しかし、魔女の男はそんな空気をさっぱり読まずに、高らかに「マスター!」と僕を呼んだ。見れば、両手を合わせて、きらきらとした――あるいは「ぎらぎらとした」の方が正しいかもしれない――目で僕を見上げてくる。
「今思い出したんだけど、アタシあれ見たいと思ってたの! レインボー!」
それから、一拍置いて、くしゃりと苦笑した。
「めちゃくちゃヤな顔するじゃないの、あんた」
「すみません」
一応はお客様相手なので、なるべく嫌な顔をしないように心がけたつもりだったが、完全に顔に出てしまっていたようだ。
「でも、せっかくバーテンダーのいるバーに来たなら、一度見てみたくてさぁ」
男の言いたいことはよくわかる。僕だって客の立場ならば一目見てみたいと思うのだから。レインボーとは
とは、いえ――。
瓶の並ぶ棚に目をやり、少しばかり考えてみる。脳内のレシピに対して、必要な酒とシロップは揃っている。相応しいリキュール・グラスがあるのもわかっている。不可能ではない、ということが確認できた上で、魔女の男の要望を叶えようとするならば……。
「率直に言えば、お客様にお出しできるものを作れる自信がないので、練習でよければ。お代も必要ありません」
もう少し正確に言えば、僕の腕ではお代を取れるようなものではないのだ。そもそも、これを作れるバーテンダーがいるバーもどんどん減っているはずで、その程度に手に余るレシピだといえる。これらの知識がどこから来たのかは、一向に思い出せないままだが。
「やっぱ難しいのね……。じゃあ、それでお願いしてもいいかしら?」
笑みを浮かべる男に、かしこまりました、と形だけでもバーテンダーらしい返事をする。どうにも、この男相手に今更「バーテンダーと客」としての態度を徹底するのも馬鹿らしくなりつつあったので、本当に形だけ。何しろ、この魔女だって本当に自分のことを「客」だと思っているかというと、ちょっと怪しいくらいなのだから。
さて、見たいと頼まれたからには練習とはいえ、あるいは練習だからこそ真面目に取り組むべきだろう。
レインボーとは、食後に供するプース・カフェ・スタイルのカクテルの中でも、「見て楽しむ」ことを主目的としたカクテルだ。その名の通り七つの要素が必要であり、棚に並べられている瓶から必要なものを取り上げる。ブランデーにグレナデン・シロップ、それからアニゼット、グリーン・ペパーミント・リキュール、パルフェ・タムール、ブルー・キュラソー、シャルトリューズ・ヴェールという五つのリキュール。レシピは店によってまるで異なるというが、どうやら僕はこの七つで作るようにしているようだ、と、瓶を並べてみてから思う。
どうしてこうもスムーズにレシピを思い出せるのか、未だにその理由も明らかになっていないが、その上で今回はいつも以上にレシピを「覚えている」だけではどうにもならないことはわかりきっている。
リキュール・グラスを置く。そして、まずはグレナデン・シロップを注ぐ。赤いシロップが、グラスの底に一つ目の層を作る。続けて、添えたバースプーンを伝わせる形で、ゆっくりと、慎重に、アニゼットを注いで二つ目の層を作る。
……そう、レインボーは、グラスの中に七つの色の層を作っていくカクテルだ。
液体の比重は、酒やシロップそれぞれで異なる。基本的にシロップが重く、蒸留酒が軽い。今回の場合はグレナデン・シロップを最初、ブランデーを最後に注ぐことで、層を維持することができるという仕組みになる。
その間の層を形成するリキュールは本当にそれぞれなのだが、とにかく比重が「異なる」ということが重要だ。レシピが店によって異なるのも、それぞれの層を混ざり合わずに維持し、なおかつ美しい色合いの「虹」を作るためのリキュールの選び方が異なるということに他ならない。
同じ種類のリキュールでも、製造元によって比重が変わってくるというのもあり、一概に「これ」と言えない、というのも難しいところだ。
そして、適切なリキュールの選定ができても、それぞれを層の形にするには丁寧に、落ち着いて、グラスの中に注いでいかなければならない。少しでも勢いよく注いでしまえば、その一滴が下の層との境界線を破ってしまい、そこから見る間に混ざり合ってしまう。
三層目はグリーン・ペパーミント・リキュール、四層目がパルフェ・タムール。少しずつ、ゆっくりと、しかし確かに層を積み重ねていく。今のところは、層を崩さずにいられている。
ちなみに、レインボーはこのような性質上、決して「美味しい」とはいえないカクテルである。何せ、美しい層を作るためだけに選定されたリキュールである、混ぜてどういう味になるのかなど、全く考慮されていない。飲む際には、かき混ぜて一気に飲んでしまう、あるいは細いストローを添えて一層ずつ飲んでもらう、というのが前提になる。
五層目、ブルー・キュラソー。青々とした色味を得て、グラスの中が虹らしくなってきた。僕が集中しているのを察しているのか、何だかんだ黙ってくれている男の、熱い視線を感じる。
六層目がシャルトリューズ・ヴェール。グリーン・ペパーミント・リキュールとは異なる淡い緑色をした、ハーブを中心としたリキュールだ。これに対して、黄色く蜂蜜の甘みを持つシャルトリューズ・ジョーヌと併用するレシピもあったはずだが、今回はヴェールのみ使用する。
最後に、ブランデーを、グラスの縁近くまで、慎重に注ぎ入れて……。
「できたじゃない!」
男が歓声を上げる。顔を上げてみれば、満面の笑みで手を叩いている。もしかして僕より喜んでいないか?
上手くできる自信がなかったので「練習」としてみたが、意外とやればできるものだな、と思う。レシピと動きを覚えていても他のカクテルに比べてまるで自信が湧いてこなかった辺り、おそらく、記憶があったとしても百パーセントの成功率じゃないのだろう。実際のパーセンテージは今の僕にはわからないが。
コースターと、あと細いストローを添えて、男の前にそろりとグラスを置く。せっかく作ってもまかり間違えば飲む前に虹の層を失ってしまうのだから、僕がそこでミスをするわけにはいかない。
かくして、差し出された虹の入ったグラスを前に、男があちこちからグラスを眺めまわす。
「すごいすごい、理論はわかるけどやっぱ実際に見るのとは違うわね! きれーい!」
「気に入っていただけたならよかったです。飲まれる際は、こちらのストローで、一層ずつ飲んでいくことをお勧めします」
「なるほど、それじゃあ早速……、あっ」
男の手が滑って、勢いよく差し込まれるストロー。その一点からたちどころに混ざっていく、色。
男が、「どうにかならないか」という目で僕を見上げてくるが、そんな目で見られても困る。僕はあなたと違って魔女じゃないんだ。
もちろんすべてのカクテルは「飲まれる」ことで完成するとはいえ、一瞬で消え去ってしまったグラスの中の虹に、ちょっとした勿体なさを抱いてしまったのは、僕だって同じなのだから。