Planet-BLUE

025 予感

 それは、影だった。
 水面に映っていた白髪の男と銀髪の少女の画像に、一点の影がさした。そう思う間もなく、影は水面一面に広がり、映し出していた画像を飲み込んだ。
 そして、影は水面から飛び出し、まるで姿ある生き物のように、水面を覗き込んでいたクロウ・ミラージュに襲い掛かった。
 クロウは一瞬驚きの表情を浮かべたが、すぐに気を取り直すと手を打ち鳴らした。音と共に、白い光がクロウの周囲に浮かび上がり、影を打ち消す。
「……黒」
 クロウは悔しげに呟いた。影は消え、丸い小さな盆のようなものに入れられた水もただ揺れるだけで、何も映し出してはいなかった。
 そのまま顔を上げ、少し離れたところに立って立体映像映写機とにらめっこをしている赤毛の男、リーオン・フラットに声をかける。
「リーオン、兎は」
 しかしリーオンは肩を竦めるだけだった。
「さっきから兎のところに回線繋げようとしてるんだけど繋がらない。どこで混線してるのかはわからない」
 その答えはクロウの予想通りではあり、同時に最悪の事態でもあった。
 『黒』が、自分の邪魔をしている。
 ラビットと自分を接触させまいとしている。
「……わかった、リーオン、兎は終わり。次はトゥールに」
 
 
 ラビットたちは寂れた町に滞在していた。
 軍人の姿などどこにも見当たらず、やけに静かな一時だった。あまりにも、不自然なほどに。
 もちろんそれにラビットが気付かないわけがなかった。
 ラビットは何かがおかしいという感覚を抱きつつ、ホテルの埃っぽいベッドに体を埋めていた。隣の部屋でマーチ・ヘアとトワが何かを話しているらしいが、そんなことは気にならなかった。
 ――一体、軍の連中は何を考えているのだろう?
 そう思いながら目を閉じる。重い頭痛を覚える。そういえば最近になって毎日頭痛を感じるようになったということに気付いた。風邪をひいたわけではない。基本的に病弱だが病的な症状というわけでもない。
 ――いや、むしろ……トワの目的は、どこにあるのだろう?
 ラビットは、トワについて何も知らない。何者か、についてはすでに大方の予想はついていたが、それでも確信には至らない。目的については、いまだ見当もつかない。
 ――無限色彩の『白』を探しているということだが、何が目的で? そして、もしも『白』が見つかったら、私は……
 ラビットの一番の不安は、そこにあった。軍に立ち向かうことでもなく、あてもない旅を続けることでもなく、『自分が必要とされなくなる不安』。
 おかしな話だ、と思う。もう誰にも干渉されず、静かに最期の時を迎えようと思っていたのにもかかわらず、今では自分が捨てられ、再び独りになることを恐れている。
 正確には、『ラビット』と呼ばれている自分が。
 近頃毎日見るようになった、夢の中で『ラビット』を語る男と、それに相づちを打つ女の姿。その夢を見るたびに、自分の存在が実はその男が見ている夢なのではないかという不安に襲われる。
 だからこそ、今、自分は必要とされているという証拠が欲しい。自分の存在が夢であろうとも、せめて自分は「誰かにとって必要な存在」であってほしいという思いが、今の彼を支配していた。
 そんな自分が馬鹿らしい、とも思う。
 ――結局私は、振り回されているだけだ。
 何に振り回されているのか。今彼の周囲に存在する、全ての現象についてだ、と考えることにした。あくまで、彼の中では。
 その時、ドアがノックされた。
 少し身体を起こし、「どうぞ」と言う。
 ゆっくりとドアが開き、トワが恐る恐るドアの隙間からラビットを見た。ラビットは固い表情を崩し、トワを手招きする。
「どうした?」
 トワは後ろ手にドアを閉め、ラビットの側に近寄る。ラビットは起き上がると、ベッドに座り込んだ。トワもラビットの横に座る。
「あのね、マーチが出かけたから、わたしもラビットのところに来たの」
「出かけた? どこへ」
 ラビットの問いかけに、トワは首を横に振った。
「知らない」
 それはそうか、とラビットは思った。マーチ・ヘアなら「どこへ行こうとも自分の勝手だ」と言って出かけかねない。もちろん帰ってこないことはないだろうし、どこへ行ったのかについてはラビットもさほど興味はなかった。
 トワは海色の瞳でじっとラビットを見ていた。ラビットは急に気恥ずかしくなって目を逸らす。やはり見つめられることには慣れていない。
 しばらく、お互いに黙りこむ。窓の外は明るいな、と急にそんなことを考える。今日は珍しく雲もなく、晴れた日だった。太陽はちょうど真上から少し西に傾き始めていた。
「出かけるか」
 突然、ラビットは言った。トワが首を傾げる。
「どこへ?」
「決めてない。散歩だ」
 抑揚のない声で言い放ち、立ち上がる。トワもそれに続く。ラビットは、ハンガーにかけてあった黒いコートを羽織り、もう一度窓の外を見る。
 トワが窓から見える、やけに高い建物を指差して言った。灰色の、少し崩れかかっている様子の建物である。
「ねえ、ラビット、あれ何?」
「……何だろうな。適当に、あれを目指すか?」
 ラビットの言葉にトワも頷く。
 そして、ラビットとトワはホテルを後にした。
 
 
「最悪。そんなに『黒』って強かったのね……『白』のミラージュ姫でもダメじゃ何でもないあたしに勝ち目はないし」
 トゥール・スティンガーは狭い電子機器だらけの部屋で、クロウの立体画像に向かってため息をつく。クロウはいつもどおり感情の見えない表情ではあったがどこか焦りが感じられた。
「黒、兎じゃ、勝てない。勝てるとしたら……」
「わかってる。でも兎とアクセスできないんじゃ話にならないわ。……こりゃあ本当に運を天に任せるしかないわね」
 椅子にもたれかかり、トゥールは天を仰ぐ仕草をする。
 ――でも、勝てたとしても最悪の事態ね。
 トゥールはそう思い表情を歪める。おそらくクロウも同じ事を考えているのだろう、不安げな様子が伝わってくる。
 しかし、無限色彩保持者というわけでもないトゥールには、ただ願うことしかできなかった。
 ――白兎、アンタが壊れないことを願うばかりだわ。
 
 
 砂利が敷き詰められた、歩きにくい道をトワと二人で歩きながら、ラビットはまた何かを考えこんでいた。心ここにあらずといった様子で。
 トワはそんなラビットを心配そうに見つめていた。
 しかし、やはりお互い何も言わず、ただ砂利を踏む音だけが響いていた。他に外を歩いている人間もほとんどいない。時折横の車道を音もなくホバーが走り抜けるだけで。
 ラビットは肌寒い風を感じながら、空を見上げる。太陽が、どこか弱弱しくも感じる白い光を放っている。そして、その横に寄り添うように光る青い星も見えた。
「トワ」
 突然、ラビットは口を開いた。トワは驚き、びくりと身体を震わせてラビットを見上げる。
「何?」
 目だけは空に向けたまま、無表情でラビットは続ける。
「 『無限色彩』とは何だ?」
 トワの表情が強張る。だが空を見上げているラビットがそれに気付く由もなかった。
「この前、『黄』の無限色彩保持者の老婆に出会っただろう。彼女は自分の力で現実と変わらない幻の街一つを作り上げたと言っていた。これもそうだな」
 ラビットは足を止め、無造作にポケットから何かを取り出した。
 それは、花だった。
 黄金色の街で出会った老婆。彼女が死ぬ間際にラビットに託した、幻のはずの花。しかし、まだそれは瑞々しく、まるで生花であるかのようだった。
「……『黄』は、無限色彩の中で何番目に強い力なんだ?」
 トワは問われて少し考えてから、答えた。
「三番目。無限色彩は全部で五種類あるから。赤、橙、黄、白、青。青が一番強いのは知ってるよね?」
「ああ」
 再び、丁寧にポケットの中に花をしまいながら、ラビットは頷く。そして、またゆっくりとだが歩き始めた。
 その間ずっと下を向き、何かを考えているようにも見えたトワが、急に顔を上げて、言う。
「無限色彩はね、『何でもできる力』なんだって」
「 『何でもできる力』?」
「わたしも、本当はよく知らない。だけど、超能力者みたいに使える能力があらかじめ決まっているわけじゃなくて、『何でもできる』の。何かを作ったり、逆に何かを消したり、人の心を読み取ったり、未来を見たり過去を見たり。得意なことは人によって違うらしいけど。それで、『青』に近づくにつれて、段々、できることが増えていくし、力が大きくなっていくの。それが、無限色彩の特徴なんだって」
 珍しく、トワは早口に言う。ラビットは呆気に取られて、何も言うことができなくなってしまった。
「……だけどね、わたしが探している『白』だけ、違うの。皆、その人を『白の二番』って呼ぶんだけど」
 トワの目が、空に向けられた。太陽を見ているのか、その横に輝く青い星を見ているのかはよくわからなかったが。
「 『白の二番』は、人の心に触れることしかできないんだって。何かを作ったり、何かを壊したりはできない。何かが見えるわけでもない。ただ、人の心に触れるだけ」
「それなら、超能力者と変わらないじゃないか。ただの精神感応能力者だろう」
 ラビットは言う。だが、トワは首を横に振った。
「だけど、『白の二番』は無限色彩なの。ちゃんとジュエルもあるらしいし、確かに人の心に触れることしかできないけど、その力は、『青』と同じくらいに強いんだって……ううん、多分『青』より強いはずなの」
 そこまで言って、トワは息をついた。あまりに真剣なトワの表情に、ラビットはただただトワを見ることしかできない。
「多分、わたしがわかるのはそこまで。ごめんなさい、わからなかった?」
「いや」
 ラビットはゆっくりと首を振り、前を見た。さっきホテルの窓から見た高層建築物が、すぐ前に見える。
 本当は、ラビットもトワに聞きたいことはもっとあったはずなのだ。だが、それもトワを見ていたら出てこなくなる。
 まだ、聞けない。
 そう感じた。
 砂利道は終わり、乾いたアスファルトに描かれた白いラインを超え、ラビットとトワは高層建築物を見上げた。
 近くにあった案内板には、『リカー研究所跡地』とあった。ラビットは何世紀か昔に『魔法』の体系を作り上げた一族の名前が『リカー』だったことを思い出す。ラビットが使っている『紋章魔法』も、リカー一族が開発した技術である。
 どうやら外見ほど中は崩れていないらしく、「見学自由」の札がかかっていた。中を軽く見てみると、案内の人間もちらほら見て取れる。観光地化しているらしい。
 もっとも観光をする人間などほとんどいないのだが。
「行くか?」
 ラビットは横で物珍しげに建物を見上げるトワに向かって聞いた。トワはゆっくり頷いた。
「うん」
「わかった」
 そのまま、二人は『リカー研究所跡地』の門をくぐった。
 その瞬間、ラビットは何者かに見られているような錯覚を覚えたが、誰もその周囲にはいなかった。トワも、何か感じた様子はない。
 ただ、漠然とした嫌な感覚だけが、ラビットを襲った。
 ――嫌な予感がする。
 あくまで、予感でしかなかったが、それは最悪の形で的中する。