マザー・グースの長すぎる一夜

15:解読

 ゆっくりと、時間をかけて、シー・ブリーズのグラスが空になる。
 そして、客の男性は席を立った。
「それでは、私はこれで失礼します。本日は、素敵な一杯をありがとうございました」
 軽く頭を下げてから、顎のところに引っかけていたマスクを口元まで上げて。そして、男性は眼鏡の下で目を細めて、……笑った、のだと思う。
「メル・ロワさんにもよろしくお伝えください」
 ――?
 知らない名前。ただ、それが「マザー・グース」のオーナーたる魔女の名前であるということだけは、はっきりと伝わった。
「確かに、伝えておきます」
 なるべく動揺を見せないように、その上でバーテンダーらしく見えるように、頭を深く下げる。男性はそのままもう一度会釈をして、店を去って行った。
 からん、からん。控えめなドアベルの音色が響き、それが止んだところで――。
「メル・ロワ。……確かに聞いたわ」
 奥で黙って僕らの会話を聞いていたらしい魔女の男が、ぽつりと言った。僕がそちらを見れば、男は再び片手の指でカウンターに何かを描くような動作を再開しながらも、ぎょろりとした目で僕を見ていた。
「変わったお名前ですよね」
 僕には「日本人ではなさそうだ」ということくらいしかわからないが、どうもこの男にはそれ以上のことが伝わっていたらしく、節くれだった人差し指を薄い唇に寄せる。
「この店が『マザー・グース』っていうくらいだから、『マ・メール・ロワ』のもじりだと思うんだけどね」
「マ・メール・ロワ……?」
「フランス語で『マザー・グース』のこと。ちょうど今流れてるこの曲に、そのタイトルが使われてるわよ」
 と、言われて、ふと店内のBGMに耳を傾けてみる。柔らかな、けれど妙に耳に残るピアノの旋律。そして、同時に「聞きなれた」曲だとも思う。タイトルは思い出せなかったが、それでも、僕はこの曲をよく知っている――そんな確信が生まれる。
 ただ、どれだけ確信を積み重ねたところで、記憶が像を結ぶことはない。まるで、「僕」なんて人間は元からどこにも存在していなかったかのような感覚。そんなことはあり得ない、だが、「魔法」がまかり通るこの場ではあり得てしまうのではないか、そんな答えの出ない問答が始まりそうになったが、そんな僕の思考に男の声が割り込んでくる。
「でも、魔女の名前、、がわかったのは上出来。これで魔法の解読も進められそう」
「どういうこと、ですか?」
「前にも言った通り、アタシは『定義』の魔女。名前というのは、その事象の『範囲』を明確に定めるもの。名前がわかっている、ってことは、このバーのどこからどこまでが『メル・ロワ』という存在に紐づいているのかがアタシからでも読み解けるようになる」
 逆に言えば、どこからどこまでが、このバーの異常事態を引き起こしている輩の影響範囲なのかも読み解けるようになる、と魔女の男は言う。
「新たに定義するよりも『既に定義されているものを読み解く』方がずっと楽なの。プログラムを実際に動かすにはビルドしなきゃならないけど、ソースコードを読む分には平文で読めるのと一緒ね」
「さっぱりわからないです」
「うん、そりゃそうよね、期待はしてなかった」
 一応これでも人間の言葉で喋ったつもりなんだけどね、と肩を竦めながらも男が続ける。
「アタシも名前を聞いてたはずなんだけど、ずーっと思い出せなかったのよね。多分、魔女対策で何らかの妨害をされてんだと思う。でも、客が教えてくれる分には、どうやら向こうさんもすぐには干渉できないみたいね」
 これなら、相手の仕掛けた罠も読みやすくなるし、一体このバーに何が起こってるのかも見えてくると思う、という男の言葉に僕はほとんど反射的に「なるほど?」と返す。
 すると、男はわずかに苦笑いを浮かべる。
「微妙に腑に落ちてないときの『なるほど』ね。あるいは、言ってることは理解できてるけど納得には至ってないときの」
「……よくわかりますね」
「あんた、表情には乏しいけどわかりやすい方だもの。何か引っかかることでもある?」
「引っかかること……」
 言われて、改めて胸の中にちいさな棘のように刺さっている疑惑を確かめる。
 解き明かしてほしい、それはそうだ。いくら居心地が悪くはないとはいえ、延々とバーの中に閉じこめられているのは決していい気分ではない。
 ただ、仮にこのバーに正常な時間の流れが取り戻されたことで、朝が来て、扉の外が外界と繋がったとして。僕が外界にいたことを、思い出すことができるのか? 扉の向こうに僕の居場所は存在するのだろうか?
 そのように思えて仕方がないのだ、ということをつっかえつっかえ言葉にしてみると、魔女の男は存外真面目に僕の言葉を聞き届けた上で「そうねえ」と髭を生やした顎をさする。
「あんたがそう思うのももっともではあるわね。やっぱめちゃくちゃ不自然だもの、マスターでもないあんたが一人でここにいることも、その上で問題なくバーテンダーとしての働きをこなしていることも」
 それとも、と、男がカウンターを人差し指で叩く。その瞬間、青白い光の筋が人差し指の触れた場所から、カウンター全体に、そして壁を伝って床や天井にも広がっていく。
「その謎も、解読していくうちに、わかるのかも?」
 それは、きっとバーの中を「走査」する魔法だったのだと思う。光の筋が僕の目に見えたのは一瞬のことで、もう元の静かなオーセンティック・バーの景色を取り戻していたけれど、その光の鮮やかさは僕の目に焼き付いて離れない。
「少し集中させて。……その間に、もう一杯作っていただける?」
 空になったスティンガーのグラスを掲げる男。僕はその手からグラスを取り上げながら言う。
「そんなに色々と飲んで、酔わないのですか?」
 一応、合間合間にチェイサーを添えてはいるのだが、結構なペースで飲み進めているような気がする。しかも、今までこの男に出してきたのはほとんどがアルコール度数の高いカクテルばかりだ。
「時間は置いてるつもりよ? その時間もわかんなくなっちゃってる、といえばそうだけどね」
 ――じゃあ、念のため、さっきの人と一緒で、軽めのやつお願い。
 くるくると指を回しながら、男が言った。
 物語一つにカクテル一つ。そのルールに正しく則っているかはわからないが、男が見せてくれる「魔法」それ自体が僕から見たら物語に相応しかったから。僕は、それに見合ったカクテルを考える。
 店いっぱいに弾けるように広がった光。その青白さを思い出しながら、手に取るのはブルー・キュラソー。そこに不思議の味わいを加えるならば、異国の果実ライチのリキュールたるディタ、それから爽やかさを添えるグレープフルーツ・ジュース。
 氷を詰めたシェイカーにそれらを注ぎ、シェイクする。僕のそれは全く魔法でも何でもないが、しかし一つの儀式のように。
 かくして出来上がるカクテルは、チャイナ・ブルー。その名称はライチを愛したという絶世の美女、楊貴妃に由来しているとか。爽やかで、甘く、どこか不思議な味わいは、それこそ未知の世界の魔法を思わせる。
 カクテルで満ちたグラスを置いても、男はどうやら魔法に集中しているようで、すぐにグラスを手に取ることはしなかった。
 男の指がリズミカルにカウンターを叩く。元はシステムエンジニアだったというから、おそらくキーボードを叩く要領なのだろうが、今ばかりはBGMに合わせてピアノを弾いているようにも見える。
 ――マ・メール・ロワ。
 マザー・グースの名を持つらしい魔女の領分に秘められた謎を解き明かすべく。先ほどのような眩い光ではないが、うっすらとした光芒が、バーのあちこちに走り――時には、僕の指や腕にも絡みついて。
 目には見えない魔法の解読が、進んでゆく。