答えを示してくれ」
 その瞬間、ラビットの身体を白い光が貫いた。ラビットの意識が遠ざかっていく中、『彼』の声が、響いた。
 
 
「私だって、あの時彼女を守りたかったんだ」