マザー・グースの長すぎる一夜

09:ぷかぷか

「そういえば、このお店って禁煙?」
 自称魔女の男の問いかけに、目についた硝子の皿を取り上げる。ものを盛り付けるための器でないことは、縁の特徴的な凹みからも明らかだった。
「灰皿あるんで、禁煙ではないと思います。吸いますか?」
「ありがと! ちょうだいちょうだい」
 どうぞ、と灰皿を差し出すと、男は鼻歌交じりに服に大量につけられているポケットの一つから煙草の箱を取り出した。見たこともない――僕にその記憶がないという以前に「煙草の箱」と判別することも難しい形状の――カラフルな箱だったが、男がつまみ出したのは、確かに僕も知っている形のごく一般的な紙巻煙草だった。
 煙草を指の間に挟み、こちらは見慣れた形のオイルライターを取り出して、先端に火をつける。男が満足げに煙を胸いっぱいに吸って、吐き出し……、「あ」と思い出したかのように顔をこちらに向ける。
「あんたも吸う? どうせ、今は他にお客もいないし」
「普通、店の人間に勧めるものではないと思うのですが。もらいますけど」
「吸うんだ?」
 意外そうな声を上げる男。そもそもが、そっちから言い出したことだろうに。
「おそらく、元々吸う方なんだと思います。吸いたいな、と思ったので」
 へえー、と言いながら男が箱とライターを差し出してくる。火はつけられるからいいのだが、とは思ったが、断る理由もなかったのでライターごと借り、煙草を一本取り出して咥え、火をつける。
 知らない煙草からは、知らない味がした。煙草というカテゴリなのは間違いないのだが、妙に甘く、それでいてすっとするような気配と共に、どこかスパイスのような刺激的な香りもする。
「おいしい?」
「もう少しシンプルな香りの方が好みですね」
「言うと思った」
 アタシの趣味だから諦めてちょうだい、とけたけた笑う自称魔女の男は、満足げに煙を吸っては吐いてを繰り返す。狭い店内に二人分の煙が満ちてゆくが、どこかで換気扇が回っているらしく、煙は適度に散らされ、その場に留まることはない。この様子なら、吸い終わってしばらくすれば、煙の気配も消え去ってくれることだろう。
 煙草が、決して健康に寄与するものではない、ということは頭では理解しているが、この、煙を吸って吐き出す手続きというのは、どうも僕には必要なことらしい。甘い煙を吸い、ぷかぷかと、白い輪を虚空に浮かべていく。
「あら、意外と器用ね」
 やり方をいつ覚えたかも思い出せないけれど、この程度なら。そうして、喫煙という行為によって得られる心身の落ち着きを確かめたところで、ふと、先ほど問おうとしていたことを思い出す。
「そう、そうでした、魔法について聞かせてくれませんか」
 先ほどの刑事の来訪によってすっかり忘れかけていたが、僕が直面している問題は何一つ解決していないのだ。消えた記憶、明けない夜、どこにも繋がっていない扉。僕のことはともかく、このバーが置かれている状況は何らかの「魔法」が関わっているらしい、ということだが……。
 自称――僕がそう思っている魔女の男は、煙を吐き出し、にぃと歯を出して笑った。
「いいわよ。……と言っても、魔法は千差万別、ルール無用のスペシャルパワーだから、説明も何もないんだけど」
「何でもありってことですか?」
 確かに「魔法」という言葉は、通常人間には起こし得ない不思議な現象を起こす技術を指す。人に起こし得ないことが全て魔法で可能だというなら、何でもありと言われても「そうですか」としか言えないわけだが……。
「魔法そのものはね。でも、どういう魔法を扱えるかは、使い手の魔女次第。本当の意味で『何でもあり』の魔法を使える魔女ってのはほとんどいなくて、魔女が世界をどう捉えてるかで使える魔法の形は変わってくる」
「魔女が、世界を……?」
「説明が難しいんだけど、あんたは、目で見て、耳で聞いて、肌で感じるじゃない? 外界から与えられた刺激は感覚器官を通して脳で解釈される、ってのはご存じだと思うんだけど」
 まあ、一応、言わんとしていることは理解できる。僕が目で見ているものは、物体が反射した光を刺激として受け取ることで、初めて「像」として認識される。人がものを感じ取るには、刺激という名前の入力が必要で、その刺激を受け取るための器官を「感覚器官」と称する。
「で、アタシら魔女って生き物は、目や耳以外の、特別な感覚器官を持っていて、それで周りにあるものを認識してる、って感じなの。あえて人間に近い表現をすると、だけどね」
「あなたも、ですか」
 傍目には人間と何一つ変わらないように見えるけれど――。
 魔女であるらしい男は「そ」と言って、ふーっと煙を吐き出す。
「ただ、アタシは、ただの人間が後付けで魔女の感覚を身につけたタイプだから、人間としての感性に引っ張られちゃって、『何でも』を実現するにはほど遠い」
 思考の方向性、常識と倫理、科学知識に社会に対する姿勢、あらゆる「人間らしさ」が魔法を狭めてしまうのだ、と男は笑ってみせる。
「……と、いうことは、人間生まれじゃない魔女もいる、ってことですか」
「もちろん、そっちの方が多いくらい。ただ、人間はそういうものを『神』とか『悪魔』って呼ぶかもだけど。不思議な力を使う、人間には及びもつかないものでしょ。アタシから見ると『魔法を使うもの』で同じ『魔女』ってラインなんだけど、そこは名付けの問題でしかないわね」
 名前というものは、結局のところ、名付けて呼ぶ側の都合でつけられるものだから、というのが男の論理のようだった。
「でも、それなら、あなたはどのような魔法を使う魔女なのですか?」
 人間の感覚に阻まれて限定的に過ぎないとは言うが、己を「魔女」と称する以上は何らかの魔法を使えるということなのだろう。すると、男は「よくぞ聞いてくれました」と身を乗り出してくる。
「アタシは、まさしく『名前をつける』魔女なのよ」
「名前を……?」
「もう少し言葉を硬くするなら『定義』の魔女。定義ってわかる?」
 改めて言われてみると、意味は何となくわかるが、説明をするのは難しい単語だと思う。それこそ「意味」の「意味」を説明させられようとしている感覚に近い。
 相応しい言葉を探しあぐねて口ごもる僕の代わりに、男が言葉を続ける。
「ざっくり言ってしまえば、そこに存在するものの一定の範囲に、名前をつけて、区別できるようにすること。アタシの魔法は、そういう性質を持っているの」
 男は一際深く息を吸い、ゆっくりと煙を吐き出す。吐き出された煙がぷかぷかと浮かぶが……、その煙は、他の煙と異なり、換気扇の生み出す空気の流れに流されることなく、その場に浮かび続けている。
「今、この煙を『定義』したわ。『この場だけの消えない煙』としてね」
 あっさりと男が言う。魔法と呼ぶにはあまりにも地味だが、とんでもないことをやってのけているのは、僕にだってわかる。本来煙が煙として存在するための全てを無視して「そういうもの」として意味を押しつけている。定義、している。
 呆然とする僕に満足げに笑ってみせる男だったが、消えない煙に指を突っ込みながら「でもね」と言葉を続ける。
「アタシの魔法は、『ゼロをイチにはできない』っていう、決定的な制約があるの。他にもちょこちょこ制約はあるけど、最大の制約はそれ」
「なるほど。その場にあるものに名前をつけて確定させるという性質上、ないものをあることにはできないし、本来の性質から大きく異なる意味を付与するのも難しい……、ということでしょうか」
「そうそう、あんた、頭の回転が速くて助かるわ」
 それは果たして褒め言葉なのだろうか。うっすら「見かけによらず」という言外の何らかを感じ取ってしまうのは、僕が穿ち過ぎだろうか。
「人間の感覚に依存した魔法ってのもわかるでしょ。区別できるように名付けるのって、結局『言葉』がないと始まらない。世界を意味で区切る道具、人間同士のコミュニケーションの必需品。その時点でめちゃくちゃ人間くさいから、当然魔法の及ぶ範囲にも制約が多い」
 どうにも理解の範疇を超えることを言われているが、あくまで人間の領域に属する魔法である、という論理はわからなくもない。目に見えているもの、感じ取れるものに、名前をつけて固定化する魔法。
 この時点で僕の理解を超える「魔法」であることに疑いはないが、元は「ただの人間」だったというこの男とは異なる成り立ちの魔女は、どれだけ想像を絶する魔法を扱うのだろう……、などと、考えていると。
「だから、このバーの本当のマスターは、アタシとは別の成り立ちの魔女なんだろなぁとは思ってる」
 男がぽつりと呟いた言葉に、思わず「え?」と聞き返していた。男はぱちんと指を一つ鳴らし、定義していた煙がただの煙に戻り空気の中に溶けていくのを見つめながら言う。
「アタシが思うに、このバーそのものが魔法の産物なのよね。内装とか、酒とかグラスとかは人の作ったそれだけど、なんだろな、『存在』が明らかに魔法。ゼロをイチに。そうそうできるもんじゃないわ」
 無から有を生み出す、人とはまた異なったルールを持つ何者か。神や悪魔、あるいはもっと別の表現で表されてもおかしくない、そんな魔女が、このバーの本来の主だというのか。
 そして――。
「一向に夜が明けないのも、扉の向こうに何もないのも、この空間が特殊な場所であるから、ということですか」
「そうね。この空間は、時空の狭間にたゆたってるような状態だと思う。どこにでもあって、どこにもない。バーを求める客が現れた時だけ、扉がその人の前に開かれるって仕組みなのかも」
 だから、先ほどの刑事は「こんなところに、バーなんてあったか?」と言っていたのか。彼は、その場に本来ないはずの扉を見出して、ここにやってきていたのだ。
「では、僕は、ずっと明けない夜をバーテンダーとして過ごす、ということでしょうか」
「それが、そこまで無法な場所にも見えないのよね。言ったとおり、お酒やグラスは人間の世界のそれに見えるの。ほら、使っただけお酒も減ってるでしょ」
 言われて、手元のスコッチの瓶を見れば、ほんの少し減っているのがわかる。先ほど何度か使ったジンも、まだ底をつく様子はないが、それでも確かに減っている。
「つまり、お酒の仕入れとか、使っている道具の手入れとか、お店に必要な手続きは普段から行われてるのだと思うの。しかも、人間社会のルールに則ってね。こんな形で『時間が止まっている』というのは、このバーにとっても異常事態なんじゃないかしら」
「異常事態……」
「まあ、異常といえば、このお店の主人じゃないあんたが記憶の無い状態で立たされてる、ってのが一番の異常だもんねぇ」
「それは、本当に、そうですね」
 説明されなきゃ状況の片鱗すら理解できず、説明されたところで理解できたとは言いがたい身なのだ。そんな僕に何もかもを押しつけられても、率直に言って、困る。
「同じ魔女として、何か、解決方法を知ってたりはしないんですか」
「うーん、別の魔女の魔法を解読するのって、ひよっこ魔女のアタシには難しくてね。……もうちょい待っててくれれば、糸口くらいは掴めそうなんだけど」
 言いながら、ほとんど燃え尽きつつある煙草を手に、虚空に何らかを描くような、手繰るような素振り。僕の目には何も見えないが、もしかすると、何らかの魔法の手つきだったのかもしれない。
 だが、僕が気になったのはその奇妙な動きよりも、男の言葉そのものだ。
「……もしかして、そのために、ずっとここに居座ってるんですか?」
「そうよ?」
 男は当たり前のように言って、吸い殻を灰皿に押しつける。そのまま二本目の煙草に手を出す男に、ほとんど無意識に問いを重ねずにはいられなかった。
「それって、あなたに、何か得はあるのですか?」
「えっ、いっぱいあるわよ? 他の魔女の魔法をじっくり眺める機会なんてなかなかないし、その間に、預かったお手紙を渡すチャンスだって来るかもしれないでしょ。何よりも」
 にっと歯を見せて、男は人差し指を僕に突きつけてくる。
「困ってるあんたに、めいっぱい恩を着せられるってこと!」
 力一杯宣言されてしまったが、僕は頬を掻かずにはいられなかった。
「……僕に恩を着せても、何もお返しはできませんよ」
 だって、僕自身の記憶もなければ、どうしてこの場にいるのかもわからないのだ。こんな状況で、どんな礼ができるというのか。しかし男は全く意に介した様子もなく、さらりと続けるのだ。
「あら、今じゃなくていいのよ。記憶が戻ってからでも、それよりずっとずっと先のお話でも」
 魔女ってね、とっても気が長いんだから、と笑う男に、僕もまた……、きちんと笑顔を返せた、だろうか。わからないまま、自分の吸い殻を手元の灰皿に落とす。
「次のお客様が来るまでに、何か作りましょうか」
「嬉しい! 対価は今のお話でよかったかしら」
「十二分です」
 じゃあ、と。二本目の煙草に火を点してから、男は言う。
「ガツンとくるやつ、ちょうだい? 魔法にはね、酩酊も必要なのよ」
「なら、アースクエイクはどうでしょう」
「最高」
 よくわかってんじゃない、と男は愉快そうに笑う。
 アースクエイク。ウイスキー、ジン、そしてアブサンを同量混ぜてシェイクするものだ。アルコール度数が四十度以上の酒ばかりを混ぜているのだから、地震アースクエイクの名も伊達ではない。
 棚から、アブサンの瓶を取り上げる。これ自体が一種の魔法じみて、数々の詩人や画家を魅了し滅ぼしてきた酒だ。
 果たして、彼らはこの酒の向こう側に何を見たのだろう。
 そして、ここにいる魔女は、何を見ようとしているのだろう。
 一人の魔女のために、不思議の薬を混ぜ合わせる儀式のごとく。僕は、手にしたシェイカーを振る。