Planet-BLUE

014 ココロの海

 トワは、独りきりで不思議な空間に立っていた。
 ひどく静かで、何も聞こえない。完全な静寂がその場を支配していた。
 空を見上げてもそれは空ではなく、真っ白な壁のよう。ただただ白く塗り潰された空間がそこにあった。
 足元を見ると、それは床ではなく、水だった。水は青く、深く満ちていた。しかしトワはその上に立っていながら、沈むことはなかった。
 ――ここは、どこ?
 トワは思った。
 自分はどうしてここにいるのだろう? そう考えても思い出せない。そして、いつも横に居たはずのラビットは、どこに行ってしまったのだろう?
『ここは、夢だ』
 突然、微かな声が聞こえてきた。いや、耳に聞こえたわけではない。直接、頭の中にその意識が流れ込んできたというほうが正しいだろう。
「誰?」
 トワは声に出して聞いた。同時に、声が聞こえた方向に走り出した。裸足の爪先が触れた水面に波紋が広がるが、やはりトワの身体は水の上にあった。細い足で駆けていっても周りの風景は全くと言っていいほど変わらない。真っ白の空と足元の水。そこに何一つ、変化はないと思われた。
 だが、どのくらい走ったかわからなくなってきたころ、一つだけ変化が起こった。
 人が、水に浮かんでいた。
 水の上に立つトワとは違い、それは仰向けになって水に浮かんでいた。長く伸ばした漆黒の髪が水面にゆれる。真っ白の服に身を包んでいるのが妙な感じを受ける。ひどく女性的な顔立ちをしていたが、体格からすると、どうも男らしい。
「……貴方が、わたしを呼んだの?」
 トワは言った。男は閉じていた目を片方だけ開けた。妙なことに、右目は瞼を縫い付けられているために閉じたまま開かない。開いた左目は、この場に広がる水と同じ、深い青をしていた。
『ああ』
 男は口を開かなかった。だが、再び直接、トワの頭の中に声が響いた。声というよりそこまで明確ではない「意識」がそのまま伝わってきているといった様子だろうか。
「ここは、どこなの?」
『さっきも言ったとおり、夢だ。人が眠っているときに見るあれだ。しかし、ここが貴女の夢なのか、それとも私の夢なのかはわからない』
「どういうこと?」
 トワは男の顔を覗き込むようにしゃがみこむ。男はニ、三回瞬きをしてから、再び意識で語り始めた。
『……私はこの通り、喋らずとも意識を伝えることができる。同時に、他人の意識を読み取ることもできる。だから、私が貴女にこの夢のイメージを送っているのか、それとも貴女のイメージを読み取っているのか、そのどちらかということだ』
 言われても、トワはすぐには理解できなかった。とりあえずわかったのは、ここが現実ではなく、夢の中であること。そして、この水の上に浮かぶ男が、人の心を読み、そして伝える力を持っていること。
「貴方は、私が何を考えているのかもわかるの?」
『ああ。読み取りづらいが、大体ならば。私が、何者なのか聞きたいんだな?』
「うん」
 トワは素直に頷いた。夢の中なら、何があってもおかしくはない。
『……私は、貴女の探している「白の二番」だ』
 その言葉を聞いて、トワは目を丸くした。目の前の男は、再び左目を閉じた。
『数年前に死んだ、無限色彩の白。それが、私だ』
「貴方が、白……?」
『そう、残念ながら死んでしまっているから貴女が私を見つけ出すことは不可能だがな』
 トワは、その言葉が嘘だと知っていた。
 本当に死んでしまっている人間ならば、トワに夢を見せることも、トワの夢に入る事だってできない。それに、トワは確信していた。
「違うよ」
『何がだ?』
「貴方は死んでない。自分で、自分を否定してるだけ」
 男は薄く目を開けると明らかに眉を寄せ、不機嫌そうな顔をした。
『何故、そうだと言える?』
「だって、私は『青』だから」
 トワは、自分のワンピースの襟を少しだけ下げ、胸元を男に見せた。そこには、小さな、親指ほどの大きさの青い宝石のようなものが埋め込まれていた。それを見やった男は小さくため息をついた。
『そうか、貴女は全ての無限色彩が「見える」のか』
「そう。だけど貴方だけは違うの。貴方は、生きているってことまでしかわからない。何故なのかはわからないけど、こうやって話しかけてくれないと、わたしは貴方に気付けないの。どこにいるかもわからないし、何をしているのかもわからないの」
 トワは悲しげな表情を浮かべた。男は一瞬戸惑いをその顔に浮かべたが、すぐに無表情に戻った。
『なら、探し出してくれ』
「え?」
『私を探し出してくれ。私に、聞きたいことがあるのなら。私が、必要ならば。この星から探し出してくれ』
 思考は淡々としていた。だが、それに反して男は表情を少しだけ歪めた。その表情は、「悲愴」。
 トワはゆっくりと、手を男に向かって伸ばしていた。男はトワの手を取ると、その温もりを確かめるかのごとく自分の頬に当てた。
 男の頬は、氷のように冷たかった。
「――この海は深すぎて、足も立たない。泳ぐこともできずに、ただ浮かぶことしかできない」
 男は、初めて「呟いた」。低くもなく、高くもなく、しかしよく響く声。どこかで聞いた声。トワはその声を聴いた瞬間、ぽろぽろと涙を流した。何故だかはわからない。ただ、ひどく悲しくなったのだ。
「この海に溺れてしまう前に、どうか私を見つけてくれ……どうか」
 男はトワの手を離した。トワは男を見た。男の姿が、だんだん深淵の青を湛えた海に沈んでいく。トワは小さく悲鳴を上げ、男の手を引こうとした。しかし男はそれを拒み、言葉を続けた。
「助けて」
 そして、男は海に消えた。
 そこには海の上に立つ少女が独り残された。
 だが、トワは目を男が消えた海から白い空に向けていた。
 その目は、はっきりとした意志を示していた。
 
 
 そうだ。
 そう、この声。
 昔わたしの心を連れ出した声。
 この星から聞こえてきた声。
 わたしに星の夢を見せた声。
 わたしが、地球に来た理由は、そう、この声が呼んだから。
 でも、その時の言葉は「助けて」じゃない。
 「幸せだ」
 確かに、貴方はそう言っていた。
 貴方の本当の顔も、どこにいるかも、わたしは知らない。
 でも、きっと見つけてみせる。
 どうして、貴方はこの星を愛したのか。
 どうして、貴方は幸せだったのか。
 どうして、わたしに助けを求めるのか。
 全てを、聞きたい。
 
 でも、一つだけ。
 一つだけわかったの。
 わたしは、この星に来てよかった。
 大切な人に、出会えたから。
 わたしのことを守ってくれる人に出会えたから。
 わたしもその人を守りたい。
 
 そう、願うの。
 
 力を貸して、『白の二番』。
 貴方の力がないと、あの人は救えないの。
 貴方の愛したこの星を……救えないの。
 
 だから、わたしが貴方をこの心の海から救ってみせる。
 見つけ出してみせる。