マザー・グースの長すぎる一夜

14:浮き輪

 今までの賑やかさが嘘のように黙り込んで、グラスを片手に真剣な面持ちで指先でカウンターに何かを描いている――何らかの魔法を行使しているのかもしれないが、僕には何をしているのかさっぱりわからない――魔女の男を見ていると、ドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
 声をかけながら扉の方に視線を向けると、そこにはどこかぼんやりとした面持ちをした、眼鏡をかけた男性が立っていた。口元を覆っている白いマスクを下げて、「ええと」と少し躊躇いがちに口を開く。
「こちらは、バー『マザー・グース』でよろしかったでしょうか」
 はい、と僕が頷けば、男性はほっとしたようにわずかに息をついた。
 年齢の頃は三十代に入るか入らないか、くらいだろうか。身長は僕よりも高いだろうが、痩せて見える。Tシャツの上に薄手の上着を羽織って細身のジーンズを穿いており、先ほどの刑事のように服装から素性を想定するのは難しそうだ。ただ、切りそろえられた髪や、どこか落ち着きのない視線、引き結ばれた唇から、どこか神経質そうな人物だとは思う。
 そこまで考えてみてから、どうにも、僕は相手を観察し、分析しようとする癖があるらしいと気づく。悪い癖かもしれないな、と思いながらも、可能な限り僕自身が思うバーテンダーらしい態度を取り繕う。
「お好きな席へどうぞ」
「ありがとうございます」
 男性は入口から一つ置いた椅子に腰かけ、それから改めて店内を見渡す。
「話には聞いていましたが、素敵なお店ですね」
「ありがとうございます。……お客様は、当店をご存じなのですね」
 壁に飾られている空飛ぶ鯨の絵を眺めてていた男性は、こちらを振り向きざま、ええ、とほんの少しだけ口角を上げた。微笑もうとしたのかもしれなかった。
「 『あなたの物語と引き換えに、一杯のカクテルを』。そういうお店であると、伺っています」
 案外、このバーの存在は知られているのだろうか、あるいは「知っているから辿り着いた」ということなのかもしれない。何しろこのバーは、今や時空の狭間に浮かんでいるような状態で、客がこの店を訪れることができるのは、どこまでも「縁」によるものらしいから。
 男性は僕に眼鏡越しの視線を向けて言う。
「しかし、その……、『あなたの物語』というのは、どのようなお話でも構わないのですか?」
「はい。あなた自身のお話でも、どなたかのお話でも、もちろん、作り話でも。その物語に応じた一杯を提供いたします」
 そろそろ決まり文句と化してきた文言を述べると、「そうですか」と男性は虚空に視線を彷徨わせて、少し考えるような素振りを見せてから、カウンターの上で指を組んで言う。
「では、私がここに来た理由でも?」
「それは、むしろお聞かせいただけると、私も嬉しいですね」
「よかったです。……あと、本日はこちらのオーナーの女性はいらっしゃらないのですね。できれば、ご挨拶とお礼をさせていただければと思ったのですが」
 ――オーナーの、女性?
 思わず唾を飲み込んでしまったが、バーテンダーの僕がオーナーの存在を知らないのは客からしたらおかしな話であり、故にその驚きは喉の奥に押し込んで、当たり障りない回答を模索する。
「いえ、本日は不在でして。もし何かありましたら、言付けを預かりますが」
 預かったところで、伝えられるかどうかもわからないのだが。何しろ僕は「オーナー」あるいは「マスター」、つまりこのバーを形作っている魔女のことも、何も知らないのだから。
 ただ、今の男性の物言いからすると、どうも女性であることは確からしい。「魔女」という言葉が「女性」を必ずしも表さないことは、奥の席で……いつの間にか手を止めて客と僕との会話を伺っている魔女の男が証明していたから。
 男性は一つ頷いてみせると、ぽつぽつと語り出す。
「では、この前、別のバーで偶然お話させていただいた者であることと、お話を聞いていただけたことへの感謝を、お伝えいただけますか」
「別のお店で、うちのオーナーとお会いしていたのですね」
「ええ、実は、ここに来た理由が、こちらのオーナーにここの存在を教えていただけたから、でして」
 とある夜、男性は普段は足を踏み入れないような職場近くのバーにふらりと立ち寄り、そこで偶然隣席になったオーナーと意気投合したのだという。
「普段は、お酒を飲もう、ともほとんど思わなくて。飲めないわけではないのですが、人に誘われたり、職場の飲み会であったりと、機会がなければ飲まない性質でして」
 僕の実感としても、普段から酒を飲むという習慣がある人は徐々に減ってきているような気がする。僕は……、どうだっただろうか、何故かそんな実感だけはあるのに、変わらず「僕がどうだったか」についての記憶ばかりがすっかり欠け落ちている。こんな仕事をしているし、先ほどから飲み続けている感じでも、酒に強いのは間違いなさそうだが。
「けれど、そうですね、むしゃくしゃしていたんです。心無い言葉をかけられたり、何もかもが裏目に出てしまったり、普段は笑っていなせるようなことが、どうしても胸に引っかかってしまったり」
 いわゆる「厄日」というやつだろうな、と思う。別に僕は言葉通りに「厄」があるとは思っていないのだが、しかし一度でも引っかかってしまうと、不思議と悪いことが重なってしまう。あるいは悪いことを感じ取るアンテナが妙に敏感になってしまう、そういう日は間違いなくある。
「今までも、ちょくちょく嫌なことはあるにはあったんですが、でも変わらずやってこれたんです。……でも、その日に限って、気の重くなることが重なってしまって。だから、今日ばかりは酒の力でも借りたい、と思ってバーに立ち寄って……、そこで、その人に出会ったんです」
 先に座っていた「マザー・グース」のオーナーは、親しげに、しかし決して踏み込まれたくない領域には踏み込んでこない、絶妙な語り口で男性に語り掛けてきたのだという。そして、男性はその語り口に引き込まれるように、自分のことと、自分が抱えている悩みを彼女に断片的にこぼしたのだという。
「普段は、それこそ、親しい知り合いにも話さないようなことまで、話してしまったんですよね。話してもいいと……、不思議と、思えてしまった、というか」
「親しければ親しいほど、逆に伝えづらいこともありますからね」
 思わず口をついて出てしまった言葉に、しかし男性は不愉快には思わなかったらしく、わずかに首を傾げて問いかけてくる。
「バーテンダーさんも、そのような経験がありますか?」
 男性の問いに、僕はどういう表情を浮かべただろう。何しろ僕は僕自身の顔を見ることはできないのだ。しかし、おそらく……、冴えない顔をしていたに違いない。僕にそんな経験の記憶はない、なのに、胸の奥に、やるせない気持ちが澱んでいるのが、わかってしまったから。
 その澱みの出所を確かめることもできないまま、男性は僕の返事を待たずに――あるいは、僕の表情を「答え」として――話を続ける。
「つまらない話だったと思います。しかし、その人は私の話を真剣に聞いてくれました。時には問いを投げかけながら、しかし決して僕が不愉快になるような言葉は差しはさまないで。……きっと、話を聞くことに慣れている方なんでしょうね」
 それは、まさしく「 『語り』を蒐集する」魔女らしい態度といえよう。人から話を引き出すこと、聞き取ること、それが当たり前のように身についている者特有の所作だ。僕には決して真似できそうにない。
「話せば話すほど、私自身の抱えていたもやもやとしたものが、明白な問題点として映るようになってきました。そして、形になった問題に、どう対応すべきか考えられるようになったのです。その人が何を言ったわけでもなく、ただ『聞いていただいた』、それだけなんですけども、私にとって、それは今までにない、とても大事な手続きでした」
「語る、ということは、己の中で語る内容を改めて思考し、選別することでもありますからね。そして、何より、『聞く相手がいる』ということが助けになるということは、私にも、わかります」
「ええ、私もそう思っています。……きっと、話すことができないままでいたら、あまりにも息苦しいままだと思いますので。ともすれば」
 ――言葉通りに、息を止めてしまいそうなほどに。
 その、酷く切実な響きに、僕は何も言えなくなる。もしも、かの出会いがなければ、きっとこの男性はここにはいないのだ。「どこにもいない」と言い換えてもよかったかもしれない。誰にも自分の胸の内を明かすことのないまま、自分自身の澱みの中に飲み込まれて、二度と戻ってこなかったということ。
 その手を握って引き上げた――というよりも、彼自身が己の力で浮かび上がれるように、救命浮環を投げかけたのが、ここのオーナーだったということだろう。投げかけた浮環を掴む意志が彼になければ、そのまま沈むのを眺めていただけだろう、オーナーのことを何一つ思い出せない僕の中に、そんな不思議な確信が生まれる。
 僕が益体もない想像を広げている間にも、男性は口元にうっすらと笑みを浮かべながら続ける。
「なので、聞き届けていただいたことに、感謝をお伝えしたくて。⁠その場でも感謝の言葉を伝えはしたはずなのですが、恥ずかしながら私もすっかり酔っておりまして、細部を思い出すのが難しくて。ただ、このお店を教えていただいたことは、覚えていたので」
 そう言って、男性がポケットから取り出してカウンターに置いたのは、一枚の名刺サイズのカードだった。厚手のクラフト紙に印刷されているのは、魔女のような帽子をかぶった鳥と、三日月を浸したカクテルグラスのモチーフ、そして、僕にもかろうじて読める、「バー『マザー・グース』 」の文字列。
「今日、お会いできなかったのは残念ですが、来られてよかったです。……一杯、いただいても?」
「もちろんです。アルコールは弱めの方がよろしいですかね」
「そうですね。今日は、きちんと覚えたまま帰りたいので」
 それならば、と手に取るのはウォッカの瓶。それから、よく冷えたパイナップル・ジュースとクランベリー・ジュース。この三つを氷で満たしたコリンズ・グラスに注ぎ、バースプーンでかき混ぜる。
 そうして出来上がったカクテルを、コースターを添えて差し出せば「ありがとうございます」と男性が細長いグラスを見つめ、それから僕に視線を戻す。
「こちらは、何というカクテルなのですか?」
「ベイ・ブリーズです」
 潮風、の名を持つカクテルは、どこか夕暮れのような色合いを持ちながら、フルーティで瑞々しい。ジュースの割合が多いため、アルコール度数はカクテルの中では低めで、飲みやすい部類のものであるといえる。
 どうか、これからのあなたの行く先に、よき風が吹きますように。
 言葉にはしない僕の願いを、果たして男性は受け取ったのだろうか。もう一度、グラスの中の液体を見つめたのち、グラスを手に取って一口含んで――。
「おいしいです」
 柔らかな声で、そう告げた。