これがこのバーの日常なのだろうか。カクテルを作る手は止めないままに、そんな思いが脳裏をよぎる。もう少し記憶が戻ってくれるかと思ったものの、一向にその気配はなく、ただ脳裏に思い浮かぶレシピに従って、カクテルを作るばかり。
なかなか相手をしてくれない妻への愚痴――というか、愚痴に見せかけた惚気話――をひたすらに垂れ流していた客が、五杯目のグラスを空にしてやっと店を出て行ったところで、僕はつい息をついてしまった。
宣言通りに未だ居座る自称魔女の男が、既にほとんど空になったグラスを舐めながら、ちょっと呆れたような声で言う。
「今の人に出してたの、ずっとノンアルコールだったわよね」
「そうですね」
別に対価として金を取っているわけではないし、何を作ってほしいと言われたわけでもない。酔いたいんだ、とは言っていたが、店に入ってきた時点からとっくに酔っていたみたいだったし。主に、自分の話に。
結局、彼は僕が出しているものにアルコールが入っていないことには最後まで気づいておらず、その上で上機嫌に帰って行ったのだから、何一つ問題はなかろう。
「しれっとやってのけるんだからすごいわ。嘘は苦手じゃなかったの?」
「嘘はついていませんからね」
広義の「カクテル」という条件は満たしているのだからよかろう。シンデレラ、サラトガ・クーラーにシャーリー・テンプル。由緒正しきノンアルコール・カクテルたちだ。
……それより。
「嘘が苦手だって、言いましたっけ、僕」
「言ってなかったっけ?」
「あなたが嘘と気の利いた冗談が苦手だという話は伺いましたが」
僕がそうだとは、一言も言ってなかった――はずだ。「そうだったっけなぁ」と首を傾げながらも、男はぎょろりとした目を僕に向けてくる。
「でも、どうせ、嘘も誤魔化しも苦手でしょ」
「それは」
僕は僕自身について相変わらず何一つ思い出せない。ただ、男の言葉を精査する限り、
「そう、ですね」
という回答になる。
男が僕の何を知っているのか、という話ではあるのだが、しかし「間違っている」とは全く言えそうにない。積極的に嘘をつくことなんて考えられそうにないし、ひとたび誤魔化そうとすれば片っ端からボロが出る、という嫌な確信がある。
それこそ先ほどの客相手のように「黙っている」ことはできるが、それだって僕の中で「嘘にならない範囲」に限る。そういうことだ。
男が「そうだと思った」と愉快そうに笑う。
「それより、ずっと動き詰めで喉渇いてない、マスター? アタシから一杯どうかしら」
確かに、チップを渡す、のと近い手続きとしてバーテンダー宛のドリンクを客が頼む、ということも、あるにはあるはずなのだが……。
「この場合、別に金銭の授受が発生しているわけでもないので、何か意味あるんですかね」
「あんた、ほんとクソ真面目に考えるわねえ。いいじゃない、アタシからあんたに、一つ『物語』を語る。んで、作ったカクテルをあんたが飲む」
「確かにここでの対価としては成立していますね」
あくまで、このバーに限った話ではあるが。
「じゃあ、それで。それじゃあ、何を話そうかしら」
男が考えている間に、最後の客のグラスを片付ける。確かに言われてみれば、喉が渇いているし、客が途切れる今までずっと飲み食いもせず動いていたのだと気づく。
どのくらい、時間が経ったのだろう。そう思って入り口の扉に目を向けてみるが、磨り硝子の向こうは依然として暗く、夜はまだまだ続きそうであることを示している。
……本当に?
脳裏にその思考がよぎるのと同時に、男が口を開く。
「そうね、これを『物語』と言っていいものかはわからないけど……」
男に視線を戻すが、男と視線が合うことはなかった。男もまた、一瞬前の僕と同様に扉の方を見つめていたから。
「こうやって、色んな人が訪れて、ちょっとした物語を語っていく。とっても素敵な夜よね。明けるのが惜しい夜、
可惜夜。僕は知らない言葉だが、古い言葉なのだろうか。ただ、男が言いたいことはわからなくもない。
物語と引き換えにカクテルを。そんなルールの上でやりとりされる物語は、本当に千差万別で僕にとっても興味深いものだった。先ほどのような他愛もない話もあれば、本当か嘘かもわからない不思議な物語もあり、切実な打ち明け話だってある。僕には問題を解決する能力などなく、カクテルを一杯供することしかできないが、それで、少しでも気分が上向いてくれればよいなと祈る。
「こんな夜に相応しい一杯、マスターなら何を作るのかしら」
そうですね、と、少し考えた後に、冷やしたビールの瓶を取り出して栓を開ける。スタウト。黒ビールの一種で、チョコレートやコーヒーのような香り、とも称される香ばしさが特徴的だ。これと、同じくよく冷えたシャンパンをグラスに注ぎ、一、二回バー・スプーンで混ぜる。お互いの味が混ざり合うように、しかしそれぞれの泡を消さない程度に。
「ブラック・ベルベット?」
男の言葉に頷く。なめらかな舌触りをビロウドに例えた一杯。静かで穏やかな、しかし確かな存在感を持つ夜にはちょうどよいのではなかろうか。
あとは、そこまでアルコール度数が高くないのもよい。作る側である以上は、そんなに強いものを飲み続けるわけにもいくまい。自らグラスを持ち上げて、きめ細やかな泡の織りなす感触と、不思議と調和を成すビールの香ばしさとシャンパンの爽やかな酸味を味わう。
そうして、奥の席の男を見やれば、いつしか彼はこちらに視線を戻していた。その口元には、いたって人懐こそうな笑みを浮かべていたが――。
「本当に、素敵な夜。でも、夜の方が明けてくれないのは、考え物だわね」
ふと、投げかけられた言葉にどきりとする。男が、懐から鎖のついた懐中時計を取り出してみせる。
「ずっと、時計も止まってたみたい。早く確認しとくべきだったわ」
あえてその文字盤を見るまでもない。僕の感覚が間違ってはいなかった、それが客観的にわかれば十分だった。
思わずカウンターを飛び出し、「ちょっと!」という男の声も無視して扉に取り付く。客を迎える扉なのだから、当然鍵なんてかかってはいなくて、手をかければすぐに開き――。
その向こうには、何も、なかった。
「……え?」
言葉通りに、「何も」なかった。
強いてあるものを言うならば、闇、だろうか。光ひとつ差さない闇が、一面に広がっていたのだ。いくら夜だからといって、何も見えないなんてこと、あるだろうか。
その時、強い力で腕を引かれて、僕はふらりと店の中に戻る。手を放した扉がゆっくりと閉まっていくのを、呆然と見つめることしかできない僕の耳元で、男の声がする。
「飛び出してかなくてよかったわ。ここを出たら、戻ってこれなかったと思う」
「一体、これは、どういう……」
「詳細はアタシにもわかんない。ただ、こういう魔法なんだろな、ってことだけは、確か」
また、魔法だ。けれど、こうやって異様な現実として突きつけられてしまっては、あり得ないものとして笑い飛ばすことだってできやしない。
仕方なくカウンターの向こう側に戻りながら、奥の椅子に腰かけ直した男に問う。
「そもそも、魔法、とは何なのですか」
どうやら、僕は、もう少しきちんと向き合わねばならないらしい。魔法と、それを使う「魔女」と呼ばれる者と。
この口ぶりから考えるに、自称魔女の男が現象を起こしているわけではない。しらばっくれているというなら話は別だが、……僕には、そうは思えずにいる。
男が「そうねぇ」と止まった懐中時計の文字盤を指でなぞったところで、――突然、先ほど閉ざしたはずの扉が、開いた。