マザー・グースの長すぎる一夜

03:鏡

 自分についての記憶が無くても、カクテルを作るのには困らない。手が勝手に動く、といえばいいのか。レシピ通りに計量し、注ぎ、ステアする。一連の動作を終えて、ロックグラスいっぱいに満たされた、紅のカクテルを差し出す。
「どうぞ」
「ありがと」
 グラスを手に取り、男が笑みを深める。面構えはちょっと不気味で、言っていることも胡散臭さの極みではあるが、比較的親しみの持てるタイプではあるらしい。気取った風ではなく、「作った」風でもない。相手を問わず親しげに振る舞える、そういうタイプなのではなかろうか。
 そして、男の言葉に流されるままに、こちらもごくごく自然に動いてはいたが――。
「……作っちゃったんですけど、お代のこと何も考えてませんでしたね」
「記憶喪失とは無関係のボケよね、それ」
 お代の話をしようとしているにもかかわらず、男は遠慮無くグラスに口をつけている。一口飲んで「そうそう、この味この味」と一人で納得してみせてから、顔を上げて僕を見る。
「じゃあ、この一杯に相応しい『物語』を語りましょうか」
 ――あなたの物語と引き換えに、一杯のカクテルを。
 男の前に、実際に使った酒の瓶を並べながら、僕はつい問わずにはいられなかった。
「確かにコースターにもそう書いてありましたが。どういう意味なのか、ご存じなのです?」
「言葉通りでしょ。客が語る一つの『物語』に対して、一つのカクテルを振る舞う。そうすることでこのバーは成り立ってる、ってアタシは聞いてる」
「成り立つんですか、そんなやり方で」
「成り立つんじゃない? 魔女が経営してるっていうバーだし、こう、イッパンジョーシキってやつは通用しないとこあるんでしょ、きっと。メイビー」
 何一つ確定情報ではないのが恐ろしいのだが……。それなら、ここに並んでいる酒の瓶や、グラスたちは一体どうやって買い求めたものなのだろう。魔女の業界には、『物語』で現実に酒やグラスを提供してくれる店が別に存在しているのだろうか。謎が深まるばかりである。
「とにかく、何でもいいから語ればそれが『お代』として成立する、ってのがここのルールよ」
「……本当にそれでいいのかは、ちょっと、すごく、不安ですが。それに、『何でもいい』と言いましたが、中身は問わないのですかね」
 語る、と言っても、その内容は千差万別であろうし、語り手により長さも質もまちまちだろう。そして、あなたの物語、というからには、その当人が当事者となった話でなければいけないのではないか、とも思ったのだが――。
 そうねえ、と髭を生やした尖った顎を掻きながら、男は言う。
「アタシはここの魔女じゃないから、ほんとのとこはわかんない。でも、他人の話だったり、まるっと作り話だったりしても、そこに語り手の存在は自然と滲むものよ」
 語りって、そもそもそういうものだもの。言いながら、もう一口、赤い液体を飲み下す。
「他者に語る、という行為は、自分の中にあるもやもやとしたものに、自分のやり方で言葉という形を与えることでもあるの。語ろうとしている事実は一つかもしれないけど、その語り方は無限大、何一つ同じものではあり得ない」
 つまり、このバーを作ったという魔女も、その「無限大」の広がりに惚れ込んだということなのだろうか。語りを持つ者を集め、一つひとつ聞いてみたところで、その間にも刻一刻と広がり続ける、めくるめく『語り』の世界。なるほど、そう考えてみると、ごく当たり前のことでも魔術的に感じられなくもない。
「だから、試しにやってみましょ。アタシが語り手、あんたが聞き手」
 男の指輪まみれの指が、自分を指し、僕を指す。
「ま、適当に聞き流しててくれていいわよ。手持ち無沙汰なの、苦手そうなツラしてるし」
「うっ」
 人の話を聞くのは決して苦手ではない……、とは思うのだが、それはそれとして、手を止めて、相手の前に立って話を聞く、ということには向いていないという不思議な確信がある。そんな確信ほしくはなかったが。
 あと、僕はそんなにわかりやすい顔をしているのだろうか。やっぱり後でしっかり鏡を見てきた方がいいかもしれない。
「それじゃ、これはアタシの旅の途中のお話なんだけど」
 語り始める男から視線を外し、ミキシンググラスを氷で満たし、かき混ぜることでグラスを冷やす。話はもちろん聞いているが、彼の方から提案してくれたことだし、話している間にじっとされていても居心地が悪いのはお互い様、と思うことにする。
「アタシ、色んなとこを旅してるから、決まった場所に留まってるってことがなくて。だから、知り合いはそれなりに多くなったけど、一期一会、って感じで二度と会えないだろう人がほとんど。顔を思い出せなくなっちゃった人も多いかな」
 ……つまり、ここに来たのも、僕と話をしているのも、一期一会ということか。いつかは彼の口から「語られる」側になる出来事のひとつ。あるいは、僕からも、彼からも、忘れ去られてしまうのだろう、そんな邂逅の一つに過ぎないということだ。
「でも、そんな中で、偶然……、ほんとに偶然、昔なじみに出会ったの。お互いに、こんなところで会う? って感じの場所だったから、余計にびっくりしちゃった。そんで、一緒に飲みに行って、積もる話もいっぱいでさあ」
 決して声がいいというわけではない。引きつるような響きを帯びた、甲高い声。それでも、男の喋り方はどこか心地よかった。おそらく、リズムがよいのだ。言葉の数は多いが、それをごく自然に相手の脳裏に刻んでいく声。
 語りの流れに身を任せながら、男の前に置いていた瓶のうち、ジンの瓶をもう一度取り上げる。その中身が十分満たされていることを確認して、頭に浮かぶレシピに従って計量し、ミキシンググラスに落とす。続けて、ジンの三分の一分量のドライ・ベルモットを加えて、ステア。
 マティーニ。カクテルの王様。レシピ自体はいたってシンプルで、シンプルだからこそ、作り手の腕が試されるカクテルとして知られている。僕も決して「上手く作れる」ものではなくて、故にこそ、時間が空いていたら作って味見をしてみる、いつものレシピの一つとなっている。
 ――いつもの、とは、いつの話だ?
 手を動かしているうちに当然のごとく浮かんだ「習慣」の記憶。だが、そこに紐付いているはずの僕自身のエピソードは、相変わらず深い霧の向こう側。
「で、その時は、その限りだと思ってた。でも、それから行く先々でそいつと会うようになっちゃってさ」
 その言葉に、思わず、カクテルグラスに注ごうとしていた手が止まる。
「……行く先々で、ですか?」
「もちろん、示し合わせたわけじゃないし、そいつがアタシを追っかけてたわけでもないのよ、それは確実。なのに、行く先行く先でそいつがいる。不思議よねえ」
 それは、単なる「不思議」で済ませていい話なのか。男の語り口に対してどういう感想を抱くのが正解なのかわからないまま、ただただ、耳を傾けることしかできない。
「そいつも不思議だったみたいなんだけど、ある時に顔を合わせたら、はっと何かに気づいたみたいに、アタシにこの手紙を渡してきたのよ」
 と言って、纏っている幾重にも重なった布の間から、紺色の封筒を取り出す。封筒の表面には、無数の銀の粒が煌めいていて、四角く切り取られた星空のようだ。宛名はない。ただ、封をしている深い赤の封蝋、そこに刻まれた羽の紋様が、妙に印象に残った。
「この手紙を、『マザー・グース』のマスターに渡してくれ、って言われて。アタシがここに来たのは、実はそういう理由なの。ここの噂も、そいつから聞いた話。物語と引き換えにカクテルを飲ませてくれるバーなんて、面白そうでしょ? だから、お願いを聞いてあげることにしたってわけ」
「なるほど……?」
 確かにこれは『物語』だ。目の前の自称魔女が、魔女の経営しているというバーを訪れるまでの物語。ただし、預けられた封筒を渡すべき「マスター」はここにはいなくて、代わりに記憶喪失の僕がいた。そういうことだ。
「とはいえ、そいつはバーの場所は知らないみたいだったから、めちゃくちゃ探し回っちゃった」
「……本日は、その方とは、ご一緒じゃないんですか?」
「それがね、この手紙を受け取ってから、また会えなくなっちゃったの。……案外、そういう『縁』だったのかもしれないわ」
 男は封筒をくるくると回してみせながら、言う。
「そいつは、きっと、自分ではこの場所にたどり着けなかったんだと思う。だから、直接マスターに渡すんじゃなくて、アタシに任せた」
 回る封筒から視線を外し、氷が溶けて薄まってしまう前に、ミキシンググラスから、カクテルグラスにマティーニを注ぐ。
「 『マザー・グース』にたどり着けるアタシと、たどり着けないあいつ。アタシの目的地がはっきりしたことで、同じ場には存在し得なくなった――みたいな、ね?」
 また、因果がねじれているような感覚。言葉自体は理解ができているはずなのに、決定的なところで何かが狂っているような、感覚。
 その違和感を振り切るように、オリーブを沈めて、レモンピールを飾って――。
「これで、アタシのお話はおしまい。……ねえ、それ、マティーニよね」
「はい」
「今は会えなくなっちゃったそいつもね、よくマティーニを頼んでた。『これ、作ろうとすると案外難しいんですよ』って、言ってたっけな」
 せっかくだから乾杯しましょ、と、男がネグローニのグラスを持ち上げる。
 僕は彼の話の一端も理解はできていないのだと思う。このバーのことも、ここのマスターのことも、この店を探していた誰かのことも、何一つ、理解はできていない。
 それでも、この場にいるのは僕とこの男だけで、彼の話を聞き届けるという「手続き」を経て、少しだけ、目には見えない何かが確かに「埋まった」ような感覚を、覚えていた。
 その、不可思議な充足感を、喉の奥に飲み下して。
 マティーニのグラスを、持ち上げる。
「乾杯」