マザー・グースの長すぎる一夜

11:蝶番

 ドアが完全に閉じ、ドアベルの音も消え、店内は再び穏やかな時間を取り戻す。……わけだが。
「あのお客様、無事なのでしょうか」
 明らかに、「風に連れ去られた」ようにしか見えなかった。一瞬静かになったのも、とんがり帽子の客を扉に誘うものだったに違いない。
 しかし、アースクエイクをゆっくり舐めている魔女の男は、まるで動じずに言う。
「ご同輩には日常茶飯事。魔女って、あんたが思ってるよりずっとタフだから心配無用よ」
「はあ……」
 相変わらず、魔女の男の言葉には「大先輩」たる魔女を敬うような気配が全く見えない。いや、そういう類の人徳があのとんがり帽子の魔女にはあると、今、この場で顔を合わせただけの僕も無闇に確信してはいるが。
 ……ただ、そう。
「あのお客様、僕のことを、知っていそうでしたね」
 あのとんがり帽子の魔女は僕を見て「今日は、、、バーテンダー」と言っていたし、僕がシェイカーを振っている姿を見て、「思ったよりずっと様になってる」という感想を漏らしてもいた。
 つまり、あの魔女が知っているのは「バーテンダーではない僕」だったのではないか。とはいえ、僕自身についての記憶が未だに何一つ思い出せない以上、バーテンダーでなければ一体何なのか、全く想像もつかないのだが。
 魔女の男は「そうねえ」とグラスを一旦コースターの上に置き、節くれだった指を組む。
「魔女って生き物は、縁を伝って渡り歩くものだからね。かのご同輩は、あんたとの縁に導かれてここに来たのかもね」
 そういえば、この男がバーを訪れた理由――そして、この男にバーの主人宛の手紙を預けた人物が、このバーの扉を見つけられない理由も、「縁」と言っていたことを思い出す。
「縁……、というのは、言葉通りと捉えても?」
「ええ、ほとんど一般的な意味の通りに考えてもらっていいわ。めぐりあわせ、結びつき、そういうもの」
 組んだ指が、まさしく「結びつき」を示しているかのように。男は己の指をくっつけたり、離したりを繰り返しながら言う。
「あんたは今宵、このバーに立っている。あんたにとっては、『この世界』が全て。でも、実際には、あんたから観測できないだけで、遥かに多くの世界がある……、って言って、あんたは納得してくれるかしら」
「……例えば、並行世界、などですか」
 並行世界。パラレルワールド。サイエンス・フィクションの領域ではあるが、人は常に「もしも」を考える生き物でもある。
「僕が観測できるのは僕が選択した結果に限られますが、僕が別の道を選択した場合の世界というものも、別に存在し得る。そして、選択が常に何者かによって行われている以上、並行世界は爆発的に増え続ける……」
「ふふ、意外と頭柔らかいのね。もちろん世界についての解釈は『それだけ』じゃないんだけど、でも、それも答えの一つ」
 男は歯を見せて、にっこりと――顔立ちのせいか、他意はないんだろうがかなり邪悪な笑みになっている――微笑み、言葉を続ける。
「で、魔女の中には、この無数の世界を自由に渡り歩くやつもいるわけ。アタシがその一人、あのご同輩もその一人」
 そんなことができるのか、という問いかけは、もはやこの「魔女」と呼ばれる連中には無意味だということがわかりつつあるので、そういうものなのだ、と思うことにする。
 その上で、男が「無数の世界」と言い置いたということは、おそらく、だが。
「その無数の世界を渡り歩く際のコンパスとして、縁という概念があるということですか。そうでなければ、二度と同じ場所に戻ることもできなければ、誰かに会いに行くこともできない」
「よくできました。アタシたち魔女は縁を伝って旅をする。意識的にも、無意識的にもね。アタシたち自身にもはっきり知覚できてるわけじゃない、でも、今まで関わった人やもの、場所に結び付いた目に見えない糸が、アタシたちを導いてるの」
 ――だから、アタシはここを見つけられたし、あのご同輩もきっと、あんたとの縁を伝ってここにやってきた。
 その論理は、あくまで彼ら魔女たちの論理で、僕がそのすべてを理解できるわけではない。ただ、人間だってそう変わらないのかもしれない。人間は社会の生き物であり、完全に「ひとり」で生きていくことは難しく、必ず何らかの縁に導かれてそこに立っている。
 今の僕は、縁に値する存在も、何一つ思い出せずにいるが。あのとんがり帽子の魔女なら何かを知っていたのかもしれないが、この様子だと、無事であってもすぐに戻ってはこないだろうな……。
 かの魔女が飲み干したグラスを片付けようとして、ふと、今更ながらに気づく。
「……忘れ物ですね」
 カウンターに並べられた、いくつかの「風の宝物」の存在に。
「そうねえ。あの風、あくまで『盗まれた』ことに怒ってただけで、案外、ものには執着してなかったのかも」
 もしこれらも一緒に取り戻すつもりであれば、あの魔女を連れ去った時に一緒に持ち替えればよかったのだから、きっと、そういうことなのだろう。「集めること」自体に快さを覚えるということも、実感としてわからなくはなかったから。
「どれもこれも、その辺のガラクタにしか見えないけど……、この箱、何かしらね」
 男の指が取り上げたのは、木製の小箱だった。表面は泥やら何やらで汚れており、蓋を留めている金具もすっかり錆びついているが、つくりはしっかりしているようで、傷はほとんど見えない。
 箱を振って音がしないことを確認し、裏返してみたり、金具を指で何度か引っかいてみたりしてから、男は首を傾げる。
「うーん、開きそうで開かないわね」
「試してみましょうか?」
「お願い」
 ひょい、と渡された箱は、重たいというほどではないが、しかし木の箱だけにしては重さがあった。中に何かが入っているのは間違いなさそうだ。錆びついた金具を何とか外し、蓋を持ち上げようとするが、何かが引っかかっている……、いや、これは内側の蝶番が錆びついている、のだろうか。
 もう少し力を込めてみると、ばき、という嫌な音がした。隙間からぱらぱらと錆とも何ともつかないものが落ちてくる。
「あっ、こーわしたこーわした」
「これは、もう仕方ないじゃないですか」
 と言いながらも、蓋は開くようになったので、恐る恐る開いてみると――。
「あら、オルゴールね」
 ピンが生えた筒に、ピンによって弾かれて音を奏でる細かな切れ込みが入った金属の板。確かに僕の知っているオルゴールそのものだ。
 ただ、それらも全て錆びついてしまっていて、ぜんまいの螺子も今にも折れてしまいそうだが……。
「これならアタシでも何とかできるかな、貸してごらんなさい」
 壊れた蝶番でかろうじて留まっている不安定な蓋を支えながら、改めて男にオルゴールを手渡す。男はオルゴールをカウンターに置くと、指の腹で木箱の縁を撫ぜてみせる。
「今一度だけ、思い出させてあげる。あんたは廻るもの、鳴り響くもの。アタシたちに、その音を聞かせてちょうだいな」
 その言葉は、この魔女による「定義」の魔法に他ならない。ゼロをイチにはできない魔法だが、元々イチであったものに対して、喪われかけていた「意味」を改めて付与する、魔法。
 男の指が螺子を回す。見た目には今にも折れてしまいそうなそれが、きりきりと力強い音を立てて、ぜんまいを巻き上げる。そして、すっかり錆びついているはずの筒が音もなく回り出し、澄んだ音を奏で始める。
 僕は、この曲を知っている……、ような気がする。題名も思い出せない、けれど酷く懐かしい旋律。瞼を閉じれば、いつか見上げた眩しい空と、そこをゆく一羽の鳥の姿が見えるような気がした。
 この音色に合わせるならば、ホワイト・ラムをベースに、アップル・ブランデーを同量、それからアプリコット・ブランデーとレモンジュースを少しずつ。ソノラ――「響き」。まさしく、その名を持つカクテルが相応しいのではないだろうか。
 今一度だけ、と定義されたオルゴールは、鳴り終えればもう二度とその音を取り戻すことはないのだろう。だから、せめて、この音色を最後まで聞き届けようと思う。
 そして、忘れたくないと、思う。