かくして、客が去って、またバーは静けさを取り戻す。
いや、それは正しい表現じゃなかったか。
「意外とちゃんと接客できるんじゃない、その愛想アタシにも分けてくれないかしら?」
今まで黙っていたのが嘘のような、軽い調子の声がかけられる。空になったブルー・ムーンのカクテルグラスを取り上げながら、つい、睨むようにそちらを見て、溜息をつかずにはいられない。
「客って認めていいかちょっと微妙なんですよね」
「あっ、言ったわね!? ちゃんとお客様でしょー、ルール守ってるし! お酒も頼んでるし! 何なら追加オーダーもしちゃうんだからね!」
もちろんそうなのだが、「気づいたらそこにいた」というのは、ちょっと客としてどうかと思うのだ。
今の女性は入り口の扉を開けて入ってきたから「客」だとわかったが、この男、入り口を通ってきていたか? 少なくとも僕はそれを観測していないぞ、ドアベルの鳴る音だって聞こえてなかったはずだ。
とはいえ、それは僕が記憶が「無い」ことで混乱していたから、という可能性もあり、その間に男が入ってきていた可能性はあるが……、それなら声の一つはかけてほしいし、何なら僕が出した記憶もない一杯目を飲んでいたのも気にかかる。
だが、その疑問を投げかける前に、男は視線を閉じた扉に向けて、言葉を重ねてくる。
「それにしても、素敵なお客さんだったわね。いい旅になるといいわね」
それは、本当にそうだ。名前も知らなければ、行く先も知らない。ただ、素敵な笑顔の女性だったと思う。
「あんたも、ブルー・ムーンなんていいセンスしてるじゃない。よく思いつくわよね、流石本職は違うわ」
本職、という言葉に内心どきりとする。
「……それが、その……、気づいたことがあって」
「なーに?」
そうだ、女性の前でシェイカーを手にした瞬間に、緊張して体が強ばったこと。その時に脳裏によぎった疑念。
「僕は、本当に、バーテンダーなのでしょうか」
「は?」
「実は、シェイカーを握った瞬間に、『人前でシェイカーを振るのは初めて』だと思ったんです。思い出せない、ならともかく、明確に『初めて』だと」
今まで気づかなかったのは、この男の前ではシェイカーを振ることがなかったからだ。そういえばネグローニもマティーニもステア――つまりグラスの中でかき混ぜて作るカクテルであった。ステアは、意識すべき手順こそ多いが、シェイクほど目立つものではなく、客の目をそこまで気にすることもない。
男は怪訝そうに細い眉を寄せる。
「そーお? それにしてはいいシェイクっぷりだったと思うけど」
「経験がない、というわけではないと思います。ステアにせよシェイクにせよ『やり方』はわかるんです。レシピも自然に浮かびますし」
「何なら、バーの説明とか、カクテルの名前にまつわる蘊蓄もすらすら出てきてたもんねえ、記憶がないなんて嘘みたいに」
どうやら、僕の記憶の欠けはあくまで「僕自身」にまつわる部分に限定されていて、バーでの振る舞いには困らないということは、今までのやりとりで随分はっきりしてきている。
「まあね、確かに記憶にはでっかく分けてエピソード記憶と意味記憶、それから手続き記憶ってのがあって、多分あんたの場合エピソード記憶だけがごっそり抜けてる、みたいな感じだと思うんだけど」
僕も、言われてみればそれぞれの言葉の意味は思い出せる。
エピソード記憶は、まさしく「僕」が経験した出来事、あるいは思い出といった、時間や場所、そして感情が含まれた記憶である。それに対して意味記憶とは事物の一般的な知識だったり、言葉の意味だったりといったものだ。僕が今こうやって「記憶」の分類を思い出しているのも、意味記憶の一部といえよう。手続き記憶は前者二つとは少し異なり、「手が覚えている」という類いのもの。シェイカーを振る動作などは、完全にこれだろう。
……しかし、だ。
「そう簡単に分類できるようなもの、ですかね……」
「そうなのよね、アタシもそこは疑問に思ってる。とはいえ、アタシはお医者さんじゃないし、もし続くようなら医者にかかった方がいいわよ」
「保険証があるかどうかも思い出せないんですけど」
「ええ……、そこ最初に心配する……?」
医療には当然相応の金がかかるもので、僕の懐具合が実際にどうなのかはさっぱり思い出せないが――何なら財布がどこにあるのかもわからないのだ――、日本国の国民皆保険制度に頼らないのは嘘だろう。保険証さえあれば僕の名前も、住所だってきっとわかるはずだし。
「ま、もし朝まで記憶がそのままならアタシが何としてでも病院に連れてくから安心なさい。何ならいい医者捕まえるまで付き合ったげるから」
と、自称魔女の男はごてごてと飾り付けられた薄っぺらい胸を張る。頼もしいことではあるが、当然聞かねばならないことがある。
「……朝まで、居座るつもりですか?」
このバーの営業時間は、僕にはわからない。時計もないから、今が何時なのかもわからない。日が昇れば扉の磨り硝子が光を取り入れるだろうから、朝に気づくことはできるだろうが……。
「あら、いけない? もちろん、嫌ならすぐにでも退散するけど」
嫌だろうか、と自分自身に問いかけてみる。変な客であることには違いない。とはいえ本人が言っている通り、別にルールに反しているわけでもなければ、僕に迷惑をかけているわけでもない。ちょっと……、いや、かなりおしゃべりではあるが、他の客の前では空気を読んでくれることは、さっきの客とのやりとりではっきりしている。
何よりも、……僕が、別にこの自称魔女を嫌ってはいないのだと、思う。だから、それを言葉にする代わりに、ちょっとだけ肩を竦める。この男のような大げささは、僕には似合わないから。
とはいえ、僕が追い出す気がないことは男にも伝わったのだろう、にっと少々黄ばんだ歯を見せて笑う。
「じゃ、ここからの夜もよろしくね? まあ、記憶の方も、お客さんと話したりしてるうちにちょっとははっきりしてくるんじゃない?」
そうしたら、きっと、あんたが「誰」なのかもわかってくるんじゃないかしら、と、男はグラスを傾ける。
わかってくればいい。語りを重ねて、カクテルを重ねて、……朝が来る頃には、何もかもが元通りになっていればいい。そうは思うが、果たしてそう上手くいくかどうか。
「そろそろ、グラスの中身、なくなりそうですね」
「ほんとね。じゃあ、今度はあんたがアタシに似合う一杯、考えてよ。味にはこだわりないから」
言われて、ずっと手に持ったままだったカクテルグラスをゆすぎ始めながら、考えてみる。味にこだわりがない、と言うからには、カクテルの味や種類を問わず「僕がこの男をどう見ているか」を知りたいということなのだろう。
見た目の派手さ、癖のあるしゃべり方、あるいは――。
脳裏に浮かぶのは、オールド・ファッションド。バーボン・ウイスキーにビターズを二滴、角砂糖にオレンジやレモンなどの柑橘のスライス、それからマラスキーノ・チェリー。賑やかな見た目だが酒そのものの配合自体はごくシンプル、そして名前の通りに「古い」カクテルだ。
古くさい、というわけではないが、何故だろう、この男にはどこか「古さ」を感じるのだ。遥かな時を経たような貫禄というか、何というか。年の頃は僕とそんなに変わらなく見えるというのに。……僕自身が何歳かも覚えていないはずなのだが、そう感じたのは、確か。
そのイメージを形にすべく、洗い終わったカクテルグラスを戻し、オールド・ファッションド・グラスに手を伸ばしかけたところで。
「あら、次のお客様が来たみたいね?」
男の声と同時に、ドアベルの音を響かせて、扉が開く。
マザー・グースの長すぎる一夜