「怖い」
がくがくと震える細い身体。触れたその手が妙に冷たかったのは覚えている。
「壊れる、嫌だ、死にたくない」
見開かれた双眸、こぼれる涙。恐怖に歪んだ顔。
何故、そんな顔をするのだ、と彼は思った。
いつものお前らしくないと言おうかとも思った。
でも、言えなかった。
「……もう、誰も、誰も近寄るな!」
今まで彼の手の中で震えていた男がそう言った瞬間、男の足元の大地が弾け飛んだ。瞬間、
地面から現れた鉄と岩で作られた不恰好な蛇、『地を呑む蛇』が彼の右腕をもぎ取った。
彼は一瞬何をされたのかわからなかった。
痛みは感じなかった。
ただ、ただ悲しかった。
「何故、俺はあの時悲しいと思った?」
緑色の目を薄く開き、小さなベッドの上で星団連邦政府軍大尉レイ・セプターは呟いた。地
球のとある宇宙港……正確には宇宙港の側の町のホテルに、彼はいた。もちろん、無限色彩保
持者の『青』を捕らえるためだ。
だが、大陸横断橋の上で『青』が能力を開放し、その場から消失してしまったことで、捜査
は難航していた。そのため、セプターは『青』の情報が入手できるまで、宇宙港で待機を強い
られていたのだ。
窓の外を見た。地球の空はいつも暗いが、それに輪をかけて暗かったため、まだ夜は明けて
いないのだろう。どうも目が冴えてしまった。
彼は左手をついて身体を起こす。そして、少し顔を歪めて右肩を押さえる。そこにあるはず
の右腕はなかった。ただ、腕の付け根であるはずの部分から色の付いた短いコードが何十本も
伸びているだけで。
「……痛ぇ」
口から漏れるのは絞り出すような声。表情はあまり変わらなかったが、息が乱れてくる。汗
が流れる。彼はうずくまり、しばらくその体勢のまま動かなくなる。
――何、思い出してるんだろう、俺。
痛む、何年も前になくなったはずの腕。彼はその鈍い痛みを感じながら思った。
――いくら考えてもあいつが戻ってくるわけないって知ってるのに。
彼は目を閉じる。頭の中で、鮮明に思い出される一人の男の記憶。自分を非難がましく覗き
込むいつもどこか虚ろな青い瞳。自分より背は高いのに妙に細い身体。左頬に刻まれた「蛇」
の紋章。自分を呼ぶ、鋭い声。
全てが、あまりにはっきりと思い出されて、彼は悲しくなる。
――だから、戻ってくるはずないんだ。あいつは、「あの時」に死んだ。
「セプター大尉? どうかしたのですか?」
ドアの外から突然聞こえてきた声に、セプターははっとして、そちらを向く。いつの間にか
痛みは消えていた。
「セイント、か。悪い、何でもない」
ドアがゆっくりと開き、部屋に入ってきたのは黒髪の女軍人だった。彼女はセプターの副官
で、名をルーナ・セイントと言った。
セイントは明らかに不安げな表情を浮かべながら言う。
「大尉、そんな顔で何でもないと言われても説得力ないですよ」
セプターは額から落ちる汗を拭いながら苦笑する。その表情もどこか硬い。
「本当に何でもない、大丈夫だ」
セプターが放ったその言葉は、セイントに向けられたものと言うよりは自分に向けたものだ
ったのだろう。セイントは不安げな表情のまま続ける。
「近頃様子がおかしいですよ、大尉。部下も心配しています」
「そうか? 俺はいつも普通だ」
セプターは肩を竦める。セイントは納得こそしていないようだったが、諦めたように溜息を
つく。
「そうですか、それならよろしいのですが……ああ、シリウス・M・ヴァルキリー大佐から通
信要請が入っているので、すぐに通信をお願いします」
「ああ、わかった」
セイントは、そう言い残して部屋を去った。再び一人になったセプターは再びベッドの上に
横たわり、目を閉じた。
「何で、死んじまったんだよ……」
頭の中に響く声。自分を罵倒する声。そしてそれに言い返す自分。それからの、あの男につ
いての記憶は、ない。
次にあの男に出会うことは、なかったから。
ただ、そこにあったのは真っ白な荒野だけだったから。
何故今更思い出すのだろう、と思う。数年前のことだ。しばらくは頭の中にもなかった。忘
れかけていた記憶のはずだった。なのに、今になって鮮明に思い出される、あの男のこと。
セプターは左腕で目を覆った。悲しかった。ひどく、悲しかったから。
「クレス……」
「最後になったが、これも一応説明しておかなくてはならない……『クレセント・クライウル
フ』。それが今では欠番である『白の二番』の名前だ」
妙に広い空間に、数十人の軍人が集まっていた。そして、巨大なスクリーンを前にして、一
人の女が立っていた。大佐シリウス・M・ヴァルキリーだ。ヴァルキリーは手元の資料を見な
がら朗々と軍人たちに向かって言う。
「かつては連邦軍未開惑星探査班に所属していた紋章魔法士でもある。あのレイ・セプター現
大尉の相棒だったといえば理解してもらえるだろう」
「 『シュリーカー・ラボの悲劇』を引き起こした男ですね」
軍人の一人がそう言い、ヴァルキリーは苦い顔をして頷く。
「その通り。この男の能力は保持者の中でも特別だった。他の無限色彩保持者は念動力や予知、
創造などの能力を多様に扱えるが、この男は『精神感応』の能力しか持たなかった。それ以外
の能力はいくら調べても検出されなかった」
「しかし、『精神感応』など、無限色彩でなくとも超能力として持つ者も多い……本当に無限
色彩保持者だったのか?」
初老の軍人が言う。ヴァルキリーは資料に目を向けることも無く、淡々と言う。
「ああ。『白』のジュエルも確認されていた。それに……この男がほんの少し開放した能力で、
町ひとつの機能が完全に麻痺したと言っても、奴が無限色彩保持者の『白』だということを否
定できると思うか?」
その言葉を聞き、にわかに部屋の中にざわめきが広がる。ヴァルキリーの紫苑の瞳が冷え冷
えとした色を湛えたまま部屋を見渡した。
「ただ、この男はちょうど五年ほど前に、あの地球で起こった『消滅事件』で消滅が確認され
ている。そのため、現在『白の二番』は欠番だ。白の一番と三番は完全に我々の監視下にある。
特異発生である『黒』もまだ時計塔に残っている……どうにせよ一番今我々が危険視しなくて
はならないのは、逃亡中の『青』ということになる」
ヴァルキリーの言葉はあくまで淡々としていて、言葉とは裏腹に危機感は感じられないよう
に思えた。
「現在、『青』の捕縛はレイ・セプター大尉に一任されているが、セプター大尉に任せておい
ても大丈夫なのか?」
「そうだ、今までの記録から見てもまだ保護には成功していないのだろう? しかも、場所は
地球だ! あと九ヶ月もないのだぞ? もし『青』の保護が間に合わなかったら……」
ヴァルキリーは薄く微笑んで言った。
「この銀河が、消滅するかもしれないな」
ばん、と机を叩いて軍人の一人が立ち上がった。灰色の髪の大男……大佐、バルバトス・ス
ティンガーだ。
「ふざけるな、ヴァルキリー! 何故セプターに任せた! 奴のやり方は甘すぎる! やるの
ならば徹底的に……」
「あまり感情的になるな、スティンガー大佐。考えてもみるがよい、『青』は自分の能力の使
い方も心得ている。もしこちらが徹底的に強硬手段に出れば『青』も応戦するだろう。その場
合のこちらの勝ち目は薄いだろうな」
「……っ」
スティンガーはそう言われて反論できずに黙り込んでしまう。ざわめいていた他の軍人たち
も静まり返る。
「セプターのやり方に問題があるのは事実だ。だが、セプターはさっきも言ったとおり、
『青』に次ぐ能力を持つ『白』と長年付き合ってきた人間だ。おそらく、無限色彩との対し方
も心得ているだろう。それを考えて、私はセプターに一任した。異論はないな?」
反応はなかった。ヴァルキリーは口端を少しだけ上げて、続けた。
「現地点での『無限色彩』についての報告は以上だ」
ヴァルキリーはそのまま、その部屋を後にした。何やら後ろから自分を呼ぶ声が聞こえたよ
うな気がしたが、それは無視した。
部屋を出たところで、黄色い髪の男がひらひらと手を振っていた。ヴァルキリーは緊張を解
き、苦笑する。
「トゥール。いつから聞いていた?」
「あら、ずっとよ」
悪びれる様子もなく言うトゥール・スティンガーは、ヴァルキリーと並んで歩きながら笑う。
「しっかし、『青』が応戦するなんて、そんなことありえないわよ。アンタも大嘘つきね」
「スティンガー大佐を黙らせるにはあのくらい言わなくてはな。どうせ皆『青』が平和主義者
などとは思ってもいまい」
「言えてる」
楽しげに笑うトゥールに、ヴァルキリーもつられて笑みを浮かべる。そして、言う。
「トゥール、聞いてくれ」
「何?」
ヴァルキリーはすぐに真剣な表情になりトゥールを真っ向から見据えた。トゥールは突然の
ヴァルキリーの行動に戸惑う。
しばしの沈黙の後、ヴァルキリーは口を開いた。
「……私は、地球に行く」
「で、あたしを呼んだってわけ? あたしは高いよ」
暗い部屋の中で、背の高い女が言った。そして、それに向かい合って立っている男は「あ
あ」と低く言う。
「金はいくらでも出す。だが、失敗は許されない」
「何言ってんの、あたしはプロだよ?」
「……そうだったな。まあ、良い報告を期待している」
男はそう言って、部屋から出て行った。女はそれを見送ってから、手に握った紙を広げ、手
元のランプを灯す。
「何か変なの。ま、いいか。どうせ仕事なんだから手早く終わらせよっと」
女が目の上にかざした紙は、軍が出した少女の手配書だった。
そして、『青』を廻る歯車は淡々と、加速し始める。
Planet-BLUE