マザー・グースの長すぎる一夜

13:牙

 一瞬前までのテンションの高さが嘘のように、しょんぼりとレインボー――だったものを吸う魔女の男をよそに、僕は出した瓶を元の場所に戻し、飲み終わったグラスを洗ってこれもあるべき場所に。
 それから、次の客が来るまでに、先ほどのとんがり帽子の魔女が持ち込んできたガラクタたちも一旦カウンターの裏にしまう。……これ、どうしようかな。無事、朝が来て、バーから出られる算段がついたら考えることにしよう。
 相変わらず夜が明ける気配はなく、扉を開いてみる気も起きない。あの「何もない」空間を直視するのは、どうにも心に悪い。
 けれど、一体どうすれば夜が明けるのかは、未だにわからない。あるいは……。
「そういえば、この異常事態の解析は……、できそう、ですか?」
 魔女の男は、魔法の解読を進めると言っていたが、何しろずっと楽しそうにカクテルを飲んだり、僕ややってきた客と喋ったりしているものだから、本当に言葉通りに解析をしてくれているのか疑問が残る……、と思っていたのだが。
 男はストローから口を離し、「うーん」と唸りながら頬杖をつく。
「即席で組んだ分析魔法を走らせてはみてるんだけど、何か妙にちぐはぐなのは伝わってくるけど、その『ちぐはぐさ』の詳細がまだわからないのよね」
「ええと、魔法を走らせる、というのは?」
「細かい操作が必要な魔法はともかく、こういう『でっかいものを隅から隅まで決まった手順で分析して結果を返す』、みたいな、特定パターンを延々と繰り返すような魔法は、自動化した方が楽なのよ。アタシがこうやってあんたと喋ってられるのも、この間にもアタシが組んだ魔法が自動で走ってるからってこと」
 そう言って、とっくに元の色を留めていないレインボーをもう一口啜る男。あれ、どんな味がするんだろうな、と思いながら、男の話に対する率直な感想を言葉にする。
「魔法、というには、妙にシステマチックですね。コンピューターを相手にしている、ような」
「ああ、それそれ。アタシ、人間だったころはシステムエンジニアだったからね。そういう考え方で捉えるのが一番楽なの」
 さらりと言葉にされる「人間だったころ」という言葉に、今更ながらにぞっとする。要するに、目の前の男は、人間の姿こそしているし、人間としての歴史を持っているが、今は人間ではない別のものとして存在している、と言っているのだ。
 人間としてのこの人物は、自身が魔女となった時点で死んだことになっているのだろうか、それとも――。そんな僕の動揺を知ってか知らずか、男はストローでグラスの中をかき混ぜながら目を細める。
「さっきも言った通り、アタシの魔法は『人間らしい』魔法だからこそ、あんたにも説明ができちゃうんだけどね。ほとんどの魔法はこんなわかりやすくはないわ、だから分析も難しい」
「でも、分析を試しているということは、不可能ではないんですね」
「ここに既に『ある』以上は、全く手がかりがない、ってわけじゃないからね」
 これも先ほどこの男自身が言っていた通り、ゼロであるものに対しては手も足も出ないが、既に存在するイチに対してはそれなりに干渉が可能である、という性質と関わっているのだろうな、と推測する。魔法というものの出所はさっぱりわからないが、少なくともこの男の魔法は僕にもある程度解釈が可能なものであるらしい。
「ただ、ちぐはぐってことは、誰かが干渉してるのかもしれないわね。このバーの主である魔女、本物のマスター以外の何者かが」
「干渉……、ですか?」
「そう。心当たり、何かないかしら」
 心当たりと言われても困る。何しろ、僕は目が覚めたときにはこのバーにいて、その時にはもう何も覚えていなかったのだから。その後すぐにこの男が現れて、今の今まで何となくバーテンダーの役割をこなしていて……。
 けれど、そういえば――。
 
 
 
 僕は、出した瓶を片付けようと手を伸ばす。ブランデーと、ホワイト・ペパーミント・リキュール。
 わずかな違和感、だがその違和感が何なのかもわからないまま、ブランデーの瓶を手に取ったところで、突然、男が「うわっ」と声を上げて思わずそちらに目をやる。
 見れば、男の手の甲から血が滴ってカウンターに落ちていた。ぽた、ぽたと垂れるそれは、人間を辞めた存在であっても僕と同じで赤いのだな、と、つい不謹慎なことを頭の片隅で考えながらも、「大丈夫ですか?」と声をかける。
 すると、男はぱっと顔を上げて僕を睨む。
「やられた! 向こうさんもアタシが探ると見て、罠仕掛けてたわね……!」
「罠、ですか?」
「このバーに何らかの魔法がかけられるのをキーに、魔法の術者に害をなす、そういう罠。すぐ引っ込めたからこの程度で済んだけど、判断遅れたら半分くらい持ってかれてたかも」
 半分、というのは……、つまり、体の半分ってことだろうか。その想像が正しければ、店内はとんでもなく凄惨なことになっていただろう。何しろ、「すぐ引っ込めた」はずの男の手の傷だって存外深そうで、血が止まる様子がないのだから。
「止血をした方がよいのでは」
「大丈夫、この程度なら治せるから。……あ、でも布巾はちょうだい、カウンター汚しちゃったし、このままだとお客さんもお迎えできないでしょ」
 そっちは魔法で何とかできないのか、と思いながら、カウンター越しに濡れた布巾を渡す。男は布巾で一旦傷口を拭う。傷口は、複数の尖ったものが突き刺さったような痕跡で、何かに噛みつかれたかのようだ。
 言葉通りに、男の手の傷は血を拭った後は見る間に塞がっていく。ただ、牙のような痕跡は痛々しく肌に残ってしまっている。しかし、構わず男は布巾でカウンターの血を拭きとりながら言う。
「しっかし、分析しようとしただけで妨害を受けたってことは、このバーの異常事態を『解決してほしくない』奴がいるってことよね」
「それが、さっきの……、干渉している誰か、ということですか」
「そうだと思う。悪趣味だわ、他人の魔法に介入したあげく、罠まで仕掛けるなんて。犯人のツラを拝みたいもんだわ」
 頬を膨らませた男が血まみれの布巾を返してくるので、改めて新しい布巾を渡す。血まみれの方は、とりあえずざっと水にさらして、別の場所に置いておく。流石にこれを改めて使う気にはなれなかったから。
「でも、解決してほしくない、ということは、僕らは永遠にこのまま、ということですか」
「そうはさせないわよ! やられっぱなしなのも腹立つしね。魔法の専門家たるアタシにどーんと任せなさいって」
 男が胸を張り、傷跡こそ残っているが傷自体は完全に塞がったらしい手でグラスを取り……、「あ」とそのグラスを見てさらに嫌な顔をする。
「ねえ、あんた、これ出した記憶ある?」
 と、男が僕にカクテルグラス、、、、、、、を示す。
 一瞬その言葉の意味がわからなくてぽかんとしたが、そう、そうだ、僕の記憶が正しければ、男はついさっきまでリキュールグラス、、、、、、、、の中のレインボーを飲んでいたはずで、それが、カクテルグラスにすり替わっている上に、その中身が琥珀色の液体で満たされていたのだった。
「いいえ、……記憶に、ないです」
 出した記憶のないカクテル――、だが、置かれていたボトルがブランデーとホワイト・ペパーミント・リキュールの二つだったということは、スティンガーと考えてよさそうだ。名前の意味は「刺すもの」、つまりは「針」、特に生物学的には「毒針」を意味する。
 男は、カクテルグラスの中身を一口飲んでから、溜息交じりに言う。
「多分、だけど、あんたとアタシの間で、この状況に干渉してる何者かにとって不都合なやり取りがあったのかも。それを忘れさせるために、ほんの少しだけ時間を消し飛ばされてるかもしれないわ」
「……そんなこと、可能なのですか」
「言ったでしょ、このバー自体が魔法の産物であり、時空の狭間に位置してて、特定の時間や場所に属さない空間なのよ。だから、ひとたび介入に成功すれば、時間を少しくらい弄ることも……、不可能じゃないんだと思う」
 不可能じゃないと思う、という言い方をしているということは、この男には無理なのかもしれない。男自身が言っていた通り、どうやらこの魔女の魔法は、結構限定的なものらしいから。
 ……しかし、そんなとんでもない存在を相手取って、僕らは一体どう抵抗すればいいんだ? 打開するきっかけになりそうだった会話そのものも思い出せなくなってしまった今、僕は、見えない何者かの毒針の気配を、感じずにはいられなかった。