「いらっしゃい、ませ」
どれだけ混乱をきたしていても、かろうじて、バーテンダーとしての体裁を保つことはできた。何も知らないであろう客を不安がらせてもいけない。
しかし、一体どこから来たんだ? 僕が見たときは、扉の向こうに、何もなかったというのに?
なるべく喉の奥に混乱を押し込みながらも、つい漏れ出してしまいそうな不安。しかも、僕の混乱が伝染したのか何なのか、入ってきた男性も困惑の表情を浮かべていた。
「……ええと、こんなところに、バーなんてあったか?」
スーツを身に纏った壮年の男性だった。決して不潔という印象ではないが、型崩れしてあちこちがよれているジャケットは、長らく酷使されてきたということだろう。短く刈られた髪に、うっすらと無精髭の浮いた四角い顎、どこか緊張に張り詰めた顔、落ち着き無く動く視線。少なくとも営業職の類ではなさそうだな、と内心で考えながら、とにかく「バーテンダーらしい」態度を崩さないように心がける。
「こんばんは、お客様。こちらはバー『マザー・グース』です。偶然の出会いもまたかけがえのない出会いの一つです。どうでしょう、一杯いかがですか?」
そう声をかければ、男性は警戒の視線を寄せてきたが、……その視線は、すぐに僕よりも奥の自称魔女に向けられたのがわかった。まあ、どこからどう見ても胡散臭いよな。僕もそう思う。
けれど、それもごく一瞬のことで、男性は深く息をついて、扉から一番近い席に腰掛ける。
「そうだな、……偶然とはいえ、いい休憩にはなりそうだ。兄ちゃん、一杯適当に作ってもらっていいか」
「かしこまりました。ただ、一つお伝えすべきことがございまして」
何だ、とばかりに男性の鋭い視線がこちらに向けられる。そんなに睨まないでほしい、とは思うが、もしかすると案外僕もそう見えているのかもしれない。僕もまた愛想よく振る舞うのが得意ではない……、ということだけは、鏡を見るまでもなく妙に確信していたから。
「当店は金銭ではなく『あなたの物語』が対価になります」
「何だそりゃ、変な店だな」
そんなんでやってけるのか、という男性の言葉には軽く肩を竦めるに留める。本当にやっていけるのかどうかは、僕ではなくこの店の本当のマスターしか知らない。僕はただ、この店のルールだと聞かされたそれを、反芻しているにすぎないのだ。
「どのような物語でも構いません。あなた自身のお話でも、どなたかのお話でも、もちろん、作り話でも。その物語に応じた一杯を提供いたします」
「ヘンテコだけど面白い仕組みだな。物語かぁ……」
とんとん、と男性の指がカウンターを叩いて。それから、少しばかり躊躇いがちに言う。
「兄ちゃん、口は堅い方か?」
「語っていただいた物語をバーの外で吹聴するような真似は断じていたしません」
そもそも「バーの外」に出られるのかもわからない、という現実は一旦横に置くわけだが。
それから、男性の目が奥の自称魔女にも向けられる。つい、そちらに目を向ければ、剽軽な笑みを浮かべた自称魔女が、口元で節くれ立った指を×マークにしていた。果たして、それで信用してもらえるとでも思っているのだろうか。その仕草一つだけでもめちゃくちゃ口が緩そうだぞ。
男性もそのように思ったに違いなく、やれやれとばかりに溜息一つ。しかし、それで口をつぐむわけでもなく、ぽつり、と言葉を落とす。
「俺ぁ、こういうもんなんだけどな」
と、よれたジャケットの内ポケットからちらりと見せてきたのは、――警察手帳だ。なるほど、この男性は刑事か。どうにもサラリーマンには見えないと思っていたのだ。
すぐに手帳は再びジャケットの奥に隠され、男性は言葉を続ける。
「こういう仕事だから忙しいのはいつものことだし、まあ、そりゃあ別にいいんだ」
当然、守秘義務というものもあるのだから、今まさに捜査中の事件について語られても困るのは僕だってそうだ。いくらこの場で語られたことを外に出す気はないとはいえ、扱いに困るというものだ。
もちろんそのあたりは僕よりもよっぽど理解しているのだろう刑事は、元より小さな目を更に細めて言う。
「ただ、今抱えてる仕事とは別に、ちょいと……、気になる出来事があってな」
「気になる出来事、ですか」
「今から一年くらい前かな。ここよりずっと北の山奥で、何者かに埋められた遺体が発見された。こいつは未だ犯人は見つかってない」
そもそも「ここ」がどこなのかわからない上に時間の概念だってあやふやなのだが、グラスを拭きながら話を聞く。
「それとはまた別に、北ではあるんだがまた違う場所で、崖の下に落下したとみられる遺体が出た。全然異なる場所の異なる事件だし、何なら片方は飛び降りたようにしか見えない。だから、一つ目の事件は他殺として今も地元の警察が捜査してるし、二つ目の事件は当然自殺で片付けられた」
それだけの話、と言ってしまえばそれまで。だが、この刑事がわざわざ「物語」として語っている、ということは、だ。
「……それでも、この二つの出来事には何か関連があると考えている、ということですか?」
「何でだろうな。俺にも理由はわかんねぇんだが、こう、首の後ろがちりちりするような感じがするんだよ」
「それって、刑事のカンってやつ?」
奥で相変わらずほとんど空のグラスを舐めていた自称魔女が言う。刑事は胡散臭げな視線を自称魔女に向けるが、しかし自称魔女はあくまでもにこやかで、別に害がなさそうだということはわかってくれたものと見え、一拍置いて「そうだな」と頷いた。
「言ってしまえば、そういうやつだ。実際に捜査に加わったわけでもねぇから、単なる勘違い、思い込みって言っちまえばそれまで。真偽を確かめることもできない」
基本、その地域で発生した事件に他県の警察が介入することは難しい。刑事が「ずっと北」と言った以上は、この刑事に捜査の権限はないということ。だから本当に、話に聞いただけなのだが引っかかっていること、程度の話というわけだが……。
「と、思ってたんだが、もう一つ、殺人事件が起こった。そいつは、つい最近、隣町での話だ。でっかいニュースにもなってたから、知ってるとは思うんだが」
その言葉には頷くこともしなかったが、首を横に振ることもしなかった。記憶がない、なんて言っても信じてもらえるとは思えなかったから。微動だにしない僕の代わりに、自称魔女が声を上げる。
「それって、めった刺しにされた遺体がゴミ捨て場に捨てられてた、ってやつよね?」
知っているのか、と聞いてしまうと面倒なことになりそうだったので、とりあえず自称魔女の語るに任せる。
「ニュースではまだ容疑者の話は出てなかったと思うけど」
「まあ、その辺は立場上何も言えねぇんだが、……俺は、この事件も、前の二つの事件と関連がある、……何なら、同じ人間が手を下してるような気がして仕方ねぇんだ」
「地域も、何なら殺し方もまるっきり違うのに? 二番目に至っては自殺に見えてるわけよね。不思議なお話ね」
「だろう? だからあくまで『物語』ってわけだ。俺の頭が疲れてんだかなんだかで、勝手にいもしない殺人鬼の足跡を追いかけてる、そういう物語だ」
男はひらひらと手を振った。人間の頭が、自然と情報を補完するようにできている、ということは僕も知識として理解はしている。そして、語られぬ要素の補完が行き過ぎればありもしないことを「事実」と誤認することもある。
点と点を、ありもしない線で結ぶ。そういうこともある。それだけの話、だとは思うのだが……。
でも、と自称魔女が尖った顎を撫ぜる。
「もし、その勘が正しければ、犯人はとんでもない殺人鬼よね。『同一犯だと思わせない』なおかつ『殺人の証拠を残してない』ってことだものね」
「あるいは」
ぽつり、と。
「犯人は、よく知っている、のかもしれませんね。『捜査の手続き』を」
落とされた声が「僕のもの」であることに、僕自身が驚いていた。刑事も、自称魔女も、目を丸くして僕を見てくる。ついぽろっとこぼした言葉で、そんなに見つめられても困るのだが……。
「いえ、その、ただの思いつきです。それに、そもそもが真実とも言えない『物語』であると、お客様が仰られたのでしょう」
「それもそうだな」
とは言ったものの、どうも僕の言葉が引っかかっているのだろうか、刑事は難しい顔をして黙り込んでしまった。
何ともいたたまれない気持ちになるが、とにかく、物語に相応しいカクテルを。
氷で満たしたミキシング・グラスにスコッチ・ウイスキーを注ぎ、スイート・ベルモットをその三分の一量、そしてアンゴスチュラ・ビターズを一滴。ステアしたものをカクテルグラスに注ぎ、添えるのはピンに刺したマラスキーノ・チェリー。
「こちら、ロブ・ロイになります」
コースターの上に、グラスを置く。チェリーの色味も相まって、単なるカクテルよりも赤みが強く見えるカクテルを、刑事がためつすがめつする。
ロブ・ロイ。ライ・ウイスキーを用いるマンハッタンからベースをスコッチに変えたものだ。名前の由来はスコットランドの義賊、ロバート・ロイ・マクレガーのニックネームだという。
正義を求めて圧政を敷く貴族と争ったという義賊ロブ・ロイ。彼の姿はきっと民衆に希望を与えただろう。
しかしそれは、あくまで「
この刑事はきっと、刑事という立場の上で事件を追っていくだろう。そうでなければならない。だから、このカクテルが本当の意味でこの刑事に「相応しい」というつもりはない。
ただ、――法に囚われず、足跡も残さず歩む「誰か」を今まさに追いかけているあなたに。たとえそれが、物語の中にしか存在し得ないものであろうとも。
あえてこの思考の流れを言葉にはしない。僕が物語を対価に差し出すのは、一杯のカクテルだけでいい。
そして、刑事もまた多くを望んではいなかったのだろう。それ以上の説明を求めるでもなく、一口、グラスに口をつけて、口をへの字に曲げる。
「……変な味だな。ウイスキーなのに甘いっつーか」
「単なるスコッチの方がよろしかったでしょうか」
「いや。これはこれで美味いよ」
言って、一口、また一口。アルコール度数はかなり高いカクテルなのだが、全く意に介した様子もなく、グラスの中身が一気に空になる。
「ありがとさん。本当にこいつ、タダでよかったのか?」
「ええ、お代は既にいただいております」
「そうかい。じゃ、また飲みたくなったら来るよ」
タダだしな、とにやりと笑いかけてくる。決してタダというわけではないのだが、まあ、普通に考えればタダ同然というのは、そう。
かくして、椅子から立ち上がり、ひらりと手を振った刑事は、そのまま店を出て行った。
残されたグラスを取り上げる。ピンに刺さったマラスキーノ・チェリーはそのままだった。確かにこれ、食べていいかどうか迷うよな……、と思っていた時、奥から声をかけられた。
「あんた、実は、ばっちり覚えてたりする?」
「何をですか?」
視線を上げれば、自称魔女は「何でもない」と大げさに手を広げてみせた。