「契約内容を教えて」
マーチ・ヘアがそう言ったのは、次の日の朝だった。宿を去る準備をしていたラビットは、サングラスの下の瞳を細めた。……それは、微笑のようにも見えなくもなかった。
「本来貴女にこんなことを依頼するのは妙だと思うが……この前も言ったとおり、我々の護衛をして欲しい。もちろん、我々が軍に追われているのは知っていると思う。つまり軍を敵に回すということだ。そこまではいいな?」
「わかってる」
しっかりと頷くマーチ・ヘア。それを確認し、ラビットは続ける。
「あと、私に何かがあったら、彼女を私の代わりに連れて、逃げて欲しい」
それがさも当然のことのように言う。
「彼女って、あの女の子……トワって言ったっけ?」
「ああ」
「あの子は、一体何なの? ごく普通の子に見えるけど、そんなに重要なの? あたしもそこまでは依頼人から聞かされてないわよ」
マーチ・ヘアの言葉に、ラビットはしばらく考え込んだ後、ゆっくりと、言葉を選びながら答えた。
「私には、よくわからない」
「そう……あ、それで逃げるってのはいいけどどこに逃げればいいのよ」
「それはトワの言葉に従って欲しい。私も、彼女の目的は知らない」
少々肩を竦めて言うラビット。
「契約期間は、そうだな、今から子午線時刻で十二月十八日の二十四時丁度まで。流石に貴女はこの星と道連れになる気はないだろう……その後はどうしようと貴女の勝手だ」
「わかったわ」
「契約金は前払いか?」
「……まあ、そっちの方が嬉しいけど」
ラビットはハンガーにかけてある着古した黒いコートを下ろし、その内ポケットから一枚のカードを抜き取り、マーチ・ヘアに向かって投げた。
「そのカードを使ってバンクにアクセスしてみればいい。名義は私の名前で、パスはカードの裏に書いてある……三百くらいならまだ残っていた筈だ」
マーチ・ヘアはカードを手に目を丸くした。
「いいの? 勝手にこんなもの人に渡して」
「何、私にはもう必要ないものだ」
黒いコートを着ながら言うラビット。その言葉には何の感情も見出せない。悲しみも、諦めも、何も。あくまでその言葉は淡々としていて、ともすれば聞き流してしまいそうなものだった。しかしマーチ・ヘアはそれを見逃すことなく、ずっと思っていたことを口にした。
「アンタ、やっぱり最後には死ぬ気?」
ラビットはマーチ・ヘアから目を逸らし、窓の外のいつも暗い空を見た。稲妻が、雲の間を駆けるのを見た。
「この星の、運命に従うだけだ」
ラビットの声は低いが、やけに澄んだ響きを持っていた。昔からそうだが、とマーチ・ヘアは思った。彼の声は綺麗だ。それに、外見も同じで、造形は今と昔で異なるが、どちらにせよ人形のような綺麗に整った顔立ちをしている。
だが、余計にそれが彼の非人間的な冷たさを際立てているようで、彼女は彼を好きにはなれなかった。
いや、実際にはそれ以前の問題だったのかもしれない。マーチ・ヘアはそう思って口を開く。
「アンタってさ」
「何だ」
「自分のこと嫌い?」
ラビットはあまりに直接的な言葉に一瞬戸惑うが、どこか皮肉げな表情を浮かべて呟くように言った。
「……どうだろうな」
しばらくの沈黙の後、マーチ・ヘアは言う。
「ま、そんなのはどうでもいいんだけどね。契約内容はそれだけ?」
「いや、一つ忘れていた。一番大切なことだ」
何、と首をかしげるマーチ・ヘアに、ラビットは表情も無く言った。
「トワの前で、絶対に人を殺さないで欲しい」
その言葉を聞いた瞬間、マーチ・ヘアは笑った。あまりに可笑しい話だといった様子で。
「何、それ。人殺しに向かって言う言葉?」
「条件が厳しいのはわかっている。だが……私は彼女が悲しむところを見たくは無い」
声に抑揚はなく、表情もないのに、言っていることは奇麗事だ。
そう、思った。
「あたしはね、正直アンタのこと嫌いだよ。昔から、全部。だけど契約だからね。金額も十分すぎるほど貰ってるから、一応従うよ。実際にできるか保証はできないけどね」
「……ありがとう」
ずけずけと思ったことを正直に言うマーチ・ヘアだったが、流石にラビットも動じる様子はない。口端を少し上げるだけで。
「そろそろ出立しようと思う。そっちが準備できたら隣にいるから呼んでくれ」
「わかった」
ラビットはそのまま部屋を去り、マーチ・ヘアは一人きりになった。しばらくは何かを考えているかのように目を閉じ、ベッドの上に座っていたが、急に思い立ったように自分の持ってきたトランクを開け、中から通信機のようなものを取り出す。
キーを素早く押し、イヤホンを付け、マイクを口元に当てる。
ざあざあというノイズ音を聞きながら、マーチ・ヘアは考えていた。
――何で、アンタはあそこまで何もかもを知っているはずなのに、そんな簡単にあたしの事を信じられるの?
――どうせ傷つくのはアンタなのに、どうして信じてしまうの?
――何で、アンタは昔からそうなのよ……
通信が、繋がった。すぐに、マイクに向かって小声で言う。
「大佐? あたしよ、マーチ・ヘア。……そっちの思ったとおり。上手く食いついてきてくれたよ……そう、もちろん、依頼は続行する。あたしだって死にたくないし」
――あたしは気まぐれな「三月兎」。だから、保証はできないって言ったのよ。
「……わかっていたさ、貴女がそうすることくらい。ただ、どうあっても私は彼女を守ると決めたんだ。だから、貴女を信じることにする」
壁に寄りかかり、まだ静かに眠っているトワの横でラビットは一人、呟いた。
「マーチ・ヘア……貴女が私を利用するように、私も貴女を利用させてもらう」
Planet-BLUE