マーチ・ヘアは目を開けた。
初めに目に映ったのは薄汚れた天井だった。それを見て、彼女は一つのあることに気がついた。
自分は生きている。
あのラビットという白い男と対峙したとき。自分の隠していた部分を全て言い当てられたことに恐怖した。自分の名前。絶対に知られていないはずだった「兄」のこと。そして兄の最期の言葉。自分しか知らないはずのこと。
全てを、ラビットは知っていた。知られていたからこそそれを恐れ……自分は負けた。
――いや、それだけではない。
彼女は思った。
自分は同じような感覚を昔、経験している。あれはいつのことだっただろう?
「おはよう」
そんなことを考えていたとき、気のない声が聞こえた。彼女はゆっくりと、そちらを向く。そこには、真っ白の髪を持った男、ラビットが座っていた。その背後にはどこか怯えたような表情を浮かべている青みがかった銀色の髪をした少女が隠れていた。
マーチ・ヘアはあの時の嫌な感覚を思い出し、条件反射的にここから逃れようと思った。だが身体が思うように動かない。
「動かない方がいい。意識は戻っても今の状態ではまだ身体は動かせないだろう」
ラビットは無表情に言う。その声にも感情らしきものは感じられない。
「……あたし、どのくらい寝てた?」
彼女は言った。何とか声は出るらしい。
「一日。普通の人間なら三日は昏倒しているはずだが」
初めて心底感心したような声を出すラビット。それから背後の少女の方を向き、二人で話がしたいから隣の部屋にいてくれ、といったようなことを言った。少女は不安げな表情を浮かべながらもぱたぱたと足音を立てて部屋を去った。
部屋の中はマーチ・ヘアとラビットの二人きりになった。
「形勢逆転ってわけ。あたしのこと、殺すんでしょ?」
マーチ・ヘアは微笑した。覚悟はしていた。仕事の失敗は死に直結している。しかし、ラビットは意外そうな表情を浮かべた。
「何故、私が貴女を殺す必要がある?」
その答えは彼女には意外だった。
「まだ任務は終わってない。ここであたしを殺さなかったら、あたしはアンタを付け狙う。あの子を奪うよ。次は容赦なんかしない」
「……そうだな」
ラビットは少し思案するような仕草をした。しばらく、お互いに何も言わず沈黙が流れた。そして、突如ラビットが口を開いた。
「貴女はいくらで雇われた?」
「は?」
また妙な質問だった。思わず間の抜けた声を上げてしまう。
「誰から雇われたかなんていうのは私にとって問題ではない。とりあえず、貴女はいくらで依頼人に雇われた?」
これも、基本的には殺し屋に対しての質問としては間違っている。だが、今更この状態で答えないということに意味はないと思った彼女は、素直に言った。
「向こうさんはこっちの提示に従うって言ったから、あたしが提示したのは百五十だけど」
ラビットは白い髪に手を通し、真剣な表情で言った。
「その倍を払う。だから私と契約してくれ……我々の『護衛』をして欲しい」
「はあ? ちょっと待ってよ。あたしはまだ先の依頼破棄してないんだよ。自分の立場わかってる? アンタはあたしのターゲットだよ? それに三百なんて常人の払える額じゃない。わかってんの?」
すっかり彼女は混乱してしまった。それに対してラビットはあくまで落ち着きはらった口調で続ける。
「それがわからないほど馬鹿ではない。三百くらいならすぐにでも用意できる。それに……貴女ならば貴女自身の立場をよく理解しているはずだ」
そう。確かにマーチ・ヘアは任務を終了していない。そして彼女自身、ラビットを仕留められそうにないことも理解してしまっていた。それは任務の失敗を意味する。任務を失敗した者をのうのうと生かしておくほど依頼人の方も気楽ではない。つまり。
「我々だけでは流石にこれからを切り抜けられない。だから、貴女の力を借りたい。純粋にな。それに、貴女が我々に同行してくれれば、向こうからは貴女が我々の隙を見てトワを奪おうとしているように見えるはずだ。しばらくの間しか持たないだろうがな。それでもそれまでは貴女の首も繋がるだろう?」
「あたしに二重契約しろってこと?」
「まあ、そういうことだな。先の依頼を破棄はできないみたいだしな」
「油断してると寝首かっきるわよ?」
「貴女はプロだ。金さえあれば依頼人の言葉は絶対だろう?」
ラビットは微かに口端を歪めた。食えない男だ、とマーチ・ヘアは思う。
「……考える時間を頂戴」
「構わん。貴女が動けなければ意味がないからな。ゆっくり考えてくれ」
ラビットの言葉には、「もちろんイエスと言うしかないだろうが」というニュアンスも込められていた。もちろん彼女もそれには気付いていたが、無視した。ラビットの提案以上に自分が生き延びるいい方法が見つからないのが悔しい。
ラビットは立ち上がり、部屋を去ろうとした。彼女は、そんなラビットを呼び止めた。
「ねえ、気に入らないことがあるから一つだけ聞かせて」
「……何だ?」
何を言うかは決まっていた。しかし、どのようにそれを言おうかしばし迷った。
「アンタ、昨日あたしの名前呼んだわね」
「ああ」
「ついでにあたしの兄貴の名前も言ってたわね。兄貴の言葉まで知ってた」
「……ああ」
あまりそこには触れてほしくなかったのか、頭を抑えて苦い顔をするラビット。
「もしかして、アンタ、何となく似てるかもしれないとは思ったけど」
「気付いているのならば言わなくてもいい」
マーチ・ヘアの言葉を遮って、ラビットは言った。その表情は険しい。
「それは肯定と取っていいの?」
「そのつもりだ」
あっけなく肯定の返事が返ってきてしまって少々つまらない気持ちになっていたマーチ・ヘアだったが、同時にもう一つ、疑問を感じて口を開いた。
「もう一つ、聞かせて」
「私が、答えられることならば」
そうは言っているものの、「答えたくはない」というのが顔に表れていた。それはやはり無視することにして、彼女は言った。
「アンタ、何でここにいるの?」
「………」
ラビットはサングラスの下の目を閉じた。どこか困惑を交えている、そんな表情になる。
「私にも、わからないな」
「そう」
それは満足な答えではなかったが、それでもまともな答えを期待してなかった彼女にとってはある意味で十分な答えだった。
ラビットは彼女に背を向け、部屋の扉をゆっくりと開ける。そして、背を向けたまま、ポツリと言った。
「私からも、一つ聞かせて欲しい」
「何?」
「ティア……貴女は私を恨んではいないのか?」
低く、聞き取りづらい声。
「最低でも、あたしはアンタに恨みはないよ、『ラビット』。それに、あたしはティアじゃないわ。今は『マーチ・ヘア』 」
肩を竦め、明るく彼女は言った。ラビットは一瞬彼女の方へサングラス越しに目をむけ、笑顔になった。ほんの少しだけではあったが。
「ありがとう、『マーチ・ヘア』 」
ラビットは、そのまま部屋から出て行った。
一人になった彼女は目の上に手をあてがい、口元を歪めた。
「本当は、恨んでないってのは嘘だよ」
彼女の目の裏に、自信満々に笑う、自分によく似た顔の男が浮かぶ。それは、彼女がかつて「兄」と呼んでいた人間。
「アンタも悲しい奴だよね、『ラビット』。あたしが無理してこう言ってるの、わかってながら『ありがとう』って言ってんだからさ」
Planet-BLUE