Planet-BLUE

012 水平線の橋

 ラビットと、トワを乗せた車は海を横断する巨大な橋を走っていた。東に。ただひたすら東に。窓の外に見えるのは深い灰色の海、淡い灰色の空、その境の水平線。ただそれだけだった。
 ――そう、地球の海の色は灰色だ。
 ラビットは思う。そしてそれに気付いたのはいつのことだろうかと考えた。
 きっとこの灰色の海も昔は青かったのだろう、と彼は思う。今まで彼が見てきた惑星の海は、どこも青い色をしていた。
 ――なら何故、今この地球の海は色を失ってしまっているのだろう? 人がこの星を蝕んだから? それとも時間の流れの中で避けられない運命だったから?
 いくつもの疑問符を浮かべながら、ラビットは目の前に広がる海と空を見た。
 ――だが、私にはそんなことは関係ない。
 しばらくはそのことについて考えていたが、すぐに考えを払拭し、ただ一つ、ひどく簡単な答えにたどり着いた。
 ――単純に、私はこの星が好きなのだろう。
 彼は根本的に好きなことに理由をつける必要などないと信じているため、この感情にしても、強いて挙げるほどの理由はないのだろう。しかし、彼がこの星を愛しているのは本当だった。多分、それはこの星が消える瞬間も変わらないのかもしれない。
 だが、彼はだからと言ってこの星が消えると言ってもどうしようとも思わなかった。
 「どうしようもない」。
 彼は、それを一番良く知っていた。
 ――諦めが早すぎると思うか?
 そう思い、彼は自嘲気味な笑みを浮かべる。
 ――だが、私は……
 
 
「不思議」
 助手席に座って、ただ外を眺めていたトワが、ポツリと呟いた。ラビットは考えようとしたことを忘れ、トワを見た。
「何が不思議なんだ?」
「外から見ると小さな硝子球みたいなのに、こんなに、広いんだね」
 トワは「地球」の事を言っているのだ、と気付くのに多少の時間を要した。
「ああ、そうかもしれないな」
 ラビットも頷く。トワは続ける。
「先が見えない。ずっとずっと広がってる空と海。……初めて見た。海って広いんだね」
「海を見たことがないのか?」
 ラビットは思わず聞き返してしまった。どんな田舎の星に住んでいたとしても、海くらいは見たことがあるだろうと思っていた。しかしトワは首を縦に振った。
「うん。私、『時計塔』から出たことなかったの」
「とけいとう?」
 トワはラビットの方に向き直った。……そういえば、トワの目の色も青い海の色をしていたな、とラビットは思った。
「そう、いっぱいの花が咲いてて、塔の真ん中には振り子があるの。大きい大きい振り子。それがずっと動いていて、時間になると大きな鐘を鳴らすの。いっぱい、作り物の友達が居たけど、本物はわたしだけ。あと、いろいろなことを教えてくれるお人形が一人居てくれたけど、やっぱりわたしは独りなの」
 そう言って、トワは悲しげな、まるで触っただけで割れてしまう薄い硝子のような、そんな表情を浮かべた。ラビットは、トワの言葉の正確な意味こそわからなかったが、状況だけならば理解できた気がした。
 ――隔離されていたのか。
 外界に接触しないどこかに。『時計塔』が一体どこなのかはラビットの知る由ではないが、トワが何らかの理由で完全に外界から遮断された空間にいたということはわかる。
 そして、これ以上のことを聞くべきではないと、悟った。
「……ならば、海はどんなものかも知らなかったのか?」
「ううん、海は水で、池よりも湖よりも広いってことは教えてもらった」
「そうか」
 ラビットは少しだけ身体を乗り出し、ハンドルを握っていない方の手で水平線を指差した。
「いいか、トワ。今、空も海も灰色をしているだろう?」
「うん」
「だが、昔は空も海も、綺麗な青い色をしていた。気の遠くなるような昔、初めて地球を宇宙から見た人間が、『地球は青かった』と言ったという記録が残っているほどに、美しい青い色を持っていたようだ」
 ラビットの表情は彼自身も気付いていないが、何故か嬉しそうで、けれどどこか寂しそうな、そんな妙な表情になっていた。その変化は本当に微かなものだったが。
「かつてはそうだったのだ。海は青い。他の星は今もそうだ。だが、ここだけは灰色をしている……色を失っている」
 そこまで言って、ラビットはふと気付いた。
 ――そうだ、自分も同じだ。
 自分も色を失っている。何の色でもない、白。そして絶えず身体の中に流れている赤。ただ、それだけしか自分には残っていない。その時、色と同時に失ったものを思い出すのは、彼にとっては一番辛いことだった。
 それなら、この星は色と何を同時に失った?
「青い、海……」
 トワは灰色の海の先を見た。赤く錆びた橋の柱が妙にその風景に映える。
「見たいな、青い海」
 トワは呟いた。ラビットはハンドルに身体を預け、続く赤茶けた橋の消失点を見ていた。元々視力の弱いラビットには、その消失点ははっきりとは見えなかった。だからこそ、その『異変』にも気付けなかった。
 突然、横の窓から外を見ていたトワが、正面に目を戻して小さな悲鳴を上げた。
「ラビット、あのいっぱいいるのは何?」
 いっぱい?
 ラビットは普段はあまり上げていない視力補助装置の感度を最大にした。
 ――しまった。
「掴まっていろ、トワ!」
 ハンドルを大きく切り、Uターンをする。そして全速力で来た道を戻り始めた。
 ラビットが見たのは、こちらに向かってくる連邦軍の紋章が入った軍の車。トワを追ってきたのだろう。逃げ道のない橋の上。追い詰めるのには格好の場所だ。
 そして、ラビットは自分のこの行動も無駄であることに気付いていた。今まで二人の会話に割り込まないように黙っていた龍飛が声を上げる。
『ラビット、前方三キロメートルにも不審な車が……』
「わかっている、それに間違えるな龍飛、私たちが一番不審だ」
 Uターンして戻っていた先にも、やはり橋を塞ぐように軍の車が配置されている。挟みうちだ。仕方無しに、ラビットは車の速度を緩め、最後には止めた。怯えるトワの頭を軽く撫で、そして車をゆっくりと降りた。トワも、一緒に降りてくる。
 後ろから追ってきていた車も追いつき、中からぞろぞろと真紅の軍服の軍人たちが降りてくる。
 そして、その中に、あのレイ・セプターの姿もあった。
「やあ、短い地球観光は楽しめたか?」
 セプターは敵意の無い微笑みすら浮かべながら言う。投げかけられた言葉は別に皮肉も何もこもってはいない、純粋なものだということも、ラビットにはわかる。
「まだ足りないな。あと九ヶ月くらいくれれば十分楽しめるとは思うのだが」
 対するラビットはどこか皮肉じみた言葉を返す。
「そういうわけにもいかないんだ。上からの命令だしな。そのお嬢ちゃんをこっちに帰してくれれば手荒な真似はしない。前にも言っただろ? ただ、前回のこともあるし、一筋縄でいかないってのもわかってたから、今回はちょいと卑怯なことをさせてもらったけどな」
 セプターは苦笑する。あまり彼はこの挟みうちには賛同していない様子なのだろう。だからこそ、こんなに和んだ様子で話ができるのだと思うが。だが、ラビットの方はそうもいかない。どうやってこの場を切り抜けるか、それで頭がいっぱいになっていた。
「大尉! 話はともかく、早く……」
 セプターの横にいる黒髪の女軍人が全くと言っていいほどに戦意を表さないセプターに焦れ、言う。セプターは苦笑こそそのままに、機械でできた右腕をラビットに向ける。普通なら手があるはずのそこには、銃が仕込まれた金属の刃になっていた。
「わかってる、セイント准尉。……すまんな、そちらの答えが悪ければ強硬手段に出るしかない。こちらも時間がないんでな」
 ――どうする?
 ラビットは焦った。トワは顔をラビットのコートに埋めて震えている。
 ――トワを、手放すわけにはいかない。だが……どうすればいい?
 背後にちらりと目をやる。真紅の軍服しか目に入らない。前を見ても、逃げ場は見つからない。自分が乗っている車は飛べない。いろいろと考えはした。この場からなら何とか逃げられるかもしれないが、逃げてからこの橋を渡りきれるかといえばそれは不可能。
 ――手詰まり、か。
「答えを、教えてくれ」
 セプターはゆっくりと、言う。いつの間にかその顔に浮かんでいた苦笑も消え、鋭い表情になっていた。ラビットは、渦巻く不安に支配されつつも、しかしきっぱりと首を横に振った。
「……残念だ」
 セプターは心底残念そうに呟き、右腕をラビットの足元に向けた。同時に、銃身から乾いた音を立てて撃ち出された鉛の弾が、正確すぎるほど正確にラビットの両足を撃ち抜いていた。
「っ……!」
 声にならない声をあげて倒れこむラビット。トワが甲高い悲鳴を上げて、ラビットの身体を抱く。
 あまりの素早さに何をしたのかわからなかった軍人たちは、何が起こったのかに気付き、セプターに向き直る。
「セプター大尉、危険です! もしあの少女に当たったら」
「何、俺が外すとでも思ったか?」
 しゃあしゃあと言うセプター。そして、一歩、また一歩とトワの方に近づいてくる。ラビットは霞む目でそんなセプターを見上げた。
 ……心底、恐ろしい、と思った。
 戦おうと思えば戦えなくもないはずだ。足の二本やそこらが動かなかろうと、彼は魔法が使えるし、他に武器だって持っているはずだった。だが、それもできなかった。痛みと恐怖で、体が動かなかった。
 恐怖と同時に、情けないと、思った。
 トワは大きな目から涙をこぼしながら、ラビットの身体に顔を埋めていた。そんなトワを見下ろすセプターは無表情だったが、それが妙に似合っていなかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
 トワは何度も何度も言った。ラビットは足の痛みをこらえつつ、何とか腕を伸ばし、トワの頭に軽く触れた。トワははっとして、顔を上げた。
「すまない、トワ……私は、貴女を、守ると、言ったのに」
 ――結局、私はいつもそうだ。守りたいものの一つも守ることはできない。
 ラビットは、目を閉じ、ほとんど聞き取れないような声で言った。出血量が多く、頭の中が白一色に染められていくのが感じられていた。
 ――何もかも、無駄だったか。
 ラビットはそう思った。しかし、トワの悲しげな顔、それだけが目に焼きついてしまっていた。何もできない自分に、怒りを感じた。だが、それだけでやはり何もできない。
 その時だった。
 ずっと「ごめんなさい」と言っていたトワが、セプターに目を向けた。既に、涙を流してはいなかった。
「……いや」
 トワは一言だけ、そう言った。
「えっ?」
 セプターは呆気に取られた様子で聞き返し、気づいた。トワの周囲に青い光の帯のようなものが浮かび上がっていることに。
「 『青』……っ!」
「いや……わたしは離れたくない……離れたくない!」
 
 
 その瞬間、世界が青く染まった。
 青い光が、橋を、海を、空を染めた。
 ラビットには、何が起こったのか理解できなかった。
 ただ、「海が青いな」と、そう思っただけで。
 
 
 ――貴方は、諦めが早すぎるのよ。
 
 青い光の中で、妙に冴えた意識。
 微かな声が、聞こえた気がした。
 大切なもの。失ったもの。
 思い出すのは辛すぎて、それでも忘れられなかったもの。
 どうにかして忘れたいと心の底から願った気がする、そんな声。
 その瞬間、ラビットの意識は途切れた。