自称魔女の男の鞄に提げられた風鈴の音ではない。控えめながらも確かな存在感のある、深みのある鈴の音。
顔を上げて、そちらを見やれば、閉じた扉の前には、一人の女性が立っていた。どうやら、今の音色はドアベルの奏でた音色だったようだ。
「いらっしゃいませ」
慌てて背筋を伸ばす。いや、奥の自称魔女も同じ「バーの客」ではあるはずなのだが、どうも「客」であることを忘れかけているところがある。
白を基調として紺や藍、薄青の模様があしらわれた着物姿に、黒髪を結いあげて薄赤の薔薇と銀色の蝶の髪飾りをつけた、若い女性だった。女性はその場に立ち尽くし、きょろきょろと物珍しそうに辺りを見回していたが、僕が声をかけたところでこちらに視線を向けてくる。
――青い、目。
青、と言っても、それが海をそのまま映したような深いブルーであることに、内心驚く。妙に現実味のない色、と言い換えればいいか。
海外から来た人だろうか、僕は日本語以外は喋れそうにないのだが……。記憶は未だに何一つ戻っていないというのに、悲しいかな、自分の語学スキルに関しては妙に自信をもって「無い」と言い切れてしまう。正直コースターに書かれたアルファベットの文字列だって、ぎりぎり何となくわかる、というレベルなのだ。
しかし、そんな僕の心配が杞憂だということは、
「こんばんは。……こちらは、何のお店ですか?」
という、女性の一言ではっきりしたのだった。
内心胸を撫で下ろしつつ、できる限り柔らかく聞こえるように意識して言葉を選ぶ。
「当店は、お客様に様々なお酒を提供しております。カクテルの他、各種の洋酒も扱っています」
こうは言ったが、僕自身がどうしてここにいるのかもわかっていないバーテンダーなのだ、この説明も本当に「この店」の説明として正しいかどうか。
「お酒! いいですね。……あ、でも、わたし」
お金、そんなに持ってないんでした。そう言う女性は心底申し訳なさそうな顔をしていた。「すみません」と扉に手をかけようとする女性に、思わず声をかける。
「あの、ここでは、『あなたの物語』が対価になるんです」
本当にそうなのか、僕は知らない。けれど、不思議と「そうだ」という確信もある。それが、この場のあるべき姿であり、きっと、僕もそうすべきなのだと。
僕の言葉に、女性は不思議そうに首を傾げる。
「あなたの物語、というのは、どういうお話でもよいのですか?」
「はい。あなたの経験でも、他の方にまつわるお話でも、もちろん、作り話でも。……『語ること』自体が、当店における対価となります」
……と、いうのは、未だ居座る奥の客の受け売りなわけだが。ちらりとそちらを見れば、僕の接客を見守っているのか何なのか、男とばっちり目が合った。とびきりいい笑顔だった。
何を考えているのかさっぱりわからない男から、改めて女性に視線を戻せば、女性はにこりと笑って言った。
「それじゃあ、一杯、お願いしてもいいですか?」
「もちろんです。お好きな席にどうぞ」
好きな席、と言っても元よりさして席数のない店であり、座る場所は限られる。何なら奥には自称魔女が陣取っているわけだが、女性は特に迷うことなく、一番奥の席から一つ置いた椅子に腰掛けた。
「では、何をお作りしましょうか?」
僕の問いに対し、女性は着物の袖から延びる、染みひとつない綺麗な手――僕の、ごつごつとした無骨な手とは大違いだ――を口元に当てる。
「お酒、詳しくないんです。何か、おすすめのものはありますか?」
「そうですね、お好きな味などがあれば、それに合わせてお作りできます。お酒の味がストレートに出るものの他に、柑橘系だったり、南国の果実であったり、あとはチョコレートやカスタードといった、お菓子のような味のものも作れますよ」
「そんなに色々できるんですか? すごい!」
と、無邪気にはしゃぐ女性を見ると、ちょっと誇らしさと同時に本当に期待に応えることができるか不安になってくる。しかし、ここに「店主代理」として立っている以上は、弱気な態度を見せるわけにはいかないと必死に態度を取り繕う。
「じゃあ、味は、甘酸っぱい感じだと嬉しいです。レモンとか、オレンジとか?」
「柑橘の味わいですね、かしこまりました。アルコールは弱い方がよろしいですか、それとも強い方がお好みですか」
「どちらでも大丈夫です。……でも、せっかくだから、ちょっと強めなやつがいいかもです」
なるほど、と頭の中にいくつかレシピを思い浮かべてみる。とはいえ、度数が高めの柑橘系を用いたカクテルは数多い。酒の種類に詳しくないなら、好みのベースを見出すことも難しい。
そこから客の求める味を推測するのが役目なのだろうが、僕は生憎、カクテルの知識はあっても「相手が何を求めているのか」を推測するのはあまり得意ではない――ような、気がしている。そこで愉快そうにしている自称魔女と違って、僕は別に人の心が読めるわけじゃないんだ。いや、彼だって僕の心を読めてるかどうかはわからないのだが。
……いや、そうか。
「あとは」
この店のルールに従うならば。
「お客様のお話を伺いながら、何をお作りするか考えてみましょう」
あなたの物語と引き換えに、一杯のカクテルを。本来の順番としてこれが正しいのかはわからない。ただ、求めるものについての判断材料は多い方がよく、この場合は『語り』だって材料になり得る。
女性は「楽しみです」と青い瞳で微笑んで、淡い色の唇を開く。
「わたし、旅をしているんです。長くこの辺りで過ごしていたのですが、そろそろ故郷に帰ろうと思いまして」
「故郷はどちらで?」
「ええと、本当に遠い遠い場所で。……多分、店主さんも知らない場所だと思います」
まあ、僕の聞き方が悪かったのだが、実のところ地名を言われてもわからなかった可能性の方が高いから、いっそそう言ってもらった方が助かる。だから、故郷そのものの話にはそれ以上触れることなく、女性の話すがままに任せる。
「ここも、すごく素敵な場所で、色々とよくしてもらって、離れたくない気持ちもいっぱいあるんです。でも、……」
女性は、言葉に迷うように、少しだけ視線を虚空に動かす。よくよく考えると、今まで女性と僕とはほとんど見つめ合うような形になっていたのだ、と一拍遅れて気づく。居心地の悪い思いをさせてしまっただろうか、と内心慌てたが、女性の沈黙はそれが理由ではなかったようで、もう数拍の後、言葉を落とす。
「ホームシック、って言えばいいんでしょうか。やっぱり、故郷のひとたちに会いたくなっちゃって」
「それは」
当然のことだと言いたかった。けれど、何故だろうか。
――僕には、それを言う資格がない。
そんな思考が、脳裏をよぎる。
ホームシック。僕は僕自身の名前もわからなければ帰る場所もわからず、しかし、そのことを少しでも思い悩んだだろうか。
僕は、この夜が明けたらどこに帰るのか、少しでも考えただろうか。
記憶が無いことへの戸惑いは間違いなくあるが、あくまでそれは「戸惑い」でしかなく、「恐れ」や「不安」、「さみしさ」といった感情が付随していなかったことに、今、初めて気づかされたのだった。
とはいえ、それは僕の事情でしかなく、女性の事情とはどこまでも無関係の話。一度は喉の奥に飲み込んでしまった言葉を、改めて頭の中で練り直す。
「それは、……あってしかるべき思いだと、思います。どれだけよい場所でも、別の場所であることには、違いありませんから。あるいは、思い出の場所がまた一つ増えた、ということでもあるのだと思いますが」
「ふふ、確かに。帰ったら帰ったで、今度はこっちが恋しくなっちゃうかもです」
愛らしく、しかし上品に笑ってみせた女性は、「でも」と今度は打って変わって明るい声を上げる。
「さっきまで、西の空にお月様が出てたんです。猫の爪みたいな、とっても綺麗な三日月」
そういえば、このバーには時計がないから、今何時なのかもわからなかったのだ、と気づく。ただ、さっきまで、ということは三日月が西の空に沈んだ頃で、そこまで深い夜というわけでもなさそうだ。
「その月が、故郷で見上げていた月とよく似ているって気づいて。……きっと、向こうに帰ってからお月様を見上げたら、こっちの大事な人たちも、同じ月を見上げてくれてるのかな、って思えたんです」
僕は女性の故郷を知らない。もしかすると、女性の故郷で月が出ている刻限に、こちらは真っ昼間だったりするのかもしれない――なんて言ったら、自称魔女にこっぴどくダメ出しされそうだ。今は大人しくしているが、絶対に、僕らの会話をきっちり聞いているに違いないから。
それに、いくら僕だって、女性の言いたいことくらいは流石にわかる。
同じ空の下にいる。同じ月を見上げている。それが心の支えになる、という経験は……、僕にあったかどうかは思い出せないが、けれど、不思議と「よくわかる」気がしたから。
「そうですね。きっと……、繋がっていますよ」
これは、根拠があるわけではないが。僕の「そうであってほしい」という、偽らざる思いである。
それが女性に伝わったかどうかはわからないし、喋りすぎたような気もする。ただ、女性が屈託無く笑ってくれたから、きっとそこまで余計な言葉ではなかったのだろう、と思うことにする。
「ありがとうございます。……話すと、ちょっと気が楽になるものですね」
女性の朗らかな笑顔を、僕はどういう表情で受け止めているだろうか。それすらわからないまま、グラスを手に取る。
「こちらこそ、素敵な『物語』をありがとうございます。それでは、あなたのための一杯をお作りいたします。しばしお待ちください」
話を聞いている間に、イメージは固まった。
先ほどまでとは別のジンを棚から選び、次いでレモンジュースを取り出す。それから、どこにあっただろうか、としばし棚に視線を巡らせて、見つけた瓶を手に取る。その様子を見ていた女性が、「わあ」と声を上げる。
「綺麗な紫色!」
「パルフェ・タムール。味わいは柑橘系ベースですが、スミレの香りが特徴的です」
「お花の香りのお酒なんてあるんですね」
「今回は、こちらを使った一杯をご用意いたします」
シェイカーに七分目まで氷を詰め、ジンを注ぎ、その半分量のパルフェ・タムールとレモンジュースをそれぞれ注ぎ入れる。
蓋をしたシェイカーを両手で持つ。この瞬間は、今まで以上に緊張する。女性の青い目が、興味津々とばかりにじっと見つめてくるのだから尚更だ。
そして、一つの疑念が脳裏をよぎるが、その可能性を直視してしまうと心が折れそうだったので、虚勢でも何でも胸を張り、手首のスナップだけを意識して無心にシェイカーを振る。
手元から響く涼やかな音色。言葉の絶えた店内で、柔らかなBGMに音色を加えながら、本来別々であった酒を、ひとつに混ぜ合わせていく。
そして、手を止め、シェイカーからグラスへとカクテルを注ぎ、コースターを添えて差し出す。
「お待たせいたしました。ブルー・ムーンになります」
グラスを満たしているのは、紫と青の境目を揺らぐ色合いのカクテルだ。
「ブルー・ムーン……」
ぽつり、女性の呟きが、虚空に溶ける。
そう、これから故郷に帰った女性が見上げるであろう月であり、あるいはその、青すぎるほどに青い瞳をイメージしたものでもある。そして――。
「ブルー・ムーンとは、言葉通りに『青い月』と訳すこともできますが、『一月に二度目の月』を指す言葉でもあります。転じて『珍しいこと』 『めったに起こらないこと』、そこから更に連想を重ね『奇跡』や『幸運』あるいは『幸福』を示すとも言われています」
だから、この一杯は、これから遠くへと旅立つあなたへの、餞別といえよう。
どうかその道行きが、あなたの人生が、幸福なものでありますように。
女性が恐る恐るといった様子でグラスに手を伸ばし、そっと口に運ぶ。見た目からは全く味が想像できなかったからだろう、一口飲むまでやや不安げだった表情が、ぱっと晴れる。
「すごい、不思議だけど……、素敵な味。こんなの、初めてです」
飲む香水、とまで呼ばれるパルフェ・タムールのスミレの香りは、正直なところ好みを選ぶ。けれど、どうやらお気に召していただけたようで、こちらもほっとする。
とはいえ、甘く華やかな香りではあるが、決して弱い酒ではない。一口、また一口と舐めるように味わっていた女性が、顔を上げて、僕を見る。
「ありがとうございます。また一つ、幸せな思い出が増えました」
果たして、その言葉に僕はどう返すべきかもわからなくて。
せめて、上手く笑えていたらいいなと、思うばかりだった。
マザー・グースの長すぎる一夜