Planet-BLUE

029 午後三時

「全く、急に誰かと思ったよ。あんな夜遅くにドアを叩くんだからな」
 不機嫌に聞こえなくも無い口調でそう言ったのは白髪交じりの鈍色の髪をした男だった。白衣を着ているところから見ると、どうも医者らしいことがわかる。
 男は手にティーカップが二つ乗ったトレイを持っていた。木で作られたテーブルの上に、少々乱暴な手つきでカップを置く。
「それに、俺は精神科医じゃないぞ、マーチ。あんな奴を連れてきてもどうしようもない」
 マーチ・ヘアはティーカップを受け取りながら苦笑する。
「だからごめんってば。……だけど、天才の鷹目なら何とかしてくれるかなと思ったのよね」
「俺は天才だが万能じゃないんだ。わかるだろう?ただ……あれは少々興味深い患者ではあるな」
 鷹目と呼ばれた男はその名の通りどこか猛禽類を感じさせる金色の目を奥のドアに向けた。マーチ・ヘアもつられてそちらを見る。ただの、変哲も無い金属のドアだ。
「そうなの?」
 マーチ・ヘアは再び鷹目に目を戻して首を傾げる。鷹目はふっと笑い、肩を竦めた。
「まあ、ここで様子を見ると言っても二週間だけだ。それまでは俺も何とか手を尽くしてみるが、それでも正気に戻らないようだったら、その時は俺も見捨てる。それでいいな?」
 そっけない言い方だったが、マーチ・ヘアもそれと同じくらいそっけなく答えた。
「ええ、構わないわ。どうせあたしもアイツにはそこまで世話になったわけじゃなし」
 その言葉を聞いて、鷹目が少し呆れた表情を浮かべる。
「本当か? お前、あの男を運び込んだとき、かなり血相変えてたじゃないか」
「あ、あれは、その……あたしも予想して無い事態だったし」
「全く、お前らしくも無いぞ、『狂気茶会』の三月兎」
 苦笑して言う鷹目。マーチ・ヘアはティーカップを持ったまま鷹目をにらみつけた。しかし、それだけで何も言わなかった。どちらかというと、言おうか言うまいか悩んでいるようにも見えた。それに気付いた鷹目は、そのままティーカップに口をつけるだけで、マーチ・ヘアの言葉を待つことにした。
 マーチ・ヘアはティーカップを下ろした。ティーカップの中の紅茶に、彼女の顔が映りこむ。その表情は自分で見ていても滑稽に思えた。
 笑っているつもりなのに、どうしても歪んでしまう表情。
 それは、ラビットがいつも見せる表情によく似ていた。
 マーチ・ヘアは下を向いたままティーカップを揺らし、水面に波紋を作って自分の顔を見ないようにしながら、ぽつりと言った。
「アイツ、あたしの兄貴を殺したの」
 鷹目の表情はマーチ・ヘアには見えていなかった。ただ、少々動揺したのは確かだった。それくらいなら、彼女にもわかった。
「……嘘だろ?ハッターは事故で死んだってお前が」
「でも、間違いなく、アイツが原因で、あたしの兄貴は死んだの。アイツのせい。だけど……」
 ティーカップを持つ手が震える。かたかたと音を立てるのが聞こえるが、それでも震えは止まらない。
「わからないの、あたし、わからないの。あたしね、初めはアイツを殺せっていう依頼を受けたの。アイツが兄貴を殺したっていうのは知らなかったんだけど、すぐにわかった。それで恨んだ。だけど、アイツ、あたしが自分を恨んでるって知ってるのに、あたしが自分を狙ってることを知ってるのに『自分たちを守ってくれ』なんて言い出すのよ?」
 何故これほどまで手が震えるのか、マーチ・ヘア自身わかっていなかった。
 いや、多分、わかってはいたのだと思う。それを認めるわけにはいかないと無意識下で否定しているだけで。
「あたしは、アイツが油断している時に本当に殺してしまおうって何度も思った。でも、ダメなの。あと少しってところで、アイツの声が聞こえるの。アイツね、あたしがアイツの依頼を受けた振りをしたとき、笑って言ったのよ。『ありがとう』って……その声が、頭から離れないの。あたしはアイツを裏切ってる。そう、思えてくるの」
 最後には、マーチ・ヘアは頭を押さえて苦しげな表情を浮かべた。
 苦しい。
 そんな感情が、彼女の中で生まれていた。
 鷹目はそんな彼女の様子を見て、ため息交じりに呟いた。
「どうやら、お前も相当重傷のようだな」
 その声すらも、マーチ・ヘアには届いていないようだった。彼女は頭の中に浮かぶ言葉を口にするだけで精一杯だった。
「あたし、どうすればいいんだろう? アイツを殺せばいっそ楽になれるのかなとも考えたけど、今のあたしにはできない。だからと言ってアイツにそのままついて行ってたらあたしの頭がおかしくなりそうなの……」
 そこまで一気に言って、マーチ・ヘアは顔を上げた。鷹目は、笑っていた。愉快そうに、目を細め、口端を吊り上げ。無精髭の生えた顎に片手をやり、もう片方の手でマーチ・ヘアを指差す。
「お前も相変わらずストイックだな。もうちょっと気楽に考えてみたらどうだ?」
「え?」
 マーチ・ヘアは予想もしていなかった鷹目の言葉に呆気に取られる。鷹目は今度は声を漏らして笑う。
「あのな、選択肢はそれだけだと思うな。いくらでも、お前なら選択肢を増やせるはずだぜ?とりあえず一度頭冷やせ」
「そんなこと……っ!」
 ――考えたわよ。何度も考えたわよ、だけどそれしか考えられないの!
 そう言おうとしたが、その先の言葉は出なかった。他の選択肢は本当に無いのか。自分が失念しているだけではないのか。それとも。
「お前、他の選択肢を取ったら自分が死ぬとでも思ってるだろ? んなわけないぞ。今までこうやってしつこく生き延びてきたんだ。そうだろ?」
 図星を、指された気がした。
 そうだ。確かに今の状況を変えてしまうことに、恐れを抱きすぎていた。依頼を破棄したときに付きまとう死の恐怖。それが、彼女を支配していたのだ。
「……うん」
 マーチ・ヘアは少し笑って、頷いた。もう一度、ティーカップを覗き込むと、今度はちゃんと笑えていた。それを見て鷹目も安心したような表情を浮かべた。
 ふと、マーチ・ヘアは別のことを考えた。
「そういえば、トワは?」
 ここに来てからしばらくばたばたしていたために、いつの間にかトワが自分の側にいないことに気付いたのだ。
 鷹目は首を傾げたが、すぐに合点が行ったらしく再びドアの方に目を向ける。
「あの子か。ずっと患者についてる。もう何時間もそのままだ」
「……そっか」
 マーチ・ヘアは何も語らないドアを見やった。その向こうに、おそらくまだ正気を取り戻さないラビットとそんなラビットをじっと見続けているトワがいるのだろう。その様子が目に浮かぶ。
 その時、柱時計が三時を告げた。
 ふと時計を見た鷹目が言う。
「三時か。……茶菓子でも出してやるよ。それに、あっちの子にも何か食べさせないとな」
 そう言って、席を立つ。マーチ・ヘアは「手伝おうか?」と聞いたが、鷹目はその申し出を丁重に断った。そのまま、鷹目は部屋の奥へと消えていった。
 部屋に一人残されたマーチ・ヘアは窓の外を見た。昨日の晴れた空とはうって変わって、空は暗く、今丁度雨が降り始めたところだった。
 ぽつり、ぽつりと建物の前の道に雨の跡がついていく。もうすぐ本格的に降り出すだろう。
 それを見ながら、考えること。
『もうちょっと気楽に考えてみたらどうだ?』
『いくらでも、お前なら選択肢を増やせるはずだぜ?』
『とりあえず、一度頭冷やせ』
『今までこうやってしつこく生き延びてきたんだ。そうだろ?』
「そうだね、ありがと、鷹目」
 何を今まで悩んでいたのだろう。
 答えは、出た。
 
 
 
『ありがとう』
 そう言った、恨めしくも懐かしい声を信じたい。
 それが、彼女の答えだった。
 ただし、今まで考えていたものとは少し違った形の、『答え』。
 
 
 
「大佐? あたし。……ん、あたしね、辞めるわ」
 
 
 
「マーチ?」
 しばらくの後、鷹目は皿いっぱいのフレンチ・トーストを持って戻ってきた。
 その時、さっきまでのテーブルに、マーチ・ヘアの姿は無かった。テーブルの上の一枚の紙切れを残して、彼女の気配はそこから消えてなくなっていた。