ヴァルキリーは扉の横にある明かりのスイッチを入れた。部屋が急に明るくなって、ラビットは思わず腕で目を覆い隠した。サングラスをかけていない今では大きいとはいえない明かりすらも痛みを伴って感じられる。
「お前たちの居場所はすぐにわかるさ。全く、これだけ目立っていて今まで捕まらなかったとは、セプターの怠慢か?」
くつくつと笑うヴァルキリー。ラビットはほとんど見えない目を細めながら口を開いた。
「連邦政府軍大佐ともあろう方がわざわざこんな辺境に赴くとは、何があったのです?」
相変わらずの皮肉な響きを込めた言葉で言うが、ラビットの表情は硬い。そこに現れているのは明らかな戸惑いだ。同時に、漠然とした恐怖、でもある。
連邦政府軍大佐、シリウス・M・ヴァルキリー。
ラビットにはよく見えていないが、銀色のつややかな髪を肩の上で切りそろえ、人形のように端正な顔立ちをした美女であることは見ずともわかる。
見た目だけで言えばラビットよりも若い。だが、長くとがった形をした耳から、彼女がこの宇宙にも少数しか存在しない妖霊系圏の人間であること……つまり、太陽系圏の人間よりもはるかに長い時を生きる種であることがわかる。おそらくラビットの倍以上は生きているはずだ。
そして、彼女は軍でも指折りの指揮官である。
彼女の指揮に入った軍は負けを知らない。まるで「戦乙女」に導かれたかのように。彼女がもしトワを追う者だとすれば、自分に勝ち目はないとラビットは悟っていた。一番得意とする頭脳面でも既に自分より彼女の方が上回っていることを知っているからだ。
まだ、一対一では勝ち目があるかもしれないが、とラビットは思う。
それでも「戦乙女」と称されるヴァルキリーが相手だ。彼女自身の能力も低いはずはない。妖霊系圏人は太陽系圏人には扱えないような能力も生まれ持つのだから。
今、この瞬間にトワを連れ去ることも、できるはずだ。
ただ、解せないこともある。
何故、ヴァルキリーはここに「一人」で来ているのだろう?
ヴァルキリーは大佐であり、指揮官だ。トワを追いかけていたとしても、自分からこのような場所に飛び込んで来る立場の人間ではない。来たとしても護衛の一人や二人はつけているはずだが、気配は感じ取れない。
それすらも罠かもしれない、とラビットは考えずにはいられない。何しろ相手は知将ヴァルキリーだ。だからこそ、下手に手が出せない。相手から敵意が感じられないのだからなおさらだ。
漠然とした恐怖が、ゆっくりと、ゆっくりと、胸の奥に染み渡っていく。
対し、ヴァルキリーは薄い紫苑の瞳を細めて笑みを浮かべる。
「随分と『変わった』ように見えたが、その口ぶりだけは『相変わらず』だな」
どくん。
胸が、跳ねた。
――ああ、違う。
ラビットは手を握り締めた。冷たい汗を感じる。恐怖が、確固たるものに変わる。
ラビットが恐怖する理由は、ただ一つ。
――この女は、とっくに「気付いて」いる。
「お前の質問に答えようか。私はお前たちに会いに来た。純粋にな。わざわざこんな忙しい時期に休暇をもらったんだ。有意義に過ごさせてもらうよ」
「どういうことだ?」
よくよく見れば、ヴァルキリーは連邦軍の軍服ではなく、少々動きにくそうな男物のスーツに身を包んでいた。
つまり、ここに来たのはトワ捕縛の指示を受けた「軍人」としてではなく、「ヴァルキリー」という一個人として来たとでも言いたいのだろうか。
ラビットもそう考えはしたが、緊張を解くことはない。
「正確に言うならば、私が会いたいと思っていたのはお前ではなく、その、少女だがな」
ラビットはトワを見た。トワはいつもと違って怯えた表情を浮かべはしなかった。ベッドの上に腰掛け、首をかしげてヴァルキリーに問う。
「貴女は誰?」
何かを言おうとするラビットを押しのけ、トワの前に立ったヴァルキリーは笑いながら言う。
「そうか、実際に会うのは初めてだったな。私はシリウス・M・ヴァルキリー。クロウ・ミラージュに貴女の逃亡を手助けさせたのが私だ」
「貴女が、ヴァルキリーさん……?」
トワはヴァルキリーを見上げた。ヴァルキリーは「そうだ」と言い、苦笑する。
「全く、ミラージュもよくやってくれたよ。まさかこの男の元へ送り出すとはな」
「ラビットのこと、知ってるの?」
「知ってるも何も……いや、これ以上話す必要はないな。いずれ、わかることになるだろう」
ヴァルキリーはラビットの方を向いた。ラビットは怪訝そうな顔をし、言い放った。
「ヴァルキリー大佐、話が読めないのだが」
「ああ、安心しろ白兎。私に敵意は無いぞ」
今更言われなくてもわかっている。トワが怯えないのだから当然だろう。
ラビットは、必要以上に身構えた自分が馬鹿らしく思えた。しかし恐怖は収まらなかった。それは先ほどまでの恐怖とは少しだけ違ったもののような気もしたが。
「別にそういうことが言いたいのではない。貴女には聞きたいことが多すぎる。貴女はトワを捕らえに来たわけではないのか?」
「確かに彼女の保護は私が命じたことだが、私が彼女の保護を命じられたわけではないのでな」
肩を竦めて言うヴァルキリー。余計に意味のわからなくなるような言葉だった。もちろん、ラビットもその言葉を素直に飲み込めるわけがなく、聞き返す。
「貴女が、トワの保護を命じたのか? ならば何故貴女自身は……」
「何、お前ならわかるだろう?」
ヴァルキリーはにやり、と笑った。ラビットはすぐに思い当たるところがあり、考え始める。
その間に、ラビットからは目を離し、ヴァルキリーはトワに向かって言う。
「どうだ? 地球は」
「……うん、いいところだよ」
トワは微かに笑う。
「それはよかった。もしそう言われなければ貴女を連れ帰ってもよいと思っていたのだが」
ヴァルキリーは言いつつ、まだ答えが見つからず悩んでいるラビットを一瞥し、続ける。
「あの男はどうだ?」
「ラビット? わたしのこと、助けてくれた人。わたしのこと、守ってくれる人。それに……わたしのこと、何も聞かないでいてくれる人」
「ほう?」
「だから、優しい人」
トワは少しだけ悲しげな微笑を浮かべた。ヴァルキリーは「ふむ……」と言って首を傾げた。
「あとね」
トワはぽつりと言う。
「わたしに、似てる人。何でそう思うのかはわからないけど、ラビットとわたしは似ていると思うの。ラビットは違うと思う?」
ラビットはその言葉を聞いて、ふとトワを見る。トワはかつての海を思わせるような青い双眸をラビットに向けていた。ヴァルキリーはそれを横目に頷きながら言う。
「そうだな。そうかもしれない。だからこそ、ミラージュはお前を選んだんだ、白兎」
ヴァルキリーは言いながら、再びラビットに目を向けた。
「ああ……わかったよ、貴女の言いたいことが」
ラビットは低く呟く。表情は真剣そのものだった。ヴァルキリーは再びにやりと笑い、腕にはめた時計のようなものに目を走らせ、そのまま窓の外を見る。
「そろそろ時間だな」
ヴァルキリーの視線を追って窓の外を見れば、まだ暗くてよくは見えなかったが、少々離れた位置にある道の真ん中に、二つのランプが灯っていた。車か何かが停まっているのだろう。
「トゥールを待たせるのもよくない……そうだ、白兎。お前にもう一つだけ、質問を許そう。私はお前たちの味方というわけでもないが、敵でもないからな」
ヴァルキリーはからかうような口調で言う。
ラビットは、即答した。
「トワに関する一連の出来事とピアニストの死因との関連」
トワにはその言葉に含まれている意味が理解できなかったようで首を傾げたが、ヴァルキリーは先ほどまでの笑みを消して真剣な面持ちで言う。
「流石にわかったか。確かにそれが『一つ』と限定された質問の中では完璧に近い問いだ。だが、それは同時に私が答えるべきことではない」
すっとヴァルキリーはラビットとトワに背を向け、扉を開く。
「何が言いたい?」
ラビットの放った言葉を聞き、一瞬だけ、ヴァルキリーはラビットの方を向いた。どこか憂いを秘めたような、そんな笑みを浮かべながら。
「……『ロキ』ならすぐにでもわかるだろう」
ヴァルキリーはかろうじてラビットの耳に届くか届かないかの声で言った。そして、表情をさっきの自信を感じさせる笑みに戻し、はっきりとした声で続けた。
「私の答えは以上だ。まあ、地球観光を楽しんでくるんだな、お二人さん。心配するな、お前たちのことは上には決して伝えない。では、二度と会わないだろうことを願うよ」
ヴァルキリーの姿が扉の向こうへと消える。闇の中に足音が遠ざかっていき……そして、消えた。
トワは不安げな面持ちになってラビットを見たが、ラビットはそれには気付いていなかった。ヴァルキリーが去った扉をじっと見据えていた。真紅の瞳が淡い輝きを帯びているようにも見えた。
しばらくの沈黙の後、ラビットは呟くように言った。
「上等だ、シリウス」
ラビットは口端を少しだけ歪めた。それは、笑みのようにも見えた。
Planet-BLUE