マザー・グースの長すぎる一夜

04:口ずさむ

 マティーニを傾けながら、考えてみる。
 ここは、一人の魔女――「魔女」も「魔法」も僕からすれば現実味からかけ離れた話ではあるが――が作ったバーであるらしい。ただ、今日に限って店主マスターの魔女が不在であり、代わりに僕が代理のマスターとしてに立っている。何も覚えていない、僕が。
 ただ、僕もまたこの店に何らかの縁があるのは確かだろう。そうでなければ、ここまでスムーズに体が動くことはない。この「何らかの縁」の正体は、未だにさっぱりわからないままだが。
 口の中に広がるマティーニは、少しだけ何かが物足りない味をしていた。ミキシンググラスの中で氷が溶けすぎていたかもしれない。ジンとベルモットをあらかじめ限界まで冷やしておく方法もある、と聞いた記憶があるから、次はそれを試してみようか。
 ……僕自身のことは何一つ思い出せないというのに、どうして、カクテルのことはスムーズに思い出せるのだろう。それとこれとの間の差異を見いだせないまま、グラスの中のマティーニを飲み下す。
 すると、しばし黙って手元のグラスの中身をちびちび飲んでいた男が、顔を上げて言う。
「趣味のいいBGMね。あんたが選んだの?」
 言われて、ふと、流れている音に耳を傾ける。男の荷物が鳴らす風鈴の音色以外の音を意識していなかったことに気づかされた、とも言えた。
 そのくらい、自然にこのバーという空間に馴染んでいる、ピアノの音色。しっとりとした、それでいて重たくはない、ジャズの調べ。
「いえ、本来の店主マスターの趣味だと思います」
 そう答えると、男が「あら」と首を傾げる。
「もしかして、記憶が戻ったとか?」
「そうじゃないんですけど、……私は、こういうものに疎い、ような気がしていて」
「うんうん、あんた、そういう顔してるもんね」
「私、どんな顔してるんですか?」
 あと、仮に本当にそういう顔だったとしても、初対面の相手に言っていいことではないだろう。僕は別に不愉快には思わないが、この調子で他の誰かに言い放って怒られたことはないんだろうか。ちょっと心配になってしまう。
 男は僕の問いには答えず、軽く肩をすくめるのみ。代わりに、BGMに合わせて小さく曲を口ずさみ始める。小声ながらも歌詞を乗せたもののようだったが、その歌詞ははっきりとは聞き取れない。……いや、これは、日本語ではないのか。
「この曲、ご存じなのですか」
 僕の問いに、男は曲のきりのいいところまで歌いきってから、
「 『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』、ジャズのスタンダード・ナンバーよ。『私を月まで連れてって』なんて、ロマンチックよね~」
「私を、月まで連れてって……」
「アタシもそんな風に言われてみたーい! そんな風にお願いされたら、月だけじゃない、木星や火星の春だって、何だって見せてあげちゃう!」
 一体何にそんなにはしゃいでいるのか、男は虚空を抱きしめるような仕草をする。
「何よその目。浪漫を解さない男はモテないわよ?」
「別にモテたくて生きてるわけじゃあないですからね」
「やだー、そういうとこ、かわいくなーい!」
 もちろん、記憶があった頃の僕がモテたいと望んでいた可能性もゼロではないが、あまり期待はできない。記憶があろうがなかろうが、根本的な考え方にそこまで相違があるとは思えないからだ。
 だから、きっと、記憶があったからといって、僕は同じことを言っただろう。
「どういう気持ちなのでしょう、月まで行きたい、というのは」
「は?」
「月は、確かに地上から見ると美しいものですが、実際には砂と岩ばかりの土地だというでしょう。研究目的ならともかく、私にはそこまで魅力的な場所だとも思えないのですが」
 男が口走った火星も同様であるし、木星に至ってはそもそもガスの塊のはずだ。行くのも難しければ「春」なんて概念があるとも思えない。
 その言葉に、男は「わかってないにもほどがあるんじゃなーい?」と、心底呆れた、と言わんばかりに僕を睨んでくる。
「まず、この歌が作られた時代はね……、っていう御託はいっか、あとで調べなさい。調べりゃすぐ出てくるから」
 でも、一つだけ。そう言って、男はごてごてと指輪をつけた人差し指を立てる。
「イン・アザー・ワーズ。日本語で『言い換えれば』というのが元々のこの曲のタイトルだったのよ」
 まあ、その名前じゃ広まんなくて、今や『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』が正式なタイトルになってるけど、と男はもう一度肩を竦めてみせる。どこか演技がかった大げさな身振りも様になっているのがこの男の特徴ともいえる。
 言い換えれば、つまり――。
「 『月まで連れてって』というのは、言葉通りの意味じゃない」
「そ! ちゃーんと歌の中で懇切丁寧説明してくれてるんだから」
 唇を尖らせた男が、ぽつりと、言葉を落とす。
「言い換えれば、『愛してる』ってこと」
 愛してる。
 どれだけの言葉を尽くしても、結局はそんなシンプルな答えに集約されるということなのか。
「最初からそう言え、って顔してるわね」
 男は、そんな僕の気持ちをどこまでも正しく読み取ってくれたようだ。果たして、男が鋭いのか、僕がわかりやすすぎるのか。確かめるまでもなく、この場合は後者だ。遺憾ながら。
「実際、あんたみたいな奴に向けた歌なのよね、これ。愛する人に言葉を尽くして詩を書いたはいいけど、伝わんなきゃ意味が無いから、っていちいち『言い換えれば』って説明してくれるのよ」
 ――伝わらなければ、意味が無い。
 どうしてだろう、その言葉に、胸を鋭く刺されるような心持ちがした。僕は詩情を解さないのだから、それを相手に向かって言い放つ側だというなら、まだ、わかる。だが、逆に「伝わらない」ことを責められているような気がして仕方が無い。
 だが、どうしてそう感じてしまったのかは、どうにもわからない。ただ、ただ、妙にいたたまれない気持ちで、棚に並ぶ酒に視線を逃がす。
 この歌に似合うカクテルは何だろう、月を扱ったものよりも、きっと本来伝えたかったことに近い方がいい。
 例えば、ミルク・リキュールにホワイト・ラム、ピーチ・リキュールにレモン・リキュール。優しい味わいながら、確かなアルコールの熱を秘めたそれは、イノセント・ラブという名前のカクテルだ。僕は「愛」というものがよくわからないけれど、「愛してる」という言葉の真っ直ぐさに、きっと相応しい。
 伝えたい。伝わってほしい。人が人である限り、本当の意味で自分の中にあるものを相手に伝えることは難しい。そこには必ず何らかの「伝達」が必要で、その手続きを取った時点で、自分の中にあるものからは必ずどこか変質する。
 それでも知ってほしいし、知りたい。そう願って手を差し伸べることで、人と人とは繋がっていくものだ。
「これもまた、一つの『語り』よね。語るのって、一人じゃ成り立たないものよ。伝えたい、と思う相手がいて、初めて『語り』はそこに立ち上る」
 はっとして男に視線を戻せば、まるで僕の内心を見透かしたかのように、ぎょろりとした目を細める。自称とはいえ「魔女」なのだから、案外本当に僕の心を読んでいたのかもしれない。
 いつの間にか別の曲へと変わっていたBGMの合間に、知らない音が混ざり込んだ。