マザー・グースの長すぎる一夜

16:にわか雨

 たん、と、男の指がひときわ強くカウンターを叩く。その指先が触れた場所から、光が迸る。
 その瞬間、僕の視界がぐらりと揺れた。いや、揺れたのはバーそのものだろうか。平衡感覚が狂うような、空間がねじれるような感覚、あるいはねじれているのは僕自身か?
 そんな疑問符は、しかし、突如として扉が開いた音と、流れ込んできた思わぬ冷気によって上書きされてしまった。
 開いた扉の前に立っていたのは、一人の男性だった。だが、何よりも僕の目を引いたのは、その全身がずぶ濡れになっていたことだ。扉が閉まる寸前、かろうじてその背後に見えた外の風景も、まるで槍が降っているかのような、豪雨。
「大丈夫ですか?」
 思わず問うてみると、すっかり濡れそぼった髪から水滴を滴らせながら、手の甲で眼鏡を拭った男性が、恐る恐るといった様子で口を開く。
「雨、急に、降ってきて。雨宿り、いいですか」
「もちろんです。タオルをお出ししましょう」
 とは言ったものの、カウンターの裏側に手やグラスを拭くタオルはあるが、大判のタオルはすぐには見当たりそうにない。ひとまず目についたタオルを手渡そうとしたところで、声がした。
「これ、好きに使っていいわよ」
 奥の男が、やたらとぱんぱんになっていた鞄から、派手な色に染め上げられた大きな布を引っ張り出す。タオル地ではないものの、一目見るだに厚手で柔らかく、水気をよく吸いそうだ。
 ありがとうございます、と男から布を受け取ったずぶ濡れの男性は、ごしごしと頭を拭き、濡れてしまった服の上から水分を少しでも布に移そうと試みながら、ぽつりと言う。
「不思議な、匂い……」
 実際、カウンター越しの僕の方まで漂ってくる香りは、花の蜜の甘ったるさと数多のスパイスの刺激とが混ざり合ったかのごとき、奇天烈な香りをしていた。しかし、まるでちぐはぐなようで決して不愉快な香りではない、というところが余計に不可思議であったし、その不可思議さこそが魔女の男らしいチョイスだとも思う。
 男性は震える手でぎこちなく体を拭きながら、青い顔で辺りを見渡している。唇の色も悪く、どうも冷え切ってしまっているように見える。……先ほど流れ込んできた冷気からしても、どうやら相当冷たい雨であったようだから。
 目を細めて、何ともいえない表情で男性を観察していた魔女の男が、「ねえ、マスター」と僕を呼ぶ。
「何かあったかいもの作ったげたらどうかしら」
「そうですね。お好きな席にどうぞ、……今、温かなお飲み物をご用意します」
「え、あ」
 男性はしばしおろおろと僕と魔女の男とを見比べていたが、やがて魔女の男から一つ空けた椅子に腰かけた。もしかすると椅子が濡れることを気にしていたのかもしれないが、濡れたものは後で拭けばいいだけだ。まずは、内側から冷え切っているらしい男性に温かいものを提供するのが先だろう。
「アルコールが入っていても問題ありませんか?」
「……、はい、飲めます」
 僕の問いに、男性は一拍の躊躇いと共に頷いた。
 それならば、と、まずは耐熱グラスと牛乳を温めていく。その間に卵を割って卵黄と卵白を分ける。卵白も合わせて使うレシピもあるようだが、今回使うのは卵黄のみとする。ベースとなる酒はラム、そこに香りを深めるためにブランデーも加えていくことに決める。
 牛乳が温まったところで、温かなグラスにまず卵黄とシュガー・シロップを入れてよくかき混ぜる。完全に混ざり切ったところで、ラムとブランデーをかき混ぜながら注いでいく。最後に、グラスを温めた牛乳で満たしていけば、ほのかに甘い香りを漂わせる温かなカクテルが出来上がる。
 風味付けと視覚的なワンポイントも兼ねて、シナモンパウダーを軽く振りかけて。
「お待たせしました、エッグノッグです」
 日本ではあまり飲まれないが、アメリカではクリスマスや新年に飲まれることの多いポピュラーなドリンクだ。今回はアルコール入りでよい、ということだったので、体を温める意味も込めてアルコールの入ったレシピで作ったが、ノンアルコールのものも多く出回っているし、冷たくして飲んだり、アイスを添えたりすることもある。
 男性は、しばし、どこか睨みつけるようにエッグノッグのグラスを見つめていたが、やがて意を決したようにグラスを手にして、口をつける。
 その瞬間、男性の目が見開かれたかと思うと、表情が見る間に和らいで、そのままグラスを両手で支えて飲み続ける。どうやら気に入っていただけたようだ、と内心ほっとする。
 そうして、僕もやっとこの男性についてきちんと観察することができるようになる。
 年のころは僕とそう変わらないだろうか、或いは少し下くらいか。短く切った黒髪はもう水を滴らせてこそいなかったがうっすら湿っており、随分顔色もよくなってきたようだが、そもそもの肌の色が僕よりずっと薄いらしく、ほのかに赤みを帯びている。頭と顔を拭いてからそのままになってしまっているのか、少し傾いた眼鏡のレンズにはまだいくつか水滴がついたままだ。
 何より目を引くのは、その顔立ちだ。整った輪郭に、切れ長の目に、長い睫毛。すっと通った鼻筋に、淡い色の唇。中性的で、作り物じみた美貌、と言えばいいのか。同性の僕ですら見とれてしまうほどの美男だと思うのだが、その、ともすれば冷たさすらも感じさせる綺麗な顔で、どこか子供じみた所作をしているのは、何とも見ていて奇妙な感覚に陥る。
 すると、視界の端で何かが動いた。見れば、奥に座ったままの魔女の男がちょいちょいと僕を手招いていた。僕は「失礼」と男性に断ってから魔女の男の方に向き直る。
「どうかしましたか?」
 すると、いつもは声高に喋る男が珍しく露骨に声を潜めて言った。
「ごめん、ちょっとまずったかも。アタシの魔法とこのバーの魔法が混線したのか、変なもん呼び込んじゃった気配」
「変なもん、ですか……?」
 魔女の男がちらちらと男性を見ながら言う、ということは、該当する「変なもん」というのは間違いなくこの男性なのだろうが……。
「普通の人に見えますけど」
「あんたから見りゃそうでしょうね。でも、既に死んだ人間、、、、、、、が入り込むってのは、あんまいいことじゃないんだわ」
 ――既に、死んだ人間?
「幽霊、ということですか」
「大体そんな感じ」
 しかし、僕が出したエッグノッグをゆっくり美味しそうに飲んでいる姿を見る限り、まるで幽霊には見えない。実体がなければカクテルを飲むことだってできないだろう。
 そんな僕の脳裏によぎった疑問を的確に読み取ったのか、魔女の男が唇を尖らせる。
「だから大体、、って言ったでしょ。生きた誰かの肉体を乗っ取ってる死者、って言えばわかる?」
「それは……」
 ぞっとする話だ。僕はそもそも死後の存在というものを容易に信じることはできないのだが、目の前に「死んだはずの誰か」が「生きた別の人間の体」を借りて現れるという現象は、今まで僕自身が信じていた常識を何もかもを覆されるような不愉快な心持ちになる。
「そう、死んだ人間が現れることが問題なわけじゃない。それによって『あるべきルールが狂う』のが問題なの」
 僕の内心をそのまま引き継ぐように、男は言った。
 生きたものは生きたものらしく。死んだものは死んだものらしく。なんでもありの魔法がまかり通る魔女の世界でも、いくつかのルールらしきものは存在していて、そのうち「死者が生者の領域を侵犯する」というのはあまり好ましくない現象なのだ、と男は言う。
「本来、このバーも、そういう極端なルール違反は弾くはずなんだけど、今は誰かが介入してる上にアタシも色々差し込んでたせいで、変なもんが入り込む隙間ができちゃったみたい」
「……しかし、どうすれば、いいのですか」
「一度呼び込んじゃった以上は、丁重におもてなしして、お帰りいただくしかないわね」
 数多の神話に語られるように、招き入れた者に対しては礼儀を尽くさねば逆に面倒なことになるのだ、と男はため息交じりに言う。
「幸い、今回の手合いは随分大人しいみたいだし、マスターの腕の見せ所ね」
 その言葉に、改めて男性を見れば、男性はほとんど空になったグラスを手に、はにかむような微笑みを浮かべてみせた。
 ――既に命を失っているようには、到底見えなかった。