マーチ・ヘアは『リカー・ラボ跡地』を包む影が無くなるとすぐに、建物の中に駆け込んだ。もちろん、ラビットとトワが其処にいると思ったからだ。こんな奇妙な現象が起こるのは、この二人が関わっている時くらいだ。
ロビーに入るとすぐに、あまりに奇妙な状況を目にして、思わず立ち止まってしまう。
ロビーには案内人らしき人物が数人いるだけだった。だが、その案内人たちは皆恐怖の表情を浮かべたまま気絶しているのだ。
「一体、何が起こってたのよっ……」
そう呟いたとき、遠くから足音が聞こえてきた。段々とこちらに近づいてくる、駆け足の小さな足音。
マーチ・ヘアは身構えた。何が来るのか予想もつかなかったからだ。しかし、彼女の前に現れたのは、意外にも今にも泣き出しそうな表情をしているトワだった。トワはマーチ・ヘアの姿を見つけると、駆け寄って彼女の身体にしがみついた。
「ど、どうしたの?」
突然のトワの行動に戸惑いつつ、マーチ・ヘアは言う。トワは顔を上げ、声を上げた。
「……ラビットが……」
トワに言われて、気付いた。
いつもなら必ずトワの側にいるはずのラビットがいない。まさかあのラビットがトワを置いてどこかへ行くとも思えなかった。
「アイツがどうしたのよ? 今アイツどこにいるの?」
何度も問うが、ついにトワは泣き出してしまった。どうすることもできず、マーチ・ヘアはうろたえてしまう。
しばらくは何もできないままでいたが、そうしていても何も始まらない。
無理やりトワを身体から引き離し、身体をかがめてトワに目線を合わせる。
「落ち着いて。教えて、トワ。ラビットはどこ?」
トワは一瞬びくっと身体を震わせ、目を大きく見開いて、マーチ・ヘアを見た。そして、ゆっくりとした動作で涙を袖で拭き、今度はマーチ・ヘアの袖を掴んだ。
「こっち」
かすれた声で、トワは言った。マーチ・ヘアはトワに連れられるまま、ビルのエレベーターに乗った。トワが指示したのは「五十階」。マーチ・ヘアがボタンを押すと、エレベーターは音も無く動き始めた。
五十階にはすぐに着いた。
ドアがやはり音も無く開く。そこは、窓に囲まれた部屋だった。そして、窓に寄りかかるように、誰かが床に座り込んでいるのが見えた。サングラスをかけた白い髪に黒いコートの男。
ラビットだ。
「ラビット?」
マーチ・ヘアは言いながら、ラビットに一歩近づいた。その時、異変に気付いた。
ラビットは、マーチ・ヘアの声に気付いた様子も無かった。その表情は虚ろでどこを見ているのかも定かではない。
「……アンタ、どうしたのよ、ちゃんと見えてんの?」
言いながらラビットの肩に手を伸ばすマーチ・ヘアだったが、ラビットは虚ろな表情のままぶつぶつと聞き取れない言葉を呟くだけで、それ以上の反応を示そうとしない。
「さっきから、ずっと、こんな感じなの」
後ろにいたトワが言った。その声は細く、震えていた。
「いくら呼んでも、気付いてくれないの。……何も、見えないし、聞こえてないの」
マーチ・ヘアはトワを見た。トワはまた悲しげな表情を浮かべて立ちつくしていた。目には涙をためている。
「わたしのせい……わたしのせいで、ラビットが壊れちゃったの!」
最後には、トワの声は悲鳴に変わっていた。マーチ・ヘアは初めて見るトワの様子に驚いたが、すぐにトワの腕を取り、自分の方に引きよせる。
「落ち着きなさいってば! 事情はよくわかんないけど、コイツの頭が完全にイカレたのはわかったわ。でもこのまま放っておいてもどうしようもないでしょう?」
自分では意識していなかったが、語気が激しくなる。落ち着いてないのは自分の方かもしれない、とも思った。トワは怯えを見せるが、そのまま続ける。
「ここの近くに知り合いの医者がいるから、そいつのところに連れてく。その時にでも詳しいことは教えるのね」
マーチ・ヘアはラビットの身体を軽々と抱きかかえた。ラビットは抵抗する様子もなく、ただされるがままになっていた。
心配そうにそれを見上げるトワ。
マーチ・ヘアはそんなトワを見ながら、厳しい口調のまま言った。
「もちろん、治るって保証は無いわよ。もし連れて行ってもダメだったら、諦めるのね」
不安げな表情のトワだったが、それでもゆっくりと、頷いた。マーチ・ヘアはそれを確認してから、自分の不安も吹っ切るように声を上げた。
「さあ、とっとと行くわよ!」
二人が『リカー・ラボ跡地』を去ってから2時間が経過したころ、レイ・セプター率いる軍の一隊がそこを訪れた。今回ばかりは『青』を探すためではなく、消えた『黒』の行方を追うため。
すぐに、『黒』は見つかった。
正確には、『黒』の死体が。
五十階の管理室の真ん中に、それは無造作に放り出されていた。まるで置き去りにされた人形のごとく。
「……くそっ、何があったんだ!」
セプターは不可解な状況を目の前に、頭を抱えることしかできなかった。つい数時間前までは自分のところにいた人間が、今こうやって死体で発見されているのだ。
傷一つ無い、綺麗な肉体のまま。
死体は何も語らない。セプターは機械の手を握り締めた。
その時。
ふっと、セプターの視界を何かが通り過ぎた。人影だ。白い服を着た人影。
――何だ?
初めからここにいた人間は全員連れ出したはずだった。ここにいるのはセプター率いる隊、それだけのはずだった。白い服の人間など、いるはずもない。
思いながらも、セプターはその人影が見えた方向に歩き出していた。
「セプター大尉?」
横にいたルーナ・セイントがセプターの急な行動に驚き、声を上げる。セプターはセイントの方向を振り返ることもせず言った。
「悪い、すぐに戻る」
人影は、廊下の角を曲がったように見えた。セプターも追ってその角を曲がる。
すると、そこは一面に窓ガラスが張り巡らされた部屋だった。ここから街が一望できる。暗い空に、銀色の三日月がかかっているのが見えた。
そして、それはそこに立っていた。
「久しぶりだな、セプター」
「それ」は言った。抑揚の無い、だがよく響く声。その姿はちょうど陰になってしまっていて見えないが、セプターは声だけで、「それ」が誰なのかわかった。
「クレス……?」
――嘘だ。
セプターは、一歩下がった。
「何故、生きているのか、と言いたそうだな。残念ながら私自身それはよくわからない。気付いたら、こうやって生きていた」
淡々と言葉が紡がれる。この喋り方も、声も、浮かび上がるシルエットすら全て、セプターの記憶している「彼」のものだった。
だが、それがわかっていても、セプターは「それ」が記憶している「彼」であるとは信じられなかった。ヴァルキリーから「生きている」とは聞いていたが、こんな所で出会うことになろうとは、セプターとて想像もしていなかった。
「本当に、クレスなのか?」
口に出してから、自分でもよくわからないことを聞いてしまったと思った。それでも「それ」は答えた。
「まだ信じられないのか? 私がクレセント・クライウルフだと」
信じたい。信じたかった。疑う要素は一つも無い。それでも、何かが足りない気がした。それが何であるのか、セプターにはわからなかった。
逡巡してから、セプターは口を開いた。
「……クレス、俺は」
しかし、「それ」はセプターの言葉を遮って言った。
「すまない、私もここに長くはいられない。……じゃあな、セプター」
言うが早いか、「それ」は背後の窓ガラスを叩き割った。セプターが呆気に取られている間に、「それ」は窓ガラスから外へ飛び出した。
五十階の高さに。
「クレスっ!?」
セプターは慌てて窓に駆け寄る。「それ」の姿が、初めてはっきり見えた。
白いコートを身に纏い、黒い髪を長く伸ばした男。鋭く、深海の色をした目が、一瞬セプターの緑の瞳を射た。
「それ」はまっ逆さまに下へと落ちてゆくかに見えた。が、「それ」が強烈な青い光を放ったかと思うと、その姿はそのままかき消えた。
ただ、セプターはその様子を呆けた表情で見ていることしかできなかった。
細い刃のような月が放つ光と全てを押しつぶすような静寂が、その場を支配していた。
Planet-BLUE