すっかり空になったグラスがカウンターに置かれる。最初は驚くほど青白かった男性の頬も、今はすっかり赤みを帯びていた。単純に温まったのもあるだろうし、酔いが回ったのもあるだろう。エッグノッグのアルコール度数はカクテルとしてはさほど高いものではないが、それでも酒に慣れていないものが飲めば立ちどころに酔ってしまう程度の度数がある。
「あたたかくて、おいしかったです。ありがとうございます」
そう、どこか舌足らずな調子で言う男性は、やはり「死んでいる」ようには見えないのだが、生きている人間の体を借りているというならば、それも当然か。
男性は改めてぐるりと店内を見渡して、それから僕の方に顔を戻した。ただ、視線はやや下を向いていて、僕と目を合わせようとはしない。
「こちらは、お酒の、お店ですか」
「ええ。当店は、お客様に様々なお酒を提供しております。お酒同士、あるいはお酒と他の材料を混ぜて作るカクテルを提供しています」
本当は洋酒単体でも出せるのだが、この男性客にはこの程度の説明が相応しいと判断した。男性は「カクテル」と僕の言葉を繰り返して、両手を添えたままであった空のグラスを見下ろす。
「これも、カクテルなんですね」
「その通りです」
「あ、でも、お店ってことは、お金が必要、ですよね」
言いながら、男性がますます俯いていく。「俺、お金持ってなくて……」と呟く声はもはや蚊の鳴くような響きで、聞き取ることが難しかったくらいだ。
なるべく男性を脅かさないように、意識して穏やかな声を作ろうと心がける。どうも僕はそのまま喋ろうとすると、かなり硬い喋り方になってしまうようだから。
「こちらのエッグノッグは、私からのサービスですのでお気になさらず」
このバーにおける本来のルールからは逸脱しているのかもしれないが、明らかに弱り果てていた相手をあの冷たい豪雨の中に追い返すような真似はしたくなかった。
それに、そもそも金銭に関わる心配は無用ともいえる。
「また、当店――バー『マザー・グース』は、お金ではなく『物語』と引き換えにお酒を作ります」
「ものがたり……?」
「 『あなたの物語と引き換えに、一杯のカクテルを』。どのようなお話でも構いません。あなた自身のささやかなお話でも、あなたがよく知る誰かのお話でも、あなたの想像から生まれたお話でも。あなたの言葉で語る物語に応じて、私が相応しいカクテルを提供する、そういう仕組みになっています」
この夜が始まってから何度も繰り返していることなので、そろそろ言うべきことも即座に組み立てられるようになってきた。この客は、決まった言い回しをするよりも、噛み砕いた方が伝わりやすいような気がしたため、今までより少しだけ言葉を選んだが。
男性は俯いたままであったが、やがて、問いを投げかけてくる。
「つまり、俺が、何かを話すと、カクテルを作ってもらえる、ってことですか」
「はい。あなたのお話に応じて、新たにひとつ、カクテルをお作りいたしましょう」
「面白いですね」
男性は少し顔を上げて、眼鏡の下で目を瞬かせた。長い睫毛が柔らかな灯りに照らされて影を落としている。しばしの躊躇いの後、男性は意を決したかのように、僕を見た。今度はきちんと目が合った。
「それじゃあ、俺の話、聞いてもらっても、いいですか」
「もちろんです」
言いながら、一つ断りを入れてその手元から空のグラスを取り上げて、改めて男性と向き合う。男性は瞼を半ば伏せて、ぽつり、と言葉を落とす。
「俺、子供の頃に、死んでるんです」
思わず息を飲む。もし、魔女の男から何も聞かされていなかったら、この言葉を素直に飲み込むことは難しかったに違いない。だが、男性自身よりも先に魔女の男がそれを看破していた以上は、「言葉通り」だということなのだろう。
とはいえ、いくらあらかじめ聞かされていたからといって、納得できるかどうかは別だ。故に、話を遮ることになってはしまうが、一つ、問いを投げかけてみる。
「死んでいると言いましたが、あなたは、今、ここにいらっしゃいますよね?」
「俺は幽霊で、それで、この体に、取りついている……、というか、離れられないんです」
「離れられない……?」
「普段は、この体の本当の持ち主が、起きてるときも、寝てるときも、この体を使ってます。俺はずっと、近くでそれを見てるような感じ、と言えばいいのかな」
いわゆる「背後霊」みたいなものだろうか。そもそも僕はありとあらゆる霊というものを素直に信じられない性質のため、ひとまず男性の言葉を「そういうもの」と思うしかないのだが。魔法も魔女もいるのだから、今更幽霊が出てきてもおかしくはない――とも思いながら、僕はどうしても「死後の存在」については懐疑的であり続けている。
そんなことを考えているうちに、随分難しい顔になっていたのかもしれない。僕の顔を伺う男性が何を勘違いしたのか慌てた様子で「あっ、でもっ」と上ずった声を上げる。
「別に、この体を乗っ取りたいとか、そういうのじゃないんです。羨ましい、と思うことはありますけど、仮に逆の立場でも、俺はきっと、この体の持ち主みたいに、上手くは生きていけなかった」
上手くは、生きていけなかった。
そこに滲む諦めは、幼さを感じさせる物言いに反して、恐ろしく重たく深いものに感じられた。あるいは、ずっと昔に自分自身の時間を止めざるを得なかった彼が、ただ「見ているだけ」の時間を過ごした結果、ということなのかもしれない。
男性は、自分の言葉を振り払うように首を振って、それから言葉を続ける。
「だから、ただ、見てるだけだった、はずなんです。それだけでよかったんです」
「しかし、今、あなたはこうして、私の前にいるわけですね」
この状況は、どうやら、この男性にとっても例外的な出来事であるようで、「どうしてこうなったのか、俺にもわかんないんです」とぽつりと言った。
「いつも通りにこの体の持ち主を眺めてたら、ぐらりと、視界が揺らいだのは覚えてます。それで、気づいたら俺がこの体に乗り移ってて」
そして、辺りは風景もろくに見えない冷たい雨に包まれていたのだと、いう。
「寒いし冷たいし、何より怖くて闇雲に走ってたら、扉を見つけて」
時空の狭間に揺蕩っていて、決まった場所に扉を持たないはずのこの店に辿りついた、ということか。
「なるほど……」
ぐらりと視界が揺らぐ感覚。それは、先ほど僕も感じたものだ。同じものかどうかはわからないが、無関係ではないのかもしれない。魔女の男に言わせてみると、バーの魔法と魔女の魔法とが混線した結果、奇妙な現象が起きてしまった、とのことだから。
「この体、返してあげなきゃ。きっと、困ってると思うんです」
――でも、声をかけても、何をしても、持ち主の気配がしなくて。
そう呟く男性は、酷く不安げな顔をしていた。
彼自身が語った通り、この肉体の本来の持ち主の気配が失われたことで、その肉体を乗っ取り生者に成り代わろう、などという気持ちはまるで無いようで、どうやら想像よりもずっと穏やかな「死者」であるらしい。魔女の男が「大人しい」と称したのも、あながち間違っていなかったということだろう。
しかし、どうすれば彼の問題は解決するのだろうか。本来の持ち主の気配を失い、抜け殻になってしまったかのような肉体。そこに入り込んだ、本来は「そばにいる」だけだった幽霊。
すると、横から不意に声がした。
「中身、完全に気配が消えてるってわけじゃないみたいよ。ただ、別の場所にいるっぽい」
と言ったのは、今まで黙って僕らの会話を聞いていた魔女の男だった。片手でチャイナ・ブルーのグラスを傾けながら、もう片方の手の人差し指でカウンターをなぞっている。
「わかるの、ですか」
「ええ。あんたが協力してくれればもっとはっきりわかるし、連れ戻せると思う。手を貸してもらっていいかしら?」
その問いかけに、男性はこくりと頷いた。魔女の男は「オーケイ」と尖った歯を見せて笑み、男性の隣の席に移動しながら僕の方を見やる。
「その間に、何か一杯作ってあげたらどう?」
「そうですね」
なんだか完全に店のヌシみたいになっていないか、この男。とはいえ、その言葉を否定する理由もなかったから、僕はグラスを手に取る。
話を聞いているうちに、何を作るのかは決めていた。
棚から取り上げるのは鮮やかな緑のグリーン・ミント・リキュール、それから透明なホワイト・カカオ・リキュール。そして、冷蔵庫に入っていた液状の生クリーム。
本当はもう少しアルコール度数の高いカクテルを出してもよかったのだが、きっと、この――今は亡き少年には、このような味わいが似合うだろうと思ったから。
氷とそれぞれのリキュール、そして生クリームをシェイカーに入れて、両手で持つ。その間に、魔女と男性の間では何らかのやり取り、あるいは儀式が行われているらしい。その儀式を横目に、僕もまた一つの儀式としてシェイカーを振る。
男性の目が魔女の男からこちらへと向けられる。驚いたような面持ちは、すぐに楽しげなものに。シェイクの動作とそれによって奏でられる音色は、確かに初めて見るならば意識を引くものだろう。
今回は生クリームも入っているため、他のカクテルの時よりもしっかりとシェイクし、シェイカーの蓋を開いてカクテルグラスに淡い緑色となった液体を注いでいく。
「お待たせしました、グラスホッパーになります」
コースターを添えて差し出せば、男性は「ありがとうございます」と微笑んでグラスを持ち上げて口をつける。一口飲んだところで、少し不思議そうな顔で言う。
「……、なんだか、知ってるような、味です」
「そうですね、チョコミントアイスの味、とおっしゃる方が多いです」
ミントとチョコレートのリキュールを使っている上に、生クリームで乳成分を加えているのだ、そう感じられるのももっともだろう。
「そっか、ご褒美に、買ってもらったアイス……」
ぽつりと零された呟きに、僕は言葉を差しはさまない。彼にどのような事情があるか、僕にはわからない。何故幼いころに命を失わなければならなかったのかも。そして、今までどうしてこの体の持ち主から離れられなかったのかも。
わからないままでも、この時間を共に過ごすことはできるし、話を聞き届けることはできるし、――カクテルを、提供することだってできるのだ。
それは、きっと、今ここにいる僕にしかできないことなのだ。いつしか、そんな風に思うようになっていた。
マザー・グースの長すぎる一夜