無名夜行

ペンギン・デリバラー

 ペンギンだ。
 最初にその『異界』を目にした感想はそれだった。
 辺りは深い霧に満ちているため、Xの目では遠くまでを見通すことは難しい。しかし、辺りをぺたぺた駆け回るもの、地面に腹をつけてうつらうつらしているもの、棒立ちになって虚空を見つめているもの、耳にうるさい声で鳴きかわしているもの、そのどれもがペンギンなのはわかる。腹から首にかけてと羽の裏、目の周りだけが鮮やかに白く、それ以外がしっとりとした黒の、『こちら側』でいうアデリーペンギンによく似たペンギン。
 もちろん『異界』の事物を『こちら側』の常識に照らし合わせるのは、観測における正しい姿勢とは言えない。ペンギンの姿に見えていても、実際にはまるで別の生物である可能性が高い。『異界』とは『こちら側』と異なる理で存在しているからこそ『異界』なのだから。
 とはいえ、観測しているのが私という『こちら側』の人間である以上、つい『こちら側』の思考に縛られてしまうのは許されたい。
 それに、現実に『異界』でそれらを観測しているXだって、
「ペンギンだ……」
 と呟いているくらいなのだから。
 ペンギンたちは、その場に立ち尽くすXを不思議に思ったのか――それとも、大きな同類だとでも思ったのか、よちよち歩きで寄ってくる。気づけばXは、すっかりペンギンに取り囲まれる形になっていた。
「あの……」
 Xの、助けを求めるような声が、スピーカーから聞こえてくる。
 確かに、これでは身動きも取れない。背丈はそう高くないペンギンなので、持ち上げてどかすのはそう難しくないのだろうが、果たしてこちらを見つめるペンギンに触れていいのか、手を出したら噛まれたりしないだろうか、敵対行動とみなされて群れで襲い掛かってきたりはしないだろうか、様々な可能性が脳裏に浮かんで、行動に移せないとみえる。
 数多の『異界』を渡り歩いてきたXだからこその危機察知能力が、今回ばかりはX自身の行動を鈍らせているともいえた。今まであらゆる理不尽な経験をしてきたのだから、さもありなん、というところだが。
 じり、じり、と包囲の輪を狭めてくるペンギンたち。今にも飛びかかってきそうな、剣呑な目つきをしている。いや、ペンギンの目つきは元より怖いものなのだが。
 その時だった。
「おや、誰かいるのかな?」
 霧に閉ざされた視界の先に、ぼんやりと人影が浮かぶ。すると、Xを取り囲んでいたペンギンたちが一斉に声の聞こえた方に首を向け、ぴょこぴょこぺたぺた、そちらに駆けていくではないか。
 霧をかき分けるようにして現れたのは、大柄な白髪の男性だった。Xより幾分年上なのだろう、深く皺の刻まれた顔は穏やかで優しげだ。そして、その手には大きなブリキのバケツがぶら下げられている。どうも、ペンギンたちのお目当てはそのバケツの中身であるらしい。
「知らない顔だね、こんなところに何の御用かな?」
「いえ、その、迷い込んで、しまいまして」
 しどろもどろといった様子で弁明するX。「別の世界から来た」と言えない状況に置かれたときに、どうにも不審なことしか言えなくなるのが、彼の異界潜航サンプルとしての数少ない欠点といえよう。Xは、元より話すのが苦手なのに加えて、嘘や誤魔化しが極端に苦手なのだ。
 とはいえ、男性はXの不審さにもさして気を留めた様子もなく、人のよさそうな顔のまま、軽く首を傾げる程度だった。
「迷子かい、それはまた……、おっと」
 ペンギンたちが何かを訴えるように口々に鳴き喚き、男性の手にしたバケツをつつく。
「すまないね。まずはこいつらに飯を食わせてやらないと」
 なるほど、バケツの中身はペンギンたちの餌なのか。ペンギンたちの興奮の具合から、どうやら彼らは相当腹を空かせているらしい。つまり、先ほども、Xが「餌をくれる存在」だと考えて包囲してきたのかもしれなかった。
 手に一つずつ持ったバケツを置こうとした男性に、Xが歩み寄り声をかける。
「お手伝いしましょうか?」
「そうかい? 助かるよ、一人だとなかなか満遍なく食わせてやるのが難しくてね」
 そう言って、男性は片方のバケツをXに渡し、ズボンのポケットから予備の手袋を引っ張り出す。Xがバケツの中身を覗き込めば、そこには魚がいっぱいに入っていた。どれもこれも『こちら側』の魚と似て非なるもの。何よりも、その鱗は様々な色に輝いて見えて、さながら宝石のようであった。
「魚をやるときは、頭からあげてくれ。そうじゃないと、鰭が喉に引っかかっちまうからな。あと、できれば食ってない奴を優先してほしいが……、まあ、見分けもつかんだろうしな。食いたがってるやつにあげてくれ」
「わかりました」
 男性の言葉に生真面目に頷いて、手袋をはめて魚の尾を持つ。鮮やかな紅の魚。大きな鰭は、確かに喉に引っかかったら相当辛そうだ。しかし、ペンギンたちはそんなことどうでもいい、とばかりに嘴をぱっくり開いて待っている。愛らしい姿に似合わず、その嘴の中はぎざぎざとした突起に満ちており、なかなか恐ろしげだ。
 Xは男性の動きをちらりと見て、それを真似て一番近くのペンギンの口に魚を押し込む。言われた通り、頭から。そうして、私はXによるペンギンの給餌を、バケツの中身がすっかりなくなるまで、じっくり観察することになるのだった。
 
 
 ――『異界』。
 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
 それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
 かくして、今回の『異界』に降り立ったXを待ち構えていたのが、あの、空腹を訴えるペンギンたちなのであった。
「いやあ、助かったよ。日課とはいえ、なかなか大変な仕事でね」
「それは……、そうでしょうね」
 Xは無事――時々ペンギンにつつかれたり、手を噛まれたりしながらも――給餌を終えて、朗らかに笑う男性と向き合っていた。二人がかりでもこれなのだから、普段はもっと過酷な給餌なのだろう。Xの視界越しに見ているだけならばユーモラスな光景だと思うが、自分があのペンギンの群れと向き合う羽目になったなら、と考えると、背筋に粟立つものがある。
「さて、ここからもう一仕事だが、その前にお茶にしようか。お客さんにも、せっかく手伝ってもらったしな」
「いえ、私は……、本当に、偶然立ち入ってしまっただけなので。お構いなく」
「まあまあ、急ぎってわけでもないんだろう。普段、客人なんてほとんど来ないから、話を聞かせてほしいのさ。大したものは出せないが、是非寄っていってくれないか」
 その声はうきうきと弾んでいて、言葉通りにXという突然の来訪者を喜んでいることが伝わってくる。Xが何者なのか、どうしてここに迷い込んだのか、もちろん疑問に思っていないわけではないのだろうが、それよりも、親切な客人をもてなそうという気持ちが優先されているのかもしれない。
 私がXに課しているタスクは「可能な限り『異界』の事物を見聞きする」ことであり、そこには『異界』の住人から話を聞くことも含まれる。そのため、Xは少しばかり逡巡してみせたが、やがて足元をうろつく――空腹が満たされたことでXへの興味はすっかり失せたようで、てんでばらばらの行動をしている――ペンギンたちを見下ろして、言った。
「ありがとうございます。それなら、お言葉に甘えて」
 
 
 深い霧に閉ざされた奥には石造りの小屋があり、そこが男性の住まいであるようだ。
 小屋の中はあちこちに灯されたランプの柔らかな光に満ちていて、外の寒々しい霧の光景とはすっかり切り離されていた。そして、何よりも目を引いたのは、壁一面を埋める、格子状の仕切りが入った木の棚だった。仕切りで区切られたそれぞれの空間には、どうも封筒や手紙が入っているようだった。
「これは……、郵便物、ですか」
「そう、うちは郵便屋なのさ。とはいえ、辺鄙な場所だから、長らく私一人で営んでいるんだがね」
「なるほど」
 そんな話をしながら棚の前を通り過ぎ、生活感のある小さなキッチンとテーブルの置かれた奥のスペースへと案内される。男性に勧められるままに、客人用であるらしい椅子に腰かけて、辺りをきょろきょろと見渡す。壁の棚のほかにも、見慣れないものはたくさんある。例えば、棚のない側の壁に掛けられているのは、鞄だろうか? ポシェットほどのサイズの、しかし不思議な形をしている革の鞄が、いくつも壁にぶら下がっている。
 Xが部屋の中を観察していると、男性が微笑みかけてくる。
「お茶と珈琲があるけれど、お客さんはどちらが好みかな?」
「では、珈琲を、いただいてよろしいでしょうか」
 果たしてこの『異界』の「お茶」と「珈琲」が『こちら側』のそれと同一かどうかは甚だ疑問であったし、Xがそれを飲んで無事でいられるかどうかも疑わしい。
 何せ、『異界』のXは意識体と呼ばれる肉体とは切り離された存在だが、あらゆる感覚はXが認識している肉体の感覚に依存する。つまり、五感は『こちら側』と同様に働いているし、痛みや苦しみも感じ取ることができる。できてしまう、と言い換えてもいい。そして、『異界』におけるXが「死」を認識すれば、『こちら側』にある肉体も死に至る――と、されている。
 そのため、『異界』での行動はあらゆる危険を伴うわけだが、Xはその危機回避能力の高さの一方で妙に大胆なところがある。特に飲食に関しては、ほとんどの場合、勧められるままに与えられたものを口に入れるため、私の方がハラハラしてしまう。
 やがて、男性が湯気を立てるマグカップを二つ、テーブルの上に置いた。一目見た限りは、『こちら側』で珈琲と呼ばれるそれと変わらない、黒々とした液体。
「熱いのでお気をつけて。ミルクと砂糖は要るかな?」
「いえ、このままいただきます。ありがとうございます」
 丁重に礼を言い、Xはマグの縁に口をつけると、二、三度息を吹きかけてから一口、満たされた液体を飲み下す。次いでもう一口、今度はゆっくり味わうように口に含み、やがて深く息をついて言った。
「……おいしい、です」
「そうかい? ならよかったよ」
 男性は自分の分の珈琲に、スプーン一杯分の白い粉末を入れてかき混ぜる。Xの耳を通して「砂糖」と聞こえていたから、砂糖と考えてよいのだろう。あくまでXを通してしか『異界』を観測できない我々は、結局のところXの目と耳を信じるしかないのだ。
「それにしても、不思議なお客さんだ。そんな格好で、散歩でもしていたのかい?」
 珈琲を一口飲み下して、男性が小首を傾げて問いかけてくる。疑念というよりも、言葉通りに「不思議に思っている」のだろう。
 あらゆる感覚がX自身の身体認識に依存するのと同様に、『異界』におけるXの格好は『こちら側』のXが身に着けているものを反映する。そして、研究所におけるXの服装は、だぼっとした無地のトレーナーに、これまたゆったりとしたデザインのズボンで、足元は裸足にサンダル。『こちら側』なら部屋着と思われてもおかしくない格好だ。男性が不思議がるのも無理はない。
 Xも、姿格好や態度で疑われがちなのは今までの経験で重々承知しているため、珈琲をもう一口飲み下して、言う。
「その、どこから、説明していいか……。私は、旅をしている身、なのですが、いつも、知らない場所に流れ着く、というか……、しかし、そうなる仕組みも、説明が難しくて、ですね……、すみません」
 確かにXは目的地を選べないため、この説明は全く嘘ではないのだが、元より話すのが得意ではない、という特徴に加えて、重要な部分を語らないでいるせいで、怪しいにもほどがあるというものだ。
 それでも、男性は、たどたどしい言葉の切れ目で頷きや相槌を入れながら、ごく真剣にXの話を聞いているようだった。
「旅人さんなのか。知らない場所ばかりを旅している、ってことは、随分と遠いところから来ているのかな」
 はい、とXは頷く。
「そうは、見えないかも、しれませんが」
「いや、何となくはわかるよ。この辺りに住んでるやつの顔ではないし、何より……、佇まいが違う、と言えばいいのかな。仕事柄、それなりに色々な人を見てきたつもりだが、私の知っている誰とも違うから、興味深いと思っていたのさ」
「佇まい、ですか……」
 今度はXの方が首を傾げる番だった。男性からXがどう見えているかわからない以上、答えがもたらされることはないが、とにかく、男性はXが「旅人」であることを飲み込んだらしかった。深い皺が刻まれた顔をほころばせて言う。
「よかったら、珈琲一杯の間、お客さんの旅の話を聞かせてくれないかな。私は仕事柄この土地をあまり離れられなくてね」
「私などの、話で、よければ」
 Xは頷いて、ぽつぽつと語り出す。言葉を選び選び喋るため、とにかくテンポは悪い。それでも、文明社会の全てが水没した世界や、人のようで人でない者たちが行列を成している深い森、何もかもが影でできている夕暮れの街――。Xの口から語られる『異界』の話は、男性の耳を楽しませるには十分だったようで、時に驚き、時にくすくすと笑いをこぼし、マグの中の珈琲を飲み終わるころには、男性はすっかりXの話にのめり込んでいた。
「そんな場所が本当にあるのかい? すごいな、私もこの目で見てみたいところだが――」
 男性がそう言ったところで、不意に、ベルの音が鳴り響いた。男性は「おっと」と腰を浮かせる。
「再開の時間だ。お客さんは、くつろいでくれていて構わないよ」
「いえ、その……、迷惑でなければ、お仕事の様子を、見せていただけませんか。それもまた、旅の、楽しみなので」
 楽しみ。――実際には、異界潜航サンプルとしての「タスク」に過ぎないはずなのだが、Xがそう言葉にしたことに、内心驚く。それが、単なる方便とも聞こえなかったからだ。何しろ、Xは嘘も誤魔化しも得意でない。
 Xが、我々から与えられた命令に従うだけの、命の危険に満ちた『異界』の旅の中に、何らかの「楽しみ」を見出しているらしい。そう聞かされて、驚かないわけがなかろう。
 ただ、そんなXの事情を知らない男性は「旅の楽しみ、か」とXの言葉を反芻して、笑う。
「楽しみに思ってもらえるなら、光栄だ。なら、ついでに、少しばかり手を貸してもらえるかな? 何、難しいことじゃない。少なくとも、あいつらに飯をやるよりは簡単さ」
 Xは男性の言葉を受けて、迷うことなく立ち上がる。
「私にできることなら、是非」
 
 
「まずは、この棚の番号と同じ番号のついた鞄に、手紙を詰めてほしいんだ」
 ディスプレイに映し出された格子状の棚をよく見ると、確かにシールが貼られており、男性の話が正しければ、そこに書かれている「番号」と、壁に掛けられた小さな革の鞄の隅に刺繍されている「番号」が対応しているようだ。
 どうやら、私と全く同じことを考えていたらしいXの、「なるほど」という声がスピーカーから響く。
「これは、数字なのですね」
「おや、もしかして、お客さんは文字が読めないのかな」
「恥ずかしながら、その通りです」
「読めなくとも、文字の形は見分けられるかな」
「はい。それは、問題ないと思います」
 念のため、合っているかの確認はお願いします、と言いおいてXは壁の鞄を手に取る。
 Xは棚に貼られた文字と手にした鞄の文字をしげしげと見比べて、一致していると思しき区画の手紙を、鞄に丁寧に詰めていく。手紙や封筒がすっぽり入ることから、そのためだけに作られた鞄であることがよくわかる。
 手紙や封筒に書かれている文字はやはり私には――当然見ている当人であるXにも――読み取れない、『こちら側』とは異なる文字。形はアルファベットに似ているようだが、それ以上のことは何一つ判断が付かない。
「これで、問題ないですか」
 手紙を詰めた鞄を見せると、男性は中身を検めて、にっこりと笑う。
「ばっちりだよ。その調子で頼んでいいかい」
「わかりました」
 不思議と要領はよいXのこと、一度やり方を掴んでしまえば、手慣れた様子で鞄に手紙を入れる男性とそう変わらない速度で作業をこなしていく。
 そして、数分の後には、棚いっぱいに詰まっていたはずの手紙は、全て小さな鞄の中に収められていたのだった。
「驚いたな、お客さん、随分手際がよいね」
 そうですかね、とXがわずかに首を傾げたのが画面の揺れでわかる。そんなXに笑いかけてみせた男性は、机の上に並んだ鞄を、使い古した台車に移してゆく。
「おかげで、霧が満ちるまで時間ができたよ。いつもならこうはいかない」
「霧が、満ちる……?」
 元より、小屋の外は深い霧に満ちていたと思うのだが。Xの疑問符に、全ての鞄を台車に載せ終えた男性がこちらに向き直る。
「そう、もっとも霧の深くなる時間までに終える必要があるんだが、お客さんが手早く済ませてくれたから、たっぷり時間がある。さあ、行こうか」
 そうして、台車を押して外に出れば、確かに先ほどよりもわずかに霧が濃くなっている。視覚で捉えられる範囲が狭まっているのが、Xの視界越しにもわかる。
 そんな霧の中、マイペースに歩いたり腹這いになったりしていたペンギンたちが、台車を押す二人に気づいたのか、ひょこひょこユーモラスな動きで近寄ってくる。
「さて、お客さん、近くにきたやつから捕まえてみようか」
 その言葉に、Xの視線が寄ってくるペンギンから傍らの男性に移される。
「触って……、大丈夫、ですか?」
「ああ、羽の下に手を入れて抱えてやるのさ。こいつらも慣れてるから、そうそう暴れたりはしないよ」
 Xは男性と、足元までやってきた一羽のペンギンとを交互に見て――それから、腰を屈めて恐る恐るペンギンに手を伸ばす。
 男性の言うとおり、ペンギンは怯える様子もなく、じっとXを見つめたまま立ち尽くしている。そんなペンギンの羽の下に手を入れて、ひょいと持ち上げてみても、足が地面についてないことなど気にならないのか、きょとんとした顔でXを凝視している。
「そのまましっかり持っててくれよ」
 視界の外からかけられた男性の言葉に、Xが浅く頷く気配。すると、男性がペンギンの背中側に回り、小さな鞄の紐を羽に通して、しっかりと背負わせるのだった。
「これでよし」
「手紙を……?」
「そう、お客さんは知らないだろうね、この辺では昔から、こいつらに手紙を運ばせるのさ。さあ、次を捕まえようか」
 確かに、『こちら側』でも、帰巣本能に優れた鳥に手紙を託すことで遠方とのやり取りを行ってきた歴史がある。しかし、伝書鳩ならわかるが、伝書ペンギンなど見たことも聞いたこともない。そもそも、ペンギンは飛べない鳥なのだから、手紙を託す利点がない。人間が運んだ方がよっぽどマシではないか。
 どうしても『こちら側』の基準で考えずにはいられない私をよそに、Xは言われるがままにペンギンを捕まえ、男性がそのペンギンの背中に手紙の詰まった鞄を背負わせる。中には気難しい性格なのか、Xの手の中でじたばた暴れるペンギンもいたし、なかなか近寄ってこないどころかXから全力で遠ざかっていくペンギンもいて、必死に追いかけ回す羽目に陥ったりもした。どうやら、ペンギンは足が遅い、という認識を改める必要がありそうだ。
 そんなどたばたがありつつも、Xは文句一つ言わずに――そもそもXが不平不満をこぼす方が珍しいのだが――丁重にペンギンを捕まえていき、無事、台車に載っていた鞄が全てそれぞれのペンギンに背負われたのだった。
 鞄を背負ってぺたぺた歩くペンギンは可愛らしいが、果たしてこのペンギンたちが、どう手紙を届けるというのだろうか?
 鞄を背負わされながらも、いたって自由気ままなペンギンたち。Xがぼんやりとその動きを見つめていると、一羽のペンギンが急に高らかに鳴き出した。それに呼応するように、一羽、また一羽と、ペンギンたちが空を仰いで鳴き出す。
「ほら、霧が満ちるよ」
 やかましい鳴き声の中でもはっきりと聞こえた、傍らの男性の声。
 それと同時に、一陣の風とともに、視界が白に閉ざされる。あれだけたくさんいたペンギンも霧に隠され、声だけしか聞こえなくなる。かろうじて、すぐ横に立つ男性と、ちょうどXのサンダルをかじって遊んでいたペンギンの姿は見えていたが――。
 その、ペンギンが。
 ふわり、と、浮かび上がる。
「え?」
 Xの、間の抜けた声がスピーカーから聞こえてくる。
 流石のXも、「ペンギンが飛ぶわけがない」と思っていたに違いない。何せ、ずんぐりとした体に、風を切るには程遠い形の羽なのだ。どこからどう見ても空を飛べる姿ではない。
 しかし、今この瞬間ばかりは、そのペンギンが、Xの視線と同じくらいの高さをふわふわと漂っているのだった。
 鞄を背負ったペンギンは、しばし空中でくるくる宙返りをしていたかと思うと、羽を広げて霧を裂き、高く高く上っていく。
 そう、その姿は「飛んでいる」というよりも――。
「泳いで、るのか……?」
 その姿はすぐに深い霧に埋没して見えなくなるが、高らかに鳴き交わしながら泳ぐペンギンの影が、頭上の白い霧の中に、ひとつ、ふたつ、いや、たくさん。
「ここまで霧が深くなれば、こいつらも霧の中を泳げるのさ。霧眼鏡があればもっとはっきり見えるんだがね」
 深い深い霧を海とみなして、悠々と、自由自在に泳ぐペンギンたち。当然だ、あのずんぐりとした形は飛ぶためではなく泳ぐための形なのだから。記憶が正しければ、ペンギンの中でももっとも速く泳ぐというジェンツーペンギンは、時速35キロメートルを記録することもあるのだという。
 このペンギンたちがどれだけの速度で泳げるかはわからないにせよ、霧に乗ることで、遮るもののない空を泳いでゆけるのなら、人の手の届かぬ場所に手紙を届けることも可能である――、きっと、そういうこと、なのだろう。
 頭上に浮かんでいたまるまるとした影が、ひとつ、またひとつと見えなくなっていく。鳴き声が遠ざかり、それもやがて聞こえなくなる。
 あれだけやかましかったのが嘘のように、しんと静まり返った霧の中、男性が口を開く。
「さて、一仕事終えたし、食事にしようか。お客さんは魚料理は好きかな?」
「それは……、先ほどあの鳥たちが食べていた、魚ですか?」
 Xが問うと、男性は片目を瞑って「もちろん。めちゃくちゃ美味いんだぞ?」と笑いかけてくるのだった。