煙草をくゆらせながら、カクテルをゆっくり味わう魔女の男を眺めながら、今まで僕自身の目で見てきたこと、そして聞いてきたことを反芻する。
どうやら、魔法や魔女の存在を疑っている場合ではなさそうだ。既に不思議はいくつも発生していて、何ならこの男は己の魔法まで披露してくれている。だから、どれだけ現実味がなくとも、今はとりあえずそういうものが「ある」のだと考えることにする。
今やどこにでもあり、どこにもないらしいバー「マザー・グース」。そこに閉じ込められている形になっている僕――この魔女は多分、出ようと思えばいつだって出られるんだと思っている。ただ僕に恩を着せるためにここに残っているだけで。
そもそも、僕はこのバーにとって、どういう存在なのだろう。全くの部外者にしては、この体はバーのつくりを記憶しているから、この店に縁のある人物だと思うのだが。
それとも、この「記憶」すら誰かの魔法によって作られたものなのだろうか……?
何一つ常識が通用しない以上、考えたところで無駄だとわかっていても、ぐるぐると思考を巡らせていた、が。
突如、扉が弾けるように開いて、何者かが転がり込んでくる。いつになくやかましいドアベルの音を聞きながら、僕は思わず目を見開いていた。
「ごめん、ちょっとだけ匿って!」
そう声を上げたのは、それこそ絵に描いたような「魔女」だった。
黒いとんがり帽子に、黒いシックなドレスに先が尖った黒い靴。少しばかりもつれた長い髪も黒く、その一方で肌はびっくりするくらい白い。そんな、どこからどう見ても魔女然とした若い女性が、ぱっと顔を上げて――、真っ赤な目を瞬いて、「あ」と変な声を上げた。
「ええと、お客様……?」
またしても風変わりなお客さんだが、「匿って」というのはどういうことだろうか。こんなに息せき切って駆け込んできた以上は、何らかの訳ありなのだろうが……、と、思ったその時、轟音とともにバー全体が僅かに震えた。
「え、何よ、突然!?」
奥に座る魔女の男も驚きの声を上げたから、多分彼にも予兆の感じ取れない異変だったに違いない。しかも、轟音は一度限りではなく、ごうごうと唸りを立てながら、二度、三度とバーを震わせる。幸い、棚の瓶やグラスが落下するような衝撃ではないが、吊り下げられた照明がゆらゆら揺れた。
「ちょっとぉ、何連れてきたのよ、ご同輩!?」
男が眉をつり上げて叫べば、とんがり帽子の魔女は、「ごめーん」といたって軽い調子で両手を合わせた。やりとりを見る限り、どうもこの二人、面識はありそうだ。
「こちらのお客様、お知り合いですか? っていうか魔女のお仲間ですか」
「そうよ、同輩っつってもアタシからしたら大先輩だけど。大方、いつも通りなんか危ない橋渡って、厄介な輩に追いかけられてんでしょ。場合によってはつまみ出していいと思う」
大先輩、と言うわりには突き放した物言いだが、この男なりの「気安さ」の表れでもあるのだろうな、とも思う。「それは流石にひどいんじゃない?」と頬を膨らませるとんがり帽子の魔女も、本気で機嫌を損ねた様子がないあたり、二人にとってはよくあるやりとりに違いない。
ともあれ、とんがり帽子の魔女は、僕に視線を戻してにっこりと笑った。
「ねえ、あなた、その格好からすると今日はバーテンダーさんよね」
「……はい」
少し引っかかる言い方だったが、そこに言及する前に魔女の方が言葉を続けていく。
「そして、私はお客様。ここってあれよね、『あなたの物語と引き換えに』っていうバー」
「ご存じでしたか」
「私たちの間では有名よ、『物語の蒐集』を目的にした魔女の手によるバー、あるいはバー自体が『魔女そのもの』とも噂されてるけど、今日ばかりはちょっと趣が違いそうね」
バー自体が魔女そのもの、という言葉もまた不思議な言い回しだ。ただ、魔女の男の言葉を信じるならば、人間を由来としない魔女も数多いというから、案外バーの魔女というものも存在しうるのかもしれない。このバー自体が魔法の産物だとも言っていたし。
依然、扉の外からごうごうと唸る音が聞こえてくるが、とんがり帽子の魔女は僕が何かを言う前に席につく。
「早速、一杯、いただいてよろしい? もちろん、とびっきりの物語と引き換えにね」
僕が応える前に、ごう、と、一際大きな音が扉を叩き、バーが揺さぶられる。先ほどよりも揺れが激しくなっている気がするが、果たしてこのまま無事でいられるのだろうか。一体、このとんがり帽子の魔女は何を連れてきたんだ?
無意識に怪訝な顔をしていたのかもしれない、魔女は「そんな怖い顔しないで?」と軽く肩を竦めて言った。
「大丈夫、すぐに諦めてくれると思うから」
「一体、何に追われているんですか?」
「風よ」
「……風?」
何を言われたのかさっぱりわからなかったが、とんがり帽子の鍔を持ち上げて、魔女はさも当然のように「そう、風」と言って朗らかに笑う。
「私、とびっきりの宝物を求めて旅をしているの。今回のお目当ては、風が集めた各地の面白いもの。ほら、風って色んなものを巻き上げていくでしょう? そうしたものの一部は、風が気に入ってそのまま自分の寝床に持って帰っているのよ」
強風に吹かれて、そこにあったものがなくなる――そういう経験は、僕にもあった気がする。過去のことは思い出せなくとも「ありそうだ」という気持ちにはなれる。ただ、そうして消えたものを風自身が持ち帰っている、という発想は僕にはなかった。
「風の寝床を探すのは大変だったわ。何羽もの鳥に話を聞いて、綿毛の飛んで来た方向に箒を向けて。二つの虹が空に架かるとき、雨を降らせた雲の向こうに、雲の寝床への道が開かれる」
とんがり帽子の魔女は、歌うように言葉を並べながら、突然、虚空に指を突っ込んだ。指が一瞬消えたように見えたが、次の瞬間には消えていた指がピンク色の掌大のボールを掴んでいた。
ボールに小さな箱、一部が欠けた植木鉢に、何だかよくわからない部品。手品のように、しかしおそらく種も仕掛けもなく、虚空から拾い上げられて、カウンターに並べられていくガラクタたち。
「人から見たら価値のないものかもしれないけれど、風が集めた宝物って、それだけで何だか素敵でしょう?」
確かに、その言葉だけ聞けば、夢と不思議に満ちたおとぎ話だが……。
何度目かの轟音。ゆらゆらと揺れる灯りの下で、僕はとんがり帽子の魔女に問わずにはいられなかった。
「それって、風からきちんと譲っていただいたものなのですか?」
その問いに、魔女は答えなかった。ただ、満面の笑みを浮かべるだけで。
「……それって、窃盗っていいませんか?」
改めての問いにも、魔女は完璧な笑みを浮かべて、何も答えなかった。代わりに、もう一人の魔女たる男が溜息交じりに言う。
「このご同輩、そういう輩なのよ。いつか痛い目遭うに決まってるんだわ」
「なるほど?」
先ほどの刑事が同席していなくてよかったな、と心から思う。その場合、窃盗犯の話よりも、まず魔法と魔女のなんたるかを説明して納得してもらうところから始まる気はするから、その点でも同席していなくてよかったわけだが。
ごうごうと扉の外で風が唸る。その音色が、何かを訴えているかのようにも聞こえてくる。例えば、この泥棒猫を早く引き渡せ、だとか。……もちろん、僕の気のせいだとは思うのだが。そう思いたいのだが。
絶え間ない細かな揺れを感じつつも、グラスを選ぶ。選択肢は二つあるのだが、今回はこの激しい音色に合わせて、カクテルグラスを取る。
ウイスキー、ジン、ホワイト・ペパーミント・リキュールに、レモンジュース。それぞれを同量シェイカーに注ぎ、シェイクする。とんがり帽子の魔女の赤い目が、興味津々といった様子でこちらに向けられている。
「へえ、思ったよりずっと様になってる」
シェイクの音の合間に、聞こえてきた声。
やっぱり――このとんがり帽子の魔女は、僕を知っている?
その疑問符を投げかけるより先に、カクテルを作り終えて提供せねばならない。シェイカーからカクテルグラスに注ぐのは、うっすらと色づいた液体。
コースターを添えて差し出せば、とんがり帽子の魔女は「ありがとう」と嬉しそうに笑って、グラスを手に取る。まず一口飲み下してから、「わあ」と声を上げる。
「とっても爽やか。これ、何ていうカクテルなの?」
「ハリケーンです」
ハリケーン。渦巻く風。同名のもう一つのカクテルは、ラムをベースとして数々のジュースを混ぜた南国風の味わいなのだが、今回作ったものは、レモンとミントの鋭い味わいでアルコール度数も高い。それこそ、今にも扉を壊さんばかりに叩く風にぴったり……、いや、いつの間にか、音がすっかり止んでいたと気づく。揺れが襲うたびにゆらゆらと揺れていた灯りも、そろそろ動きを止めそうだ。
「そろそろ諦めてくれたかしら?」
ちらりと扉の方に視線を向けて、魔女が言う。今までの轟音が嘘のように静まりかえっていて、店内に常にかかっているBGMがいやに大きく聞こえてくる。別に音量は変えていないはずなのだが。
跳ねるようなピアノの音色を聞きながら、とんがり帽子の魔女は悠々とカクテルを飲み干し、それから椅子を降りて扉に向かって歩んでいく。
「お帰りですか?」
「ううん、ちょっと様子を見ようと思って――」
と、扉を少し開いた途端、ごう、と店内を突風が駆け抜けた。思わず顔を手で覆ってしまったが、その風は本当に一瞬のこと。恐る恐る腕を下ろせば……、とんがり帽子の魔女の姿は、その場から忽然と消え去っていた。
ドアベルの音を立てながら、ゆっくりと閉じ行く扉を見つめる僕の耳に、
「あーあ、言わんこっちゃない」
という、呆れ返った魔女の男の声が、届いた。
マザー・グースの長すぎる一夜